三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


生きることの実際 



 はい、今晩は、どうもお待たせをいたしました。

 この講話を初めてお聞きいただく方もいらっしゃいますので、お話しておきますけども5回、6回と続けてなんべんもお聞きくださった、ということで、それで、さらにいっそうよく治られるかというと、そういうのとは違うんですねえ、まったく。

 ちょうど離島とか僻地とよばれる地方で、複合的な学級構成、つまり1年生と2年3年あるいは高学年の人と低学年の人、それはやむおえないことながら、わずかな人数の先生が、同じ教室で違う学年の生徒を教えておられるというのは、あれはご苦心でありましょうけれども、そういうこととおんなじことなんですねえ。ここで勉強をすればするほどよく治られるかというと、そんなことはまったくありませんのです。それで試験もありませんのですね、やれ助かったとおもわれるかもしれませんけれども。

 どちらかというと勉強に近いのは月曜日と木曜日と土曜日の、あのスライドの時間ですね。私が下手な説明をすれば、それはいくらか勉強に関係があります、歴史、美術の歴史ですね。そういうものは勉強ですけども、見るっていうことは、日本のものをご覧になっても、ヨーロッパのものをご覧になっても、目のはたらきになんの違いもありませんですね、目はただ見るばかりです。ここが大事なんですね、見るばかり。

 それが、目だけでなく鼻も口も耳もですね、五感に感ずるばかり、身体はこのとおり生きるばかり。ということは人間がずいぶん忘れておりまして、人間以外のいかに高級な霊長類であるとされるチンパンジーでも、もうそれ以下の動物はことごとくですが、外のものを考えるというこまやかな脳の働き、高度な知能はもちあわせません。と同時に、自分自身に対して考えるということのはたらきもまた、たいへん少ないんですね。ほとんどないといっていいです。それはイメージとして捉えることはまずありませんです。ただ強い恐怖としての記憶がわずかながらあるもんですから、そういうのを避けますですね、上手に避けます。その人間以外の動物のことを人間は、脳の働きが劣ると考えて、人間がしたがって偉いのだというふうに位置付けて、人間中心のものの見方がこの近代においては、ますます哲学もそうですけれども、そうなってまいりましたんですね。

 で、それで今また悩む人が多いという現実はですね、よく振り返ってみますと、自分をイメージとして捉えるということの上に成り立っているわけです。したがって、猿知恵と馬鹿にしていますけれども、猿のほうが自分をイメージとして捉えるということがありえないですから神経症というものは成り立ちません、つまり神経症にはならないんですね。

 で、そこまで見抜いたら、私たちは今日から神経症をどう治すかという、世間一般の精神療法、心理療法あまた世界にありますけれども、どれもどう治すかなんですね、問題は。ところが、ここのはそれではなくてですね、神経症っていうのは、もう成り立ちようがないという状況で、皆さんがこの講話の終わりを約1時間足らずのちにむかえられる。ということは治っておられるということですね。これはもうものの見事に人間であることの本来の証、これが人間存在の見事さなんですねえ。ところがなまじっか人間はいろんなことをよく考え記憶し、それを使って将来に理論化した自分の生き方というものを組み立てるもんですから、それを人から聞いてまた情報として使って、というふうに、外へ外へは発展して結構ですけれども、自分というものを、こう処理しにくい、お互いのその難しい問題を世間の人はそこそこいい加減にしているわけですね。それがいけないと、そんな、この生きるということの意味をはっきりしないで、うかうか生きて、それはもう酔生夢死ではないかとですねえ、そういうふうに思う人は、やっぱり自分を大事にする、自分の生きる意味を問う。と、こういうことになりますね。で、皆さん方はご熱心ですから、はっきりと、その生きる意味を明確になさって、これこそ本当の人生という道を歩きたいと思われますですね。で、そこで引っかかりが起こるとは、なんたる残念なことでありましょうか。

 本当はこれで、実を申しますとですね、世間の人がいい加減に済ましているという、そのことが良いように見えるんですね。ところが、それはまだそういう困った状態に立ち至らない、あるいはつまずかないために、そうであるだけの呑気な話でですね、皆さん方が一足お先に、というかっこうで、これをどうしたもんかと一度ご自分を振り返られたときに、簡単には解けないという現実にぶちあたられてですね、そこで、これはほっとけない問題であるとして、その解決に、これはもう全力をおあげになったというこの経験が、これは共通しておありになります。

 人生の問題を自らの力で解決するっていうことはとても素晴らしいことのように思われていますから、良いこととしか思えないんですね。それで、一般の呑気な人が健康であるかのようにいうてるのが、うらやましいですけども、あれもまた良くないわけですねえ。

