尊敬する
皆さんからご立派な日常をお聞かせいただいて私は勇気づけられました。前の院長のことを少しお話しますと、講話で、三聖病院での生活そのものがお釈迦さんの悟りですよ、とはっきり申しまして、それは僧侶でもある前の院長の強い力となっていて、私もそれを聞いて迷わずに前に進めたのです。
誰もがお釈迦さんの悟りというものは、はるか遠いところにあるように思っておりましたから、この、生活が悟りですよ、という話は非常に説得力がありました。そして、「神経症になることもできるし、また、治ることもできる、これが全治です」と申しておりました。ですから、どういう状態になるのが目標かということが消えてしまうわけです。神経症になる時はなっている、あるいはそれが消えている時は消えて、肝心な今のお仕事に、あるいは他の皆さんに役立つ大事なことに手を出して行くというお話です。
それから私が最近感じましたことは、他の森田療法の会では、精神作業についてはあまり重要視されてないように見受けます。この三省会の目的は、森田先生への感謝とお互いの親睦のためとなっておりますが、今までは感謝というふうに表現しておりましたが、むしろ尊敬です。森田先生に対する尊敬が外向きの大事な仕事をしていることになります。
では、会場からのご質問にお答えして行きます。
最初の方は「森田療法以外で日常生活の指針となるような本があれば紹介してください」というご質問です。
それはもう必要ありません。ご自身の専門の勉強をなさっていれば、日常生活としては満点です。私も今の仕事に必要なものが机の上にいっぱい載っておりまして、その中から適切なものを選び出し、順番を決めて大事な書類を作りつつあります。というわけで、日常生活の指針になる本というものは確立しておりません。
次の方は「私は間違い恐怖です。物事をする時に、間違っているのではないかという考えが浮かび、それが外向きの現実の事実から発生しているものなのか、それとも内向き、つまり心の中の強迫症状なのかが分かりません」というご質問です。
少しでもご自分の安心の方へ向かうための工夫は、すべて自己意識内を考えに置き換えた脱線です。自己意識、自分についての心、あるいは気持ち、感情とかに答えを出さないことです。間違いについての心配というのは仕事のうちに入っておりますので、お仕事に重点を置いて、内向きなのか外向きなのかの答えを絶対出さずにお進みになれば、もう満点です。
次の方は「戦地で生き抜くために必死だった私の祖父が芸術不要論者で、私もその影響を受けたと思います。ですが、私は三聖病院入院中に先生の美術史スライドの中で、南宋の画家、馬遠の『寒江独釣図』を見て大変感銘を受けました。それでも今も芸術の真の楽しみ方が分かりません。絵に対する解説は読んだ方が良いのでしょうか、それとも読まないほうが良いのでしょうか」というご質問です。
私は皆さん方に週3回美術のお話をいたしましたが、それはあらかじめ解説を読んで勉強していればこそでして、読むことは見ることと関係ない別のことではありますが、それをいくらなさってもかまいません。見るということは知ることと関係なく成り立ちます。展覧会をご覧になると同時に図録などで勉強することをお勧めいたします。
次の方は「私は縁起恐怖です。交通事故や殺人事件などの暗くて恐ろしいニュースを見ると、その映像や記憶が一生頭から離れなくなるのではないかと不安になり、それを打ち消すために数を数えたりしています。自分でも不本意だと分かっていてもとらわれてやめられません」というご質問です。
心の中は不合理そのものですから、嫌なものなら嫌なまま持っていて、それと同時に仕事をして行くことです。私の場合でしたら、アワビの裏を見るのがとても嫌なのですが、考古学では二、三世紀から五世紀にかけての日本の特殊な文様を遡って行きますと、スイジガイ(水字貝)の裏側を文様の起源とするということが、今日、学会で認められるところまで来まして、今、私はそれに関する本をまとめております。それで、私は実は貝は見るのも嫌なのですが、学問的にはそれを主張するという大事なことですから、論文を書いております。ですから、嫌なものから離れるということはせず、仕事上で工夫し、一段と進めば言うことなしです。
ご質問の方は、縁起恐怖をなくして気楽に生きられるでしょうか、とお聞きですが、私は気楽に生きようとすることが神経症のもとになるというふうに見ておりまして、気楽ということを目標になさらず、何が全治で何が全治でないか、何を避けていくべきかというような問題と関わりなく、今何をしなければならないか、何に感謝し、何を尊敬し、何を考えていくべきか、というように、仕事本位に始められればもう間違いなく全治です。
縁起恐怖を治すという、心の解決、つまり気楽さを求めることなく、悩みがあるまま、どんどんお仕事を重ねていらっしゃるということです。心の問題に答えを出さず、神経症である時はなっているまま、治っている時は治っているまま、そのすべてが治った最も良い状態である、と前の院長が講話で申しておりました。
また父の思い出ですが、ある時、京都大学精神科の教授が「宇佐さん、禅はワゴトニーですか」と聞かれたのです。ワゴトニーというのは副交感神経が優位な状態です。自律神経には交感神経と副交感神経があり、心がイライラ、ハラハラ、ドキドキしている時は交感神経が優位な状態で、副交感神経が優位な時は心臓の拍動もゆっくりで気分もゆったりしている状態です。ですから、世間では副交感神経が優位であるのが良いようにとらえられます。ところが父は「いいえ」と答えたのです。普通でしたら「そうです」と答えそうですが、そうではないということです。副交感神経が優位な場合も交感神経が優位な場合もどちらも同じようにそのまま受けているのが、強いて言えば禅であり、お釈迦さんの悟りと同じです、と父が講話で申しておりました。
心について、あるいは自己意識について、目指す状況がまったくない、つまり、こうなろうとか、治ろう、楽になろう、安心しよう、というようなすべては「ある状態になる」ということですが、それをやめるのが「あるがまま」です。それは今この瞬間すでにできているわけですから、これからなるという、難しい話ではなく、このままということです。
2024.5.12