三省会

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三聖病院における
宇佐晋一先生の講話
平成25年9月13日

 あとで、どのように理解なさろうと、それより先に治ることのほうが実現しますので、馬鹿を見るのは自分についての考えですね。皆さんが、私ってこういう人間だというふうに思っていらっしゃることです。

 今、ある方の手記をカルテに写しておりましたのですが、自分のことばっかり書いてある。自分の思い、自分の気持ち、こうだったああだったという、自分のことばっかり書いて、ここは自分のことを書いたら治らなくなると、繰り返し申し上げていますが、そういうことはピンとこないんでしょうかねえ。

 感心な皆さん方は、この日記に、見たものとしたことだけに限られたこの内容を、けっして自分の心の問題にわたって書き込まないことを、よく第二期のはじめに申し上げておりますのを、毎日よく守ってくださって、それが立派に治っていらっしゃることの始まりですが、ついうっかりすると、自分のことがわかってもらえないんではないかと、そう思われるのかもしれませんですねえ。自分のことがわかってもらえないで、どうして治るだろうと、そう思われるのかもしれませんです。

 自分のことを離れて、はじめて立派な、真実に生きる皆さん方が、即座に、その場で、ここで誕生されるという、すばらしいことが、今日、今晩、ここで起ころうとしておりますが、どなたも考えた自分の、筋の通ったありかたの方を重要視されまして、思い通りの自分の状態が、ここで実現しなければ、自分が生きているということそのものが、無意味なもののように思ってしまわれるんですね。

 もっとも、人生は意味ではありませんから、意味があるとか、ないとかいっていること自体が大きな脱線で、どうでもよい。意味ではない。じゃあ幸福も意味。不幸も意味ですねえ。

 そういうことで、何がどう決まるものではないので、簡単に申しましたら、悩み、神経症、神経症性障害ですねえ。あるいは気分的な困った状態。自分について悲観してらっしゃるというその内容、ことごとく意味でありますから、あっさり今、意味に関係ない生活が、ただちに皆さん方の作業という姿で始まるところに、もう普通、世間の人なんかとても気がつかない、すごいことが起こっているのですが、それを皆さん方が、納得なさらないと、うまくいった感じがしない。つまりよくわかる。納得する。そうだと全面的に肯定される。そういうことが治った状態だと思っておられますから、いつまでたっても治らないわけです。

 治るっていうことは、自分についてのことが納得がいく、つまり意味としてとらえられることと、まったく関係がないんですね。

 非常にきれいにあっさり申しますと、治るということも意味ではないのですから、ただ一重に、実際の生活上の、皆さん方の並々ならないご苦心の、どこまでもその場の必要さに応じてやむをえずそれをやって、その目的を果たしていらしゃることそのものですね。

 森田先生も最後に「ただ働くだけです」といわれたといういい伝えがあります。ごもっともでありまして、実に見事ですね。なにか森田先生が、独特のお考え、思想というものをお持ちになって、それをみんなに分からせようとされたかのごとく思われているのは、大きな間違いでありまして、森田療法というのは思想でもなんでもないのです。

 知ること、分かること、抽象的論理的思考、そういったものから離れて具体的に実際の生活の真っ只中に、皆さんの全治はいつもかも、つまりこの講話をお聴きになっていらっしゃる瞬間にも成り立ちうるものですが、それについて理解、自分の状態を分かるという形に、抽象的論理的に置き換えた途端に治らなくなるんですね。 

 ですから、抽象的論理的思考というのは意味であるためにうまくいかない。今日はそういう説明をしておりますけれども、そんな説明はなくても、実際に働いている姿、生活している姿、勉強している姿、それことごとく全治です。というこの事実は毎回の講話を通じて、少しも変わっていないですね。

