三省会

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宇佐晋一先生 講話


京都の地震  

 テレビで97年前の3月7日に奥丹後でマグニチュード7.3の強烈な地震のあったことが報ぜられた。97年前といえば私の生まれた1927年なので気になって、一部始終を見た。白黒写真ながらその甚大な被害は、1月の能登大地震の写真かと見まがうばかりに家屋の倒壊が軒並みにわたり、網野町では火災も発生した。被害者は2925人にも上った。

 現在の与謝野町の幾地は丹後縮緬の機業地で友人の心理学者山本昭二郎氏の故郷だが、彼によると全家屋崩壊のひどさで、同じ場所での復興が困難であるため、丘陵を降りて新しく工場を建て、集落全員が移住したそうである。

 京都でも揺れが酷かったらしく生後15日の私を抱いて母がはだしで庭へ飛び出したと聞いている。こういうことが97年を経て、能登の大地震の対策の上で生かされているのであろうが、3ヶ月目に入っても壊れた水道の復旧は全地域に及んでいないのは気の毒なことで回復の困難さがよくわかった。奥丹後の大地震の断層による横ずれには最大2.7mに及び、道路が通れなくなった様子が報ぜられた。社会の成立にいかに道路の果たす役割が大きいか、今回の能登であらためて痛感したところである。

 戦後復興途上にあった福井市で1948年6月28日に直下型大地震があって、その反省にもとづいた京都市の対策をテーマにした公開討論会が夜に行われた。父は病院の責任者として多くの入院者の人命をあずかる立場から地震や台風には普段から気を使いすぎるほど使っていたので、私を連れて、会場である円山音楽堂に出かけた。参加者は予想以上に多く、満員の盛況であった。京都には過去に顕著な慶長地震があった。慶長元年(1596)9月5日に近畿一円に及ぶ、マグニチュード7.0〜7.1(推定)の規模で、京都のみでなく堺も併せて1000人以上の犠牲者が出たという。京都では伏見城の天守と石垣が崩壊し、さすがの秀吉も腰を抜かし、びっくり仰天の有様だった。そこへ加藤清正が武将として一番に見舞いに駆けつけた話は有名である。余震は翌年春まで続いた。有馬―高槻断層帯、六甲―淡路島断層帯と中央構造線断層帯の四国東部の部分などが震源断層と推定されている。つねに緊張と備えこそが地震対策の妙薬である。けっしてのんびりは目ざすべきではないのである。

   2024.3.9



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