 いったいどうなんかといいますと、悩みをもつということは人間らしいことなんです。生きる意味を問うということは、たいへん重要なことであるんですけれども、そこでその解決のために、人間の知能を使うというところで間違うんですね。それは使わなくていいんです。問題をもったままで一歩を進めれば、それが直ちにその瞬間に、治った現実の見事さなんですね。つまり本当の生きる姿が現れ、森田先生はそれを「努力即幸福」と、非常にはっきり見抜いて、あの額に見られるとおり表現しておられるんですね。

 そこでなんか話が、ぽんぽんと飛んでるようにみえますけれども、神経質的に、世間の人ならそんな細かく考えなくていいとかですね、もっと大雑把で過ごせるだろうとかですね。若い精神科の人っていうのは、だいたい自分の考えを押し付けますね。そんなん考えんでいいです、そこまで考えんでよろしい、とかね。あれはもうほんとに下手な、一種の人生訓ですねえ。あなたの考え方は、それはこうです、とかいうのは、もうほんとに馬鹿げた話で、失礼なことなんですねえ。

 で、人がそれぞれ限りなく様々に、いろんな考え方をする、受け取り方をする、というのはその人らしさなんです。それはそれで肯定、そのまま認めるというんですねえ。ただし、解決のために知的な要素を持った、抽象的論理的な取り組みは一切やめてですね、問題を解きたいのはやまやまですが、解かずに実際の生活を今なされば、それが全治なんですね。それは考えによらない行動ですから、そこで一般には難しいなあということになっているんですね、難しいのでもなんでもないのです。

 答えを出さずに答えを出す前に実行するという、そこが合理的でないために、筋が通らないために、やっぱり筋を通して自分の心の問題を先に解決したらいいだろうと思ってしまう。それがいわばあとからみれば落とし穴ですね。なにも神さんがそんなもん、落とし穴つくられるはずはないんですけど、人間であるということでそうなってしまう、猿でしたらそうならないんですね。

 で、もうそんな議論をやめて、外の多くの問題、世界がどうのということについて、皆さん方が人間らしい知恵を発揮して、多くの情報を処理して有効に使っていらっしゃる、これはもう今まで以上、今までどおりで結構です。その次にですねえ、今度は自分対自分の問題については、今晩からもう一切それを結論づけない、こうだ、ああこういうもんだ、とかね。

 もう一つ面白いのはですねえ、森田療法ってのは、「症状をあるがままにして必要なことをする」っていうんだなあ。とかですね、これ一番馬鹿げているのです。わかっているというてる間は治らないからですねえ。ここはほんとに皮肉なもんでですね、皆さんが「ああわかった。今日の講話はよかった」とかいうて喜んでくださるのは私もうれしいですけれども、そういうておられる間は治らないわけです。

 で、「わかったうれしい」はっとこう、「ああこれが人生の極意だ」とかいう前に実際のことを生活を、あるいは作業を勉強をなさるというそれが見事な全治の状態、あるいは極意なんですね。その微妙なところをよく実行において体得していただきたい。頭でわかるということでないのですから、身体、動き、生活でわかる、それを体得。とこういうんですね。

 それは猿がやっているところです。これ、幸か不幸かとこういいたくなりますですね。この人間らしい生活をおくっていることは幸運、幸福そのものです。けれども、自分対自分の問題に引っかかるのは猿以下ということになるんですねえ、これは不幸ですねえ。

 非常に俗っぽい話をしておりまして、世間では外の問題も心の問題も同じ論理で同じ考え方で処理しようとする人ばっかりですから、ですから私みたいにいうてるのは、ほんまの一握りですね。いるかいないかわからんぐらいの人間がそういうてるだけで、大勢の人のいうてることが本当だとしたら、もうこれ全部ひっかかって、どうにもならん状態に陥るというかたの救われようがないんですね。

 ですから、外のことはもうなにも私が追加して申し上げるっていうことは一つもないです。ですから、ここで大いに作業に朝から晩まで忙しい生活を送っていらっしゃるということはもう立派なことで、ほんの少しも「これが自分だ」という説明をなさる暇がない、あるいは意識的にそういうことはいわない、というふうにして努力おられるという皆さんの姿は立派なもんです。それで最高の人生です。そういうことを保証することが私の役割ですね。

 「自分についてこうわかりました」とか、「自分の問題を自分で解決しました」とか、「いままで気がつかなかった自分を発見しました」とか、これみんな落第なんですね。だいぶ厳しいんですよこれ、ここの講話は「まあそんなもんです」と、世間の人じきにほれ「まああのう」とかいうでしょ。あれは耳について、私ははなはだ具合が悪いことだとおもうんですね。ぴちっというたらいいものを、「まああのう」とかいう。そんないい加減なものと違う。心の問題は、だいたいそんなもんですということではありませんのです。一切、これを皆さんが知的に取り上げなさってはいけませんのですね。