 ただ、森田先生の口癖かもしれないですけれども「誰々君分かったかね」と、時々いっておられるんですね。座談会でも「分かりましたか」といっておられます。

 分かるも分からないも、それはどうでもよいのでして、実際のところは、分かったから治るということはあり得ない。まったく関係ない。分かろうが分かるまいが、 皆さん方が今のお仕事に骨折っていらっしゃる。あるいは写経ならその新しい字をお書きになる、その苦心があればもう立派な全治ですね。その他、芸術家としての骨折り、鶴を今まで何度も折っている。何羽も折ったというそれとまったく無関係に、つまり、過去の経験に関係なく今の鶴を折っていらっしゃるという、それが全治でありまして、なにも過去の経験に関係がないのです。

 どうしても、どういうことなのかと、分かろうとされる。それは皆さんの外の世界です。今ここで問題になっているのは内側の世界ですね。それが精神内界ですから、分かることとは無関係です。

 ギリシャ人でしたら、外の世界を大宇宙というのに対して心を小宇宙と、こう見たんですねえ。ミクロコスモス (microcosm)と、こういう。ミクロっていうのは、マイクロバスのマイクロと同じ語源です。ギリシャ語ですね。で、コスモスというのは花の名前だろうと、そう思われるでしょうけれど、もとは宇宙ということです。それが花の名前についたんですね。もっと広い世界のことでありました。

 で、この小宇宙というほど、この心の世界は皆さん方の思いのはて、どこからどこまで、というようなことが決まってないように、広やかではありますが、外のマクロコスモス(macrocosm)大宇宙と同じ論理ではありませんのです。

 外の論理をそのまま、ミクロコスモスの方に持ち込みましたら、何一つ通用しませんのです。それを、自分の心だからなんでもない。昔の言葉でいいますと、組し易し。取り組み易い。とばかりに常識的に自分の心をあつかいますと、さあ大変、うまくいってるようで、わけが分かってるようで全部脱線しますから、解けなくなるんですね。

 ですから自分の心を、どうかしようということは、世間では当たり前でありますが、それが悩みの起こってくる根源。一番の理由であるというところまでは、 世間では気がつかない。という気の毒なことがありまして、皆さん方は今晩それを、はっきり、ここでお分かりになるんですねえ。

 そうしますと、自分のことをいったり、心の問題を取り上げたり、こういうふうにして生きてるんだという、その姿を論じたりされることは、片っ端から、筋の通らない別の論理に引っかかってしまうのが落ちで、それから先、治る気づかいはないですね。

 ですから泥沼に足を滑らせて、はまりこんだようなものですね。あるいは虫の世界では蟻地獄みたいなもので、自分について、あるいは心について、生きるっていうことについて、ひとたびそれに触ったら、なんとかしようとされますと、そこから出られなくなる。這い上がれなくなるんですねえ。

 そういうのを、あたかも病気の苦しさに似ているものですから、病気になぞらえて、神経症性障害と呼ぶわけですね。けれども病気ではありません。これは人間なら誰しも、人間ならっていうのは、チンパンジーはならない。というわけですね。日本猿でもならない。人間が抽象的論理的思考という、言葉と文法を使って、自分を分かったように、自分のことは自分が一番よく知ってます。と、うそぶいて、人がせっかく親切にいってくれても、そういうことには耳を貸されないんですねえ。これ非常に惜しいことであるのです。

 自分のことを自分が分かっている。ということから離れて今晩生活なされば、即座に全治します。真実に生きること間違いなしですね。

 前の院長、宇佐玄雄が書き残した字を、私が昭和三十三年の一周忌に、それをしおりにしまして五枚、お参りに来てくださった方々に、お配りしたんですね。

 その中の一枚に「自然即時入必定」(じねんそくじにゅうひつじょう)というのがありまして、親鸞聖人の「教行信証きょうぎょうしんしょう」 という一番大きな著作、中心をなす、論述されたもので、大部たいぶのものです。四部からなり、教のまき、行の巻、信の巻、証の巻、とありまして、音読みにすると、 教かん、行巻、信巻、証巻といいます。その二番目の行巻ぎょうかんの終わりに、はなはだリズミカルな詞的な構成による「正信偈」 という、浄土真宗の、あるいは仏教の真髄しんずいを述べられたものが付いておりまして、それだけが切り離されて、門徒、つまり浄土真宗の方々のおうちで朝な夕な唱えられている、というものですねえ。

