三省会

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宇佐晋一先生 講話


静岡空襲と倉内松堂老師  

 宇佐玄雄と並んで禅的な森田療法家として知られる東京中野の鈴木知準先生は、最初静岡に診療所を開かれた。近くに茶祖・榮西禅師を祀る臨済寺があり、住職の倉内松堂老師とは、老師が森田神経質で、若い頃赤面恐怖の体験者であったこともあって、鈴木先生は親しくされ、境内を借りて作業用のバラ園を開いておられた。また診療所の機関紙『今に生きる』にしばしば倉内老師の講話や巻頭言を掲載された。

 それよりまえ私は上記の話と関係なく1956年に南禅寺近くの友人をたずねて、そこに来ておられた倉内老師にお目にかかることができた。聞けば老師は南禅寺の僧堂で修行され、托鉢の帰りに立ち寄る場所であったそうである。私がお目にかかった日に、老師は隠侍の雲水に「今日は京都へ来てどうだった?」とたずねられると、隠侍は「京都の街では緊張します」と答えた。すると老師は「堂々と行けばよい。何しろ日本一偉いんだからな」と指導された。森田療法の「イライラ ハラハラそのまま前進」とは大分違うな、「暗示療法ではないか」と思わざるをえなかった。

 老師の『今に生きる』誌に掲載された記事のなかに1945年の静岡空襲の時の回顧談があり、当日檀家の洋服屋の人と用談中であったが、急に敵機の爆撃が始まると、そのあまりのすさまじさに腰が抜けたようになり、避難どころか身動きが出来なかった。気がつくと来客はいつの間にかいなくなっていた。それで禅の修行をした自分が腰を抜かし、修行をしていない来客がさっさと行動したことを恥じ、それから修行をやり直されたという。

 ここで大事なのは修行が足りなかったから、空襲で腰が抜けたという観点の誤りである。森田療法では腰が抜けたままその場で急ぎなすべきことさえ考えていれば十分満点で、心に工夫はいらないのである。

   2023.2.2



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