 この間、たいへん中途半端なお話をしてですね、ルネ・デカルト。デカルトっていう人は、フランスの哲学者ですけども、私は考える、それで自分がある。「我考ふ故に我在り」と、明治頃の人はそう訳したわけですが、自分がこうあるということを考えてることだけは、ほんとに信じるも信じないも事実ですねえ。あとのことはどうも確かな材料にならんと。そこまでこうきちっというたんはもう立派なことで、ほんとにそういう人が出てこないといけなかったんですねえ。ところが、「故に我あり」というた途端に落第するわけです。いかにデカルト先生でも、「故に我あり」というその論理ですねえ、こうだから自分はこう存在する。という、それをいうたらいかんのですねえ。で、もうなんかあんな偉い先生がいうている、皆んながそうだと感心していることがら、それはその事実だけが立派なんですよ。だけれども、それを自分のこう生きていることに使うという段になったら、やっぱり現代の皆さんがお考えにならないといけないんですねえ、ほんとにそうかどうか。

 で、うれしいことに、誰がなんといおうと、この講話で申し上げてますのは、この私のいうことを信じてくださいと、森田先生もこうおっしゃってますからそれも信じてくださいとですねえ、そういうふうに思想的に押しつけるものはなにもありません。ただ事実このとおりですというその事実に生きていただけましたら、私の申し上げるそのほかのことはありませんのですね。

 事実による生活というのを、あるがままによる生活というてもよろしいし、やや宗教めいていえば、『禅による生活』 “Living by Zen” とこうですねえ。こういう、これはなんで英語でいうかというと、そういう本があるんです。鈴木大拙博士の “Living by Zen” と、なんだろうと、私は若い頃、それものすごく魅力的な本でですねえ、なにがそれなんかと、よう一生懸命考えました、考えることで落第するんですねえ。生きる姿は考えにもちこしてはいけません。抽象的論理的思考っていうものを使ったら、ほんとの人生はそこに生き生きと現れてこないんですね。抽象的論理的思考って難しいこというようですけども、教育がすべてそうなんです。学校で習ってるのはみんな抽象的論理的思考ですねえ。

 なんにももったいぶって、こんなんいわなくてもよろしいので、考えですね、筋の通った考え。それは必ずそこになにかを持ってこないで、そのものの代わりに言葉でいうてるわけですねえ。ここにリンゴがあるとしましょう、とかいうてですね、リンゴっていうのは美味しいです。とかいう、そして人にわからせようとするんですねえ、なんにもこうないわけですねえ。そういうふうなことをリンゴについて、外のものについていうてる分には差し支えないんですね。

 ところが心についてをそれをいうたら、事実ないものを作る。あるいは作りぞこないをするんですね。考えた自分というものを作るんですね。自分というものを本当にそんなもんとしてあるだろうか、ですね、こういうもんだと思っているだけのことで、たいへんモヤモヤした夢の世界のようなもんです。それを大体わかる形に、あの人と自分とはこう違うという、そういうことで大体こう描いているんですね。

 そういう人との違いを描きにくい小学校の低学年でどうです、昔みなさん小学校1年生、2年生のころ先生がいろいろ聞かれたら、僕もそう思います、私もそうです。というて、私らの組は皆そうでしたけれども、よう自分の違うことをいえないですわねえ。ものすごうそれが印象に残ってますねえ。それだけまあ批判というのはそうし、ところがその自己批判というのができるようになってきますと、明確に自己らしさっていうものを描いて主張するようになりますと、心といういくらでも変化して、限りなく様々に違った状況、自分の思いもよらん別の状態になったりするものですね、する現象です。ものって、ものは、ほんとは申し訳ないんですけど、心という現象なんですねえ。ものっというたら物質なんですねえ。ものというたらいけないんですけども、ほんとに口癖で長いこと私も心というものと時々いうて、しまったと思う。世間では一般にそうですねえ、心というものはこうだとかいうてる。実際はねえ、はなはだ明確にしにくいものなんですねえ。

 で、それを、なぜかっていいますと、これは、心の中は普通の世間の筋、理屈と違った理屈が支配している世界だからですね。心の中もいっしょだろうとみんな思うだけの話で、その違いに気がつけば、もうあとはなんにも引っかかりなくいけます。おんなじだと思いますから、法則みたいに決めて、その通り心の中を処理していこうとするんですねえ。例えば森田先生が「感情の法則」ってなことをいわれるとですね、「あっ、これだ」と思って、それに合ったように心を見ていこうとするって、こんなん抽象的論理的思考の失敗ですね。法則は法則で抽象化して、心の一般的な性質というので心理学的に作り上げておけば、それはそれでいいんですけども、なにも合わさんならんことはないのです。心はこのようにして、誰がなんといおうと。というんですね、森田先生がなんとおっしゃろうと、そのお言葉にもかかわらず心はこのようであるという、その今のそう感じて、そう考えている心に関係なく今の仕事をするんですから、もうおわかりのように、森田先生とそっくりであろうがなかろうが今の仕事、生活をする。

