三省会

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第441回三省会例会
宇佐晋一先生の講話
令和元年11月10日

 本日体験発表されたAさんはこれまでたくさんの本の編集や記述で地元に大いに貢献され、大変すばらしい本治りの状態をご披露してくださいました。Aさんは具体的な事実というものを本の編纂という成果でよく見せてくださり、全治とはどういうものかという見本として、私が申し上げるまでもなく、お分かりいただけたと思います。

 世間では、心がどうであるかとか、治っているのか治っていないのかということを問題にしていますが、実はそれはどうでもよい議論でありまして、今、こうして骨折って仕事に取り組み、次の仕事の計画を立てているということが大事なのです。  

 ですから、治すためのいかなる努力も実は脱線であるにも関わらず、森田理論を学習して自分をしっかりしたものにしよう、という努力を大勢の人がしておられる姿をこの十月に浜松で行われた日本森田療法学会に出席して認識させてもらいました。

 たとえばある方の発表で、これで治療を終了しました、と治療の経過を話されたのですが、治療が終了しましたら、治す人と治される人との関係はどうなりますか、と私が質問いたしますと、発表者の方は返答にきゅうされました。簡単に申しますと、この今の三省会でも私はAさんに対して治療者ではないのです。立場は医師であるとしましても、Aさんが治される人で私が治す人という間柄はまったくありません。三省会の時間だけは症状の話をしても良いということにしておりますが、実際に症状についての質問をされると、治す人と治される人との関係ができ上ってしまい、その人の状態が後退します。つまり治らなくなるのです。逆にお仕事の話、仕事上の計画の話など、外向きの話をされますと、私との関係は社会人対社会人となり、どなたもが見事にこの機会に全治なさるのです。

 Aさんは森田療法の治療段階の五段階説というものを話題にされましたが、段階というものは何もありません。つまり治った状態というのはどんな心の状態でも構わないのです。前の院長は、治ることもでき、神経症になることもできる、どちらにもなれるというのが本治りです、と申しました。つまり心の状態、あるいは自己意識の内容はまったくどうでもよろしいのです。

 森田神経質の悩みの起こる範囲というものは、自分で見た自分、あるいは他人が見た自分の批評、すなわち自己意識内容だけなのです。ですから、それではない他者意識、外向きの意識の中にどんどん前進なさればそれは何ら問題がなく、瞬間的にどなたもが全治なさるわけです。

 森田先生が「外相整えば内相おのずから整う」とおっしゃっています。この言葉の原典は兼好法師の徒然草第157段に出てくる「外相もしそむかざれば、内証必ず熟す」であると言われています。そして江戸時代の徒然草の注釈書に「これは恵心僧都の常套句じょうとうくなり」と記載されていまして、兼好法師は恵心僧都の言葉をそのまま引き継いだと思われます。

 「健康人のふりをする」というのは、前の院長の非常におもしろい表現でありまして、その「ふり」がしいて言えば心そのものであるのです。兵庫県に北条鉄道という鉄道会社があります。これはNHKテレビで紹介されていた話ですが、ある無人駅でその会社がアルバイトの駅長さんを雇い、その駅長さんが立派な制服を着て列車に敬礼して見送るということを始めたところ、乗降客がどんどん増えて行ったというのです。これはまさにそういう表現の仕方が工夫のしどころであったという良い例です。

 では会場からのご質問にお答えします。

 「森田療法は進化というものはあるのでしょうか」というご質問です。

 森田療法というのは、事実の徹底、つまり、言葉を抜きにしたこの通りの状態の徹底、それでいる、ということで究極のものですから、そこから脱線することはあってもそれを超えて進化するということはありません。今から十数年前に「森田療法を超える」という本が出ましたが、言葉ではこう表現するのでしょうが、実際は自分については言葉を使わないことが究極のものです。そしてどんな考えが浮かんで来ようとも、放っておかれればもう十分なのです。心の中の状態で段階的に治ったかどうかが決まるものではありません。瞬間的に全治いたします。

 次のご質問は、質問者自身が書かれた本の中の一節、「自分なんてないに等しい」というのは森田療法では正しいですか、というものです。

 これは、本来無一物という禅のあり方を表した言葉を自分の方に当てはめているわけですが、あるとかないとかと言いますと、脱線するだけです。

 前の院長が森田療法の極意としてお話したものの中に、長野市にある善光寺の「お戒壇かいだんめぐり」があります。善光寺本堂の地下へ通じる階段を降りて行くと、そこは完全に真っ暗なのです。左手は伸ばしても何も触ることができず、右手だけで手探り、足探りで進んで行くのです。これが本当の全治です、と前の院長が申しておりました。森田理論学習や私の話は真っ暗なところでは全然役に立たないのです。要するに説明的な森田療法ではどうにもならず、じかの体験、真っ暗闇の中をどのように進もうか、という取り組みだけで十分立派な全治なのです。

(第441回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話 会場:メルパルク京都)



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