 その中にこの「自然即時入必定」という一句があります。この自然じねんは、皆さん方なら自然しぜんとお読みになる。意味もそれでよろしい。

 皆さん、しかし困ったことに不自然という、自然でないものを反対側に考えていらっしゃるんですね。自然と言ったら反対側に不自然というものを当然お考えになる、これを対立概念という。

 あるといったらない。お天気といったら雨とか、高いといったら低いとかですねえ。反対の言葉で表されるものを対立概念というんですねえ。したがって、皆さん不安で困りますとおっしゃるのは、対立概念である安心を求めていらっしゃる。ということでもあるんですね。

 森田療法では、たまたま、このいい言葉が出ましたので、はっきり申し上げておきますが、対立概念のない状態。これが全治です。

 今晩でも、言葉という言葉、文法という文法を、こと自分に関する限り、あるいは小宇宙、あるいはミクロコスモス、あるいは自己意識ですね。その中に使うことを一切おやめになる。その時はもう対立概念がなくなりますから、皆さんが安心を求められることがなくなってしまう。

 とにかくね、いやなものをきらってなくそうとする。もっとあったらいいと思うものを実際以上に求めようとされるんですねえ。それは、ここにいらっしゃる方々ことごとく共通した心理です。簡単に言えば、良いものをもっと欲しい。悪いものは捨てたい。なくしたい。それが神経症のもとでありまして、外の世界ならなんとかなるんですけれども、心というのは論理の異なる、どうにも普通の考えでは通用しない別の世界ですから、そこへ対立概念を持ち込んで、良いものをたくさん増やしたい。嫌なものを少しでも減らしたい。 なくしたい。そうやっていたら、もうとたんに神経症といわないまでも、悩みがすぐ生じますね。

 誰しも生きるってことを願い、死ぬということを嫌って、これはもう万人共通のり好みです。

 もうおわかりのように神経症というのは、自分の好きなものを増やそう。嫌いなものを減らそうという、その選り好みにあるんですね。したがって、対立概念といいましたけれど、もとはといえばむしろ好き嫌いに関係あるんです。

 好き嫌いっていうことが、人間の感覚に伴う感情として、皆さんご自身で、起こらないようにすることはできません。つまり感覚的なもの、熱いとか痛いとか、つらいとか、辛いというと感情的なものが入りますが、そこに感覚的な純粋に、例えば、なにかにぶつかって痛い。あるいは歯が痛い。お腹が苦しい。といったような、体の外も中もですね、その感覚の起こってくる場所でありうるんですね。 あるいは頭の中で考えるだけでも心が痛むというぐらいですね。そういうようなのが感覚ですが、そこに次は感情が沸き起こります。で、この段階まではとても早いです。

 痛いと思ったら、あっ嫌だなあ。とこう、なんとかしたくなる。で、なんとかしようというのは考えですから、知的なものですね。知能に関係があります。その知能に関係あるところまで、皆さんの頭の中で処理しようとしたらもう失敗するわけです。

 ですから、今までお話してきましたのは、感覚と感情。そこまではもうとても早く来ますから、その次に、なんとかしようというよりも先に、実際の生活に取り組んで、今しなければならない大事な事柄に、手をつけていらっしゃるという、そこで全治するわけですね。

 ですから、自分の頭の中で、どうしようと考え、あるいは言葉と論理を使って自分なりの工夫をする。これ一番神経症のまずい始まりになるんですね。

 そういうふうになるまでの、感覚と感情というのはまさに自然(じねん)、自然(しぜん)であるんですね。もう対立概念も何もない。好き嫌いってことになれば対立概念ですね。そこに、なんとかしよう。楽な方を目指し、あるいは嫌な方を減らす。苦しい方をなくそうと。そのような考えに基づく感情の処理が起こってきたら、もうそこからは治らないです。