 心に関係なくするというところで全部、今までのあの大変な心の問題の、やっかいな解きにくい問題が解けるわけですわ、全部。今まではまともに取り組んで解決しようとなさったでしょうから、とても大変でしたけれども、これからは、その考えに関係なく今のことをするんですから、心をこれほど軽く扱う治療法はないんですね。心を非常に重要だと一般に考えておりまして、その自分についての考え方が好ましい方に変わるのを治ったといおうとしている精神療法ばっかりといってもいいぐらいですねえ。こういうのが治った状態ですと、そういうふうにしている。

 ところが窮極はここに、黒板に書きましたように、抽象的論理的思考というその結論がですねえ、人間の心のあり方に大変具合が悪いものですので、どのように決めても脱線。自分はこれでいいのだと決めても、これではいけないと決めてもどっちも脱線ということは、この間講話でお話したところですねえ。ですからどっちでもないんですね、答えのないもの、あるいは決められないもの、決められないってのは、決められてないものという受け取り方をしていただいてもよろしいし、決めようにも決めようがないもの、というふうにおとりになってもよろしいです。つまり言葉がない、文法がない。としますとですねえ、これはもう決めようがないんです。言葉あってのものの存在ですねえ。

 それで、皆さんが向かい合っていらっしゃる世間、環境、周囲、あるいはお知り合いの方々ですねえ、この場所とか、そういうふうに皆さんを取り巻く環境、人、物、そういうものをどうするこうするということの心づかいを、ここでは絶え間なくなさってですね、ふとこの自分を見てしまうという癖が、今までどおりあったにしても、それは答えを出さない。それでよいとも悪いともいわないと。これは用事がないわけですからものすごく心の扱いとしては楽なんですね。私がお話しますと「難しいですねえ」という人、もういやというほどそう聞かされてきましたけれども、これほど簡単なことはないですねえ。それは考えてものを結論づけようとすると、私の申し上げていることは難しくおもえます。しかしこの講話の目指しているのは、考えで決めることではありませんから、それでよいのでもなければ、悪いのでもない。神経症っていうものが、病気であるのでもなければ、健康であるのでもないんですね。で、皆さん方にしてみれば、こんな苦しい、こんな不安な、こんな恐ろしいものはないとですねえ、そういう自分にとって、早くいえば嫌な感じですねえ、そういうものがずっとあってよいはずはないと。ここから論理的な考えですね。こんなままで一生を終わったらたまらんとか、こういう論理的な考え。で、そこでそれを片っ端から治そうじゃないかとですねえ、それで当たり前だろうという一つの良い、当たり前、標準というものを上に描いて、だいたい上ですわね、お手本というのは上にあると、そこを目指すという、これはもう決まった形ですね。これを今晩限りおやめになって、自分の心がどのへんであってもですね、それを計らない。

 世の中に面白い言葉がありましてですねえ。ちょっとどこで見たんか思い出せませんけれども、数代前の明治、大正の頃の、ここから3kmばかり真北に建仁寺という、皆さんは歴史、国史で日本に最初の禅宗をもたらした、それは臨済宗という宗派ですね、鎌倉時代のことです。栄西禅師のことは習われました。あの福井の山奥に曹洞宗をもたらした道元禅師とならんで、鎌倉新仏教の中でもひときわ目立つ存在である禅というものを日本にもたらしたんですねえ。で、その建仁寺の管長をしておられた、竹田、これは松竹梅の竹です。黙雷、黙雷というのは黙っている雷。まあ面白い名前ですねえ。竹田黙雷老師という人がいてですね、見事にその隷書風、隷書っていうのは書体です。皆さんは楷書っていうのを習われましたねえ。それから行書とか草書とかいうふうに、漢字のだんだんやわらかく書くのを学ばれました。ところが芸術的にやや気取った文字を隷書というたりするんですね。ここの、この「歩々是道場」というのがあります。これ上手に隷書風に書いてあるんですね。で、それがとってもその上手な方でした。

 で、ある場所で「無間地獄」と書いてあるのを見たんです。それは、落ちて落ちて落ちて地獄へ行きますわねえ。地獄はだいたい上っていうことはない、皆真下、とこう考えて、それはもう底無しというほど下の方、もうたいへん落ちていく下の方とこういうて。ところが無間でありましてですねえ、つまり何メートルという物差がないんですね、何間かわからん。間ですね、六尺一間というその間、それがないんですね、どこまで落ちてるのかわからん、何キロメートル落ちたかわからん。メートルはその測るものがないんですね。そしたらそれは落ちるも落ちないもない、まさにこのまま、ということにほかならんのですね。比べて、物差に比較して何間落ちた何メートル落ちたと、こういうことはできますけども、物差なし。これは面白いですね、無間地獄。

