三省会

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宇佐晋一先生 講話


森田療法と死後の世界 

 森田療法は森田正馬先生の発案になる、わが国独自の神経症性障害に対する優れた精神療法であるから、死後の世界は対象ではない。ただ死そのものは、予測される恐ろしいことの筆頭にあげるべきものであるから、森田先生も「生の欲望」の裏面として療法の理論上、「死の恐怖」を挙げて、相対化の代表例とされたのであった。

 こうして死後の世界が本療法の扱うべきものではないことは当然であるが、死後の世界が一般に恐ろしいものと思われている実情にかんがみ、ひと通りは眺めて、確かめておくのも無駄ではあるまい。

 森田先生が自ら回顧しておられるとおり、幼少の頃、近くのお寺で、地獄の絵図を見て恐怖を覚えられたとのことである。その頃は、もはや避けられぬ運命的な怖さとして、強く目に焼きついたのであろう。お寺の目的は多分、勧善懲悪の趣旨にもとづくものであったのであろうが、子供心にはただ恐怖感を一方的にあおられるものであったに違いない。

 一般にお寺で説かれる地獄をはじめとする没後の世界は、まず三途の川を渡らなければならない。そのさいの河原では親兄弟の功徳のためにまず河原の石を積まねばならなかった。これは石の形が揃わないので、積んでもすぐに崩れてしまい、難儀するほかなかった。

 ようやく積めて、そこで六文銭を渡して船で対岸にわたるが、それからが大変である。道は閻魔庁に通じており、順番に一人ずつ閻魔大王の前に呼び出される。両側には司録と司命という鬼のように怖い人がいて、奥には閻魔庁の多勢の役人(十王)が働いているのが見える。閻魔大王は大きな円い鏡に、生前の所業を余す所なく写し出し、それに基づいて質問をされるが、もう言い逃れが出来ないほど、すべてお見通しで、その判決にはもはやあらがえない。抗告の余地がないといってよい。

 判決は六種類に分かれ、①天道 ②人間道 ③修羅道 ④畜生道 ⑤餓鬼道 ⑥地獄道である。このうち①と②へ指示されるのは、きわめて稀らしく、多くは③以下の悲惨な道へ行けと命ぜられる。餓鬼道まではともかくとして地獄道へ落とされたら、それこそ目も当てられない。釜で煮られ、ノコギリで引かれ、身体を引き裂かれ、また火であぶられ、苦痛のかぎりの連鎖である。

 しかし浄土宗、浄土真宗や禅を除く、その他の仏教では、救済の立役者として、地蔵菩薩がそこに現れて、苦難の道のいずれからも、良いほうへ変えてくださると説く。これを六道能化りくどうのうげと言い、能く変化させてくださるという意味である。道ばたに六躰の地蔵尊の石像が祀られていたり、地域によっては〝六地蔵巡り〟と言って、六カ所の地蔵菩薩を祀るお寺を巡拝する行事の行われている所もある。私の若い頃、京都国立博物館の〝日本絵巻物展〟で見た「因幡薬師縁起絵巻」では地蔵菩薩が救済のために空を、斜めの姿勢で飛びまわる絵が描かれ、そこに「八万四千の罪滅ぶ」と書き添えられ、感銘を受けたことを思い出す。

 ところが浄土宗や浄土真宗ではまるで違う。冥界の物語がまったくなくて、すべて南無阿弥陀仏と唱えれば、没後に阿弥陀如来の来迎があって浄土へ直行することが確実とされる。

 また禅宗では、女性の五障(苦難)を避ける道を尋ねられた趙州禅師が、「どうかお婆さん。永く苦海に沈んでいてください」と答えたように、楽になる方法を選ばせない。これは没後においても同様である。

 森田先生も「苦痛を苦痛し、喜悦を喜悦す。これを苦楽超然という」と言われて、禅に共感されるものがあった。死後のことは一切ふれておられないのは、苦楽超然からすれば、言わずもがなであろう。手っ取り早く言うならば、死後の世界は一切問わなくてよい。それを言う時間を惜しんで仕事に着手しよう。

   2023.11.12 



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