三省会

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宇佐晋一先生 講話


冥福論  

 お悔やみを述べた追悼文の最後には、決まって「ご冥福を祈る」ということばで締め括られるのが常である。この習慣は亡くなった人が没後の世界、すなわち冥界で苦しい道を歩んでいるという、疑う余地のない推測を前提としており、それが多くの人びとの共感の上に立っていて、常識となっている。

 その没後の苦難とは、まず三途の河を前にして、賽の河原で亡き親や子の菩提を弔うために、苦心して石を積まなければならない。しかしこれがなかなかまともに積めないので大変な苦労をする。そこで六文銭を払って、やっと河を渡ったら、閻魔庁に出頭せねばならない。もうここからは逃げられない。嘘もつけない。隠しごとや悪事はことごとく見抜かれてしまう。審判は情け容赦なく次の六つの道のいずれかに決められる。すなわち①天道②人間道③修羅道④畜生道⑤餓鬼道と⑥地獄道である。このうち①と②に行けといわれることは稀らしく、多くは悲惨な道が指示され、今さらどうにもならない。このことを恐怖しない人はない。これを聞かされたら生前に善行にはげむほかはないだろう。そういうお説教によって冥界で苦悩を説くのは、勧善懲悪の趣旨によるものであることは今や明らかである。

 しかし、仏教では六道のいずれの道に行かされようとも、必ずよい扱いをうけるように救ってくださる六道能化(のうげ)の地蔵菩薩がつねに「今からでも遅くはない」と両手を拡げて待っていてくださるという。(六地蔵)こんなありがたいことはない。

 こうして冥界での幸福は確かなものとして約束されている。僭越にも、この世に生きるわれわれから冥福を祈ることは要らなかったのである。

 したがって、はじめからわたくしたちは故人をしのび、拝みつつ、外へ向かって世のため人のために、あらゆる善行を惜しみなく捧げればよいのである。

   2023.9.6



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