 私が幼稚園のころ、幼稚園というのはその、ここからまず100メートルほど南へ行ったところに今はあります。その園長先生にこの病院の役員をしてもらっていたんですね。もう今は亡くなったんですけれども、その方が、「黙雷さんは、あれ字が下手だったので、他の人の書かない隷書を学んだ」というておられましたねえ。それがまあ人一倍上手で、隷書ではもう第一人者というふうになられた。それはそういうこともあるかもしれんですね。他の人のように、こう楷書やら行書やら草書やらというのは、学んでもなかなか追いつけない。それで今度はまったく違った書体を勉強された。とそういうふうに私にいうて下さってましたです。それはかまわんのです。なんでもいいのですが、とにかく無間地獄が面白いんですね。

 で、がんばって上を求める。理想、あるいは完全を目指すと。これは皆さん方共通した努力目標ですねえ。それもですね、無間とつけたらいいんですね、無間理想。無間の完全というのはどういうたらいいですか、無間、物差しのない完全さですね。もうちょっと言葉もいいのを見つけんといけませんですが、お手本もまた測りようがない。これがその「あるがまま」ですね。ここの世界には、心について物差がありませんのです。皆さんはなにも物差しを持ってはいらっしゃらないというおつもりですけれども、頭にその物差しを描いておられますからね、だいたいのメモリを。昨日より今日の方がよくなってないといけないと。それはよくなってこそ退院ということになるわけですから、昨日より今日、今日より明日と、そう考えますわねえ。それはなんらかの物差しがあるわけですわ。なにかを拠り所に考えておられる、比較の対象にしておられるんですね。それがないんですわ、それで今晩全治しましたといえるわけですね。なにもその、ごまかして妙な話をして皆さんを騙そうというのとちょっと違って、勝手に皆さんの方が先に騙されていらっしゃる、何に騙されてらっしゃるかというと、自分の考えに騙されていらっしゃる。

 猿のほうが自分の考えにけっして騙されない、考えを持ちえないからですねえ。あるいは、あっ、いつもいいお花をありがとうございます。こうして活けていただいて、白い蘭ですねえ、見事な蘭ですが、白い蘭のほうがほかの紫や赤い花よりも偉いとかですね、これは尊いとかですね、そんなん全然考えてないわけですねえ。自分がどんな色の花に咲くのか全然わかってないと。

 呑気といえば呑気ですけど、人間だけは、それがそのうすうすわかったりして、なんか今はあかんけれどもですね、この間テレビで大器晩成だというて慰められた。今はあかんとこう思ってますわねえ。そしたら、はたの人がかわいそうだと思って、あなたは大器晩成だと。あと10年、20年してから、ぱっと花を咲かせるような人だ。と、そういうふうに慰めてくれたという。それは悲愴な話ですけれども、そんなんはじめから決めんといたらいいんですね。これで良いのか悪いのか全然知らんと。それが全治の状態ですからね。どうなるかといいますと、今までこう決めました、今これではいけないと決めておられたという、それを離れるんですね。世間の森田療法は、今度は逆にこれで良かったんだという考えに置き換える、つまり置き換えなんです。考えを入れ替えるだけの話なんですね、これは森田療法ではありませんです。

 アメリカからみえた学者が、こういう額があるとしますわねえ、それを横向けたら見え方が変わるという、そういう枠は花壇、花の芽などですねえ、冬寒い間、霜があたらんようにこう花壇の上に覆いをします、その枠を作りますですねえ、そんなんを皆さんフレーム(frame)というとられますねえ。で、それを再びフレームを付け替える、枠を替えるですね、リフレーミング(reframing)としきりに私に、「あっ、そうだ」とかいうて、もうアメリカの人っていうのは決めつけますねえ。こっちに失礼だとか考えんと、そんなんリフレーミング(reframing)だとこういうんですねえ。ほんとにもうもっと謙遜に人のいうことをよく、折角ここに来られたんですから聞いて帰られたらいいと、こっちからはそういいたいぐらいですけどもねえ。なんでも外国人は、自分の考えで人の考えを「だいたいこんなもんだ」とかいうふうなこというて議論して帰るんですねえ。あんなんちょっとその、やっぱり日本の学者がみえました場合っていうのは違いますですねえ。そらなんとなく違いますね、アメリカの先生が来られた時の態度っていうのは、もう議論しに来ているみたいですね、そらそうなんですが世界中武者修行みたいなもんで、自分の治療法はこれがこうだ。これが正しいだろうっていうようなことで、いうたらあちこち勝負してまわるみたいなもんですねえ。

