三省会

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第439回三省会例会
宇佐晋一先生の講話
令和元年7月14日

 本日は皆様方の日頃の精進ぶりの実際をお聞かせいただきましてありがとうございました。こういう内容は他の森田療法の集まりでは見られない、この会の特色でございます。その特色とは真実をきわめるという大きな目標があることです。しかしこの会では心の真実を言葉に置き換えることはいたしません。置き換えるとさっそく脱線するのが明らかで、そこのところが他の会とは異なるところです。ですから、森田先生がこうおっしゃいました、ということにさえもとらわれることのない皆さま方は全治し、十分な真実の姿でお帰りになることができるのです。ただし一秒でも二秒でもそれを論じて時間をかけますと、さっそく脱線してしまいます。

 理論学習に熱心な場合、それを勉強だけにしておけばよろしいのです。ですから、治すことに役立てようとしてうまくいかないという人達にはそれを早く教えてあげたい、と皆さん方は思われているだろうと私は推察します。

 NHKのテレビで「あの人に会いたい」という番組があります。そこにもう亡くなって十年になりますが、文化庁長官だった河合隼雄先生の元気な頃の姿が描かれていました。この方は元は数学者でしたが、臨床心理学へ転向し、その研究を行い論文を書かれたのが三聖病院での私どもとの仕事でした。その番組の中で河合先生は臨床心理学の先生らしく、アドバイスを求めに来た人の言うことを聞くということが何よりも大事だと繰り返しおっしゃっていました。でも、もし皆さん方がそういう立場にあった時はそれに対して決してお答えになってはいけないのです。前の院長は聞くということさえもしませんでした。聞かれても答えないというはっきりしたところを皆さん方がお見せになれば、心理学者よりも早く治ります。そして治った瞬間にその治療者と患者との関係が消えるのです。三省会では皆さん方と見学会に行きますが、まったく患者さんと医師との関係がありません。そういうところもこの会の特色でございます。

 では会場からのご質問です。

 十年ほど前に三聖病院に入院されていた方からです。「退院の時に短冊たんざくに、吾が心は秋月に似たり、という言葉を書いていただきました。先生はどのような思いを込めて書かれたのかお教えください」というご質問です。

 実は前の院長がちょうど戦争が終わる頃に、天龍寺の管長をしていらっしゃった方が書かれた「吾が心は秋月に似たり」の掛け軸を掛けておりました。唐の時代に寒山かんざんという名の、本物の禅僧ではなくいわば風来坊のような人がいて、お寺から離れた山奥に住み、そこから出てきては寺の食事をもらったりしており、上手に詩を書いていた、という伝説上の人物がいます。寒山と拾得じっとくの二人がいたように伝えられていますが、実は同一人物で、寒山詩というものがまとめて本になって残っていて、そしてあとから見つかった詩を拾い集めて次の詩集にまとめ上げたというものを、拾い得たる詩集、拾得集としたために、寒山の詩集と拾得の詩集という二人の人物がいたように思われたからだという説があります。
 「私の心は秋の月のようだ、こんなに澄み切っている、これを何にたとえたらいいだろうか、とてもたとえようがない」と現代語訳される詩ですが、宋の時代に入りますと、「比べることができないと言っていながら、自分の心は秋の月に似ているというのは矛盾しているのではないか」とさっそく反論が出たというほどの詩なのです。本当のことを言いますと、たとえ話をしてはいけないわけで、反論の方がもっともなことなのです。何かお役に立つかもしれないと思いお話申し上げました。

 次はパニック障害の方からです。パニック障害のせいで電車やバスに乗ることができません。薬を飲んで少しずつ乗れるようにして行くのがいいのでしょうか、というご質問です。

 前の院長の口ぶりをまねて申しますと「こわごわ乗りなさい」です。仕事とかでどうしても名古屋とか東京に行かなければならないなら、冷や汗をかく思いで乗って行くわけです。ところがここに森田理論を持ち込んで、とやかく心の在り方を良い状態にしてから乗ろうというのはやめるべきです。

 次は「今日はAさんの発表を聞いて、私も頑張ろうと刺激を受けました」という感想です。

 このような感想は本当にありがたいです。外へ向かってさっさとやろう、というふうに刺激を受けたことが全治そのものです。つまり、それについて論評をしたりされたりというところでは治らないのです。
 私は昨年の森田療法学会に出席した際に理論学習の会の方々が体験談を発表されるのを聞きましたが、こういうふうに考えて治りましたというふうに、どうしても意味づけをされているのです。考えで治そうとされているのです。ところが考えは必要ではなく、その言葉を出す前のところで治っているのです。
 皆さん方はご自身が主体なのですが、ご自分の心や症状を考えて客体化しますと、主と客に分かれてしまいます。ところが実際は主と客に分かれる前のところで治るのです。これを主客未分しゅきゃくみぶんという言葉で表現することができます。つまり、自分はこうだ、ああだ、という前のところで実生活上のやるべきことをやることです。それがどんなに困難なことでもどんなに嫌なことであってもです。

 次の方は、世間一般的には、人は思春期になると自我じがが目覚める、あるいは自我が育ってくるなどと言いますが、この場合の自我とは自分で見た自分、すなわち偽物なのでしょうか、というご質問です。

 目覚めたと思っている自我じがは、私どもからすれば、自分を概念化する、真実ではない、つまり森田療法的に言えば、治らないことの始まりです。

 次は、以前私が講話の中で、社会の中でAという意見とBという意見に分かれてしまった時は、その対立はそのままにして、今お互いにすべきことに向かえばよろしいという趣旨のことを言っていたが、それは本当でしょうか、というご質問です。

 実際に意見は様々で一致しないことが常のことですが、とりあえず他の方にお役に立つ事へ向かっての十分な働きが大事です。それは問題解決、あるいはその場の状況を読み取る学習です。常に外のことを相手にし苦心している状態で、自分のことについては言葉を使わない時はもう早速さっそく全治が訪れます。皆さん方は昨日ずっと治っていらっしゃって今日ここでまた全治するのかと思われるでしょうが、全治というのは常にその場、その場のことですから、皆さん方は間違いなく全治してお帰りになります。

(第439回 三省会例会における宇佐晋一先生の講話 会場:メルパルク京都)



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