 ところがここのは、考えで応対してませんから、向こうが考えで、これはこうなんだというてきても、こっちはぜんぜん何とも影響がないんです。それほど皆さんのお考えを縛るっていうことがありませんですね。思想的なものが何もありませんのです。というのは心の世界、自己意識の中は、まったく本来が筋の通らない独特の世界でしてですね、なにがどうであろうと、それはもう絶対それが型にはまるはまらんが問題でないんですね。まことにその人らしい独自の世界がその日その日描かれてですね、しかも良し悪しがない。そこには神経症というものが成り立ちようがない。治す手間が省けて、見事に真実に生きるという状態だけがあるんですね。ですから、どうしたら真実に生きられるでしょうっていうようなことを工夫して、これからそうしましょうかというものではありませんですね。

 ただほっといたら、この花みたいにほっといたら、自分を論じないだけで、自分を言葉と文法を使わないだけで、見事に真実であるんですね。人間だけは自分をイメージとして言葉や文法を使って描くもんですから、そこでいろいろぶつかり合って窮屈なんですね。

 で、これだけの皆さん骨折っておられる、それを世間の人は今、後回しにしているんですね、その厄介な問題を。それでも生きられますから、それが普通の気分転換とか楽しみを求めて生きる、一般的な生きる、です。

 これはこの近くの医師会の人、学校関係の医師、学校医といいますね、校医、学校医の総会で、その会が済んでからの話で、あなたの楽しみがどうのこうのと、いろいろ相手のことをいうているんですねえ。「ああそんな楽しみもありましたか」聞いてたらみんな楽しみは何かということをえらい問題にしている。そんなん別になくてもいっこうにかまわんのですね。もっててもかまいませんが、肝心なことさえちゃんとして、あと皆さん心の中っていうのは、特に余計楽しまんならんということはないんです。世間の人はそれがわからんもんですから、もっといい心の楽しい状態としてのそれは心の癒しである。というようにですね、最高のもののように尊んでいいますから、そこまで行ってしもたらあとは何もないみたいなんですね、癒しっていうのは絶対落第ですね、あれはもう。

 さきほどちょっと往診で車の中でラジオ聞いてましたらね、生きがいっていうのは、その教授の方が話は上手なんですけど、どういうのが生きがいか、どういうのが生きがいをなくしたと思う時か。とかね、一例をあげれば、自分がこうありたいと思うとおりできない場合とかね、世の中に役に立っていないと思う場合とか、自分の存在は無意味だと思う場合とかね、なんか五つほど上げますとかいうて、その生きがいの話をしておられる。そんなものはここでいうたらもうほんまおかしな話で、そんなんどうでもいいんですね。

 皆さんが立派に今日の難しい問題を、皆さんの外に見つけて取り組んでいらっしゃるという、それのほかに生きがいは、なんにも実際は特に求めることいりませんですね。

 また邪魔だから排除するとしなければならんような、いけないものもないんですね。心の中でこれは捨てないかんとかね、世間の人はそういいますわ、我を捨てないかん。私の若い頃っていうのは、だいたいそうですね、自我、我っていうものがいけない。それで我を捨てろとこう学校の話で私の家ではないんですけど、心で邪魔やから捨てろとかね、そんなことばっかりで。

 で、ちょいちょいお話してるんですけれども、柔道ってのは私は知らんわけです。で、ある時、柔道場でなんかお説教があってですね、入ったら、もう答えを先にいいますとね「思旡邪」と書いてあるんですね。で、その額を指して私に読め、とこういう。中学の一年で読めなかったんです。漢字が「思旡邪」と、読めません。いうてたんですね、そしたらこれを「おもいよこしまなし」と読むと、黒板に書きます。こんなんばかばかしい話で、でもお説教があった。つまり心の中にね、間違ったことを考えていてはいけないっていうことですね、森田療法からしたらおかしな話で、何考えていてもいいわけです。ただ間違ったことをしたらいけませんわね。行動化する際によく選んで役に立つこと、道徳的によいことをしていくと、それはもう行動の瞬間のことです。素早い判断でなさればよいんですね。

 昔はですね、今でも心が大事だと思う人はなんぼでもおられるわけですねえ、いっぱい世間でも。心でよいことを考えたらその人はよいことをするだろうと、勝手にそうきめているわけですね。ですから、心が行動のもとである。というふうにしますから心を磨くと。ちょいちょいそういうことはお話しますが、心が大事だと、こうなるんですね。私みたいに心はどうでもよろしい。デカルトがどういおうと、自分がこれだということが明確である、ない、そんなことはどうでもよろしいと。

 ところが、今何をせんならんかっていうことだけ、そこで十分知恵をしぼって、皆さんがほかの人の意見を参考にし、数多い情報を上手に取り込んでなさればよろしい、そこなんですね。今、現代の精神医学からする人間のすばらしい生き方っていうのはそれに尽きるんですね。それに昔から心が大事だということですからねえ、心なんかどうでもいいゆうたら、えらい教養のない人のように思われそうでですね、世間ではそんなこと口に出せないですね。

 それから、もっとおもしろいのは「よい心を持ちましょう」というような。そしたら悪い心を持てなくなるんですねえ。皆さんも、ちょっとおかしな話になってきたと思われるかもしれません、趣旨はさっきのとかわりないんですが、悪い心を持ちますか、質問をしてですね、あなたは良い心を持ちますかと、そういいますとですねえ、いや、もう良い心を持ちます。かっこうが悪いですからそういうんですねえ。悪い心を持つこともあるわけですわ。それほど自分の心は、皆さんの責任において処理しなければならないものと違うんですねえ。そんな心を持ったらあきませんと、人格的にゼロですと。そういうふうにその人の人間らしさを評価するものにはなりえないんです。なにをどう考えていらっしゃろうとそれは皆さんの人間性を、人としてのあり方を下げるものではない。どんなばかなことを考えていようとですねえ。これ非常に大事な、今晩一番申し上げたいところで。もうこれだけ申し上げておいたら、もうあと私いなくてもよいとおもいますですね。もうそれくらいこれは普通いいにくいことなんですねえ、世間では良いことを考えましょう。悪いこと考えたらいけません。

 『懴悔録』というのを書いたルソーっていうフランスの哲学者がおりますけれどもですね、そういう昔の厳しい批判があった時でもですねえ、「私もやっぱり悪いことを考える」と、そういうてるんです。せいぜい考えないようにしているという、ちょっと但し書きがあるわけですけど、考えますというんですね。それはなるほど懺悔録らしいところですけれども、頭っていうのは自分の考えに従わない、ということがわかりますね。立派な人になると、皆さんそう目標を立ててらっしゃるとしますね、で、立派な人になるためには、自分の心がおもいどおり、きちっと、なかのなかまで整わないといけないとですねえ、そんなふうについおもってしまわれますけれども、自分の心一つを解きかねる。一つってのは、心のように自分のなかのもの、自分の心ってのは、もうなんとでもできると、そうおもいたいもんですけれども、それがおもいどおりにならないと。それは別に恥でもなんでもない、悪いことでも何でもない。

 心っていうのは頭の命令に従わない。本来勝手に浮かんで、次から次へいわば皆さんを困らせるものであるんですねえ。しかし、こうでないといかんと先にきめておられなかったら、困らせられることはないんです。どんな心が出てこようと、それは皆さんを悩ませることにはならないんですね。ですから悩みが生ずるってことは、一番先に「これが自分だ」という大枠で、ですねえ、自分のあり方、自分の人間らしさというものをきめていらっしゃるというところに悩みのもとがあるんですねえ。

 森田神経質の方が、よい人間であろうとしてですね、描かれた究極の自己像という考えが先にできているもんですから、それで具合が悪い。ところが、そのことは世間の人もやっているわけです。話がややこしくなりますねえ、世間の人もおんなじことをやってるんですけれども、その解決を後回し、後へ送ってしまってですね、今のとりあえずのことやってるというので、仮に救われているだけのことですね。これは今晩、真剣にここで取り上げなければならない、生きることの実際なんですねえ。ところがそれはまあまあもうちょっと後にしようと、そこに「まあ」っていうのがでてくるんですねえ。まあええやろうということで、後回しにしてしまうんですねえ、それで、現実生活の方で骨折ってますから、見かけは神経症にならないですむんですね。しかし、もとのところをほんとうに窮めつくしているというのではありませんから、いざ心が大事だ、心から治さんならん。というふうなことがらに遭遇しますと、もうさっぱりだめになるんですねえ。

 で、幸い私どもはこの現実の生活があります。「なにもありません」っておっしゃるかもしれませんけれど、それは仕事を探すという仕事、作業があるんですねえ。いついかなる場所におきましても、今しなければならない、っていうことは、共同生活の場でもですねえ、あるいは良寛禅師みたいに一人で暮らしているという場合でも、次なにしてこれしてということはあるんですねえ。そういうものをよく探してやっているというそこに立派な生きる姿があるんです。

 ですから、神経症の状況をこう治していくという筋道を考えることほど、大きな脱線はありませんのですね。ほかの病気ですと、こうしてこうして、そうして治る。とかですね、だんだんだんだん治していくという、その当然の経過というものが神経症にはないのですね。それで、ちょっと戸惑われるでしょう、それは病気という考えから出発されたからのことですね。

 神経症の症状と皆さん方が名づけておられるのは、お天気でいうたら雨か嵐か雪か、というようなもんでしてですね、それもお天気の一つですから。晴れて快適、気候がまあこれからぽかぽかしてくるとかですね、そういう状況になってきてはじめて治ったとか、そういうふうにおもうのは間違いでありますね。いろんな天気が、さっき申しました限りなくさまざまにあるんですね。そのいずれもが良し悪しのない天気でありまして、それで、毎日毎日が良い日であると「日日是好日」という数回前の講話で持ってきました掛け軸のようにですねえ、それは毎日を比べてどうのこうのというのではないんですねえ、さまざまな味わいというものなかに、その日々らしさ、自分らしさというものを、ただ十分に味わっていらっしゃればよろしい。こういうことですから、けっして人生を甘くみようっていうのでなくて、脱線をせずに、まともに今日の働きを存分にしていきましょう、ということですからねえ。これはもう治す手間が省けて、しかも今の仕事ができてですね、そしてお坊さんの悟り、いや、お釈迦さんの悟りにも匹敵する見事な真実の見抜き方をしていらっしゃる、皆さん方がです。これは前の院長が坊さんだからということもありますけど、森田療法は「お釈迦さんの悟りに匹敵する」とはっきりいうたんですわ。これはよその人にはちょっといいにくいですね。前の院長は坊さんですから、一番仏教で大事なものと同じものを森田療法で、なにも宗教のことに関係しないで、ちゃんと身につきますと、つまり真実に生きる。といえばいいわけですが、それが皆さん頭ででなしにもう身体全体でちゃんと身につきますと、そういうことを申しておりましたんです。一番うれしいのは、お釈迦さんの悟りと一緒だということですねえ。

 それはなんぼ2千500年近い前の人で、日本から8千キロぐらいは離れたネパールの人でですねえ、そしてその、なんかものすごく偉い人。とこう思いますけどねえ、人間らしい悩みを抱いて、たまたま働かなくてすむ環境の、そういう家の人ですわね。ですから、ぽいっと奥さんやら子供をおいといて、こっそり夜ぬけ出して山に修行に入ってしまったんですねえ。あれ毎日働かんならん人だったら、そんなこととてもできませんですわ。たまたま一国一城の主の息子でしたからですね、それでそういうことができたんでしょう。とにかく不安をどうしたら解決できるかということに一生懸命になってですね、まだだめ、まだだめ、まだ不安だ、まだ不安だ、というのでやってるうちに6年たってしまったとこういうんですねえ。それは、たしかに皆さん方の偉大な先輩だというのは、その点でもわかりますねえ。

 ところが治す段になったら皆さんの方が早い。もうそんな6年かかるということはないです。お釈迦さんが6年かかったらですねえ、自分なんかまあ12年かかるの違うやろうかと。皆さん謙遜にもそうお思いになるかもしれませんけれども、お釈迦さんが6年というのなら私は6日で治そう。と、それぐらいの意気込みでされたらいいですねえ、6日もかかりません。つまり、今晩しか治る時はないんですねえ。ですからだんだん治るということはない、ということはよく申し上げてます。

 ただ、あと何をするかというたら、結局、自分を見てものを見るんではないんですね。こう横を向いていいますと、皆さん方ならすぐ自分を見てこう何かをする。あるいは何かを見て自分にとってと考えてから次のことを計画される。そういう、いっぺん自分というものを通る考えをやめて、いきなりものから始めるんですね、いきなり用事から始める。そのためにこの作業ってのは、ものすごい素晴らしいはたらきをしてくれています。環境的に刺激としてはすごいものでして、で、作業がなくてもですね、おんなじことですよ。それはその場に、皆さんが今いらっしゃるところで治る以外にないわけですから、別の治り方を計画し、工夫されるほど治りが遅れますですね、いきなりのものですね。

 ですから、こういうもっともらしい話をお聞かせしてですね、皆さんにわかっていただこうとするというのでないとすればですね、はじめから終わりまで全部黙っている、というやり方もけっしておかしくはないんです。さっき建仁寺の数代前の管長でした竹田黙雷老師の話をしましたが、本当は黙っているということは、ぱあーっと百の雷が落ちたのと同じくらいのすごさをもっているという意味なんですね。

 維摩という、インドに素晴らしい真実を見抜く目をもった坊さんでない人がいたんですね。ビィマーラキルティというのが本当の名前ですが、日本では普通、維摩、それは中国では維摩詰と訳したからですねえ。ビィマーラキルティを維摩詰、それを日本では略して維摩とこういうています。維摩居士と、居士っていうのは坊さんでない人。しかしその見解は素晴らしいんです、お坊さんを凌ぐほどの者。昔の話では文殊菩薩、マンジュシュリーという人は最高の知恵をもっていると考えられたんですけれども、文殊が維摩に負けたんです。文殊菩薩は真実に生きる道を聞かれて答えたんですねえ。ところが維摩はいくら待ってても答えなかった、黙ってたんですねえ。それで維摩の黙っていることは、百の雷が落ちたぐらいの素晴らしさがあると、そう讃えられるようになったんですねえ。

 これは、「維摩の一黙は百雷の如し」とこう申しますですね。まっ、たいへん無駄なおしゃべりをいたましてすみません。

 じゃあ、このへんで講話を終わりといたします。

    2005.3.2



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