 ですからその感覚と感情までのところが、この黒板に書きました自然じねんでありまして、それをそのままで、辛い場合を申し上げれば、嫌だなあ。とかね、 困ったなあ。と、そこまで。これはたまらないとか、いたたまれないとか、そういうもの、これは感情です。そこまでですね、これが自然じねんであります。そしてあとは、すべて実際の大事な生活の方に、進んで行っていただく。そうしますと、 心の問題は、その嫌だなあ。という感覚の次の感情で宙ぶらりんになるんですね。で、その時、宙ぶらりんのまま、これが 入必定にゅうひつじょうです。必ずその、宗教的に究極の状態に入っています。

 必ず、じょう、その定まった決定的な真実そのものに入っています。仏教的にはじょうっていうのは、もう真実です。きわまるということですから。あるいは救われていること。あるいは禅でしたら悟りが現れていること、ですね。それが、なんとインスタントなんですねえ。即時である。この正信偈の素晴らしい時間の表現が、私にですね、森田療法がだんだん治るのではない。と、はっきりいわしめるもとになったんですねえ。

 治られるのは、インスタントである。 このことは他の精神療法の、どれを見渡しても、そんなすぐ治るはずがない。とこういう。

 この間、東京から、わざわざ、マイン ドフルネス、認知療法の先生が京都へ来られて研修会がありまして、聴きに行きました。それはそれは、何十日もかかってですね、少なくても八セッション。一回の話し合いが一セッション。それを順番に繰り返して行くという、たいへんな操作について説明がありました。

 こっちはインスタントで、皆さん今晩もう治っていただくという以外ありえない。これは「自然即時入必定」という、 これに刺激を受けて私が、治療はもうこうであるほかはない。皆さん方は病気でいらっしゃれば治すのに手間取りますけれども、病気の感じだけで困っておられるんですね。それは、自己意識の中で、考えが皆さんを、自分自身を救おうとして組み立てられていくということの失敗です。

 ですから自然じねんというのは感覚と感情ですね、そこまでです。その次の段階の考えは外に使うもので、皆さん方の取り組まれるお仕事や勉強、生活の上に十分に発揮していらっしゃれば、もう立派なものです。これありがたいですねえ。自然即時入必定じねんそくじにゅうひつじょう

 このインスタントさっていうものは、科学者で心理学者でいる人達は、とても分からないです。ところが宗教っていうのは、よくそこまで思いついたというほど、このインスタントさをよく見極めて人を救うんですねえ。

 自分をどうしたら良いかということに、答えを出すことのない状況をつくったら、もう皆さんは全治なんですからね。

 長野市、信州長野の善光寺、ご存じの。 これは今でいう大阪湾。昔の難波なにわで、阿弥陀如来と両脇の観音、勢至菩薩せいしぼさつ。立っている姿だと伝えられる。それが引き上げられまして、それを本田善光という人がもらい受けて、そして今の長野県まで持ち帰ったんですねえ。そこにお寺を建てたのが始まりで、本田善光の名前をとって善光寺というのです。

 善光寺の本堂の床下に「戒壇かいだん巡り」という真っ暗な曲がりくねった道が作ってありまして、私もそこへ入ってみましたが、右に左に曲がっているんですね。もうほんとに真の闇でありまして、次々、 トントントントンと段を降りて床下へ行くわけですが、人が続いていますからね、 他の人の後に続いて行くわけで、それだけは心強いです。けれどもあれが一番最初であったり、一人だけだったら、ずいぶん心細いだろうと思うんですね。右手で触っていくわけです。左がどのぐらい幅があるかわからない。で、曲がりくねっておりましてですね、中ほどまで行きますと、みんなが、ガチャガチャガチャと音を立てているんですね。このマイクロフォンぐらいの大きさのものが、壁についている。真っ暗なのでわかりませんけどね。こう歩いていくとしますとね、ここに、私の感じでは壁についている。皆これ、ガチャガチャとやって音を立てているので、ははあ、そういうものがあるのかと、こう思うんですね。

 で、前の院長、宇佐玄雄が、あれは神経症を治す極意ですと。私が何度も聴いた講話では、唯一それのみが、前の院長が極意といいました。不思議なことをいうもんだと思いましたですね。

 それで昭和三十二年の秋に、もう前の院長がその年に亡くなったんですけれど、その長野の善光寺で、日本精神病理精神療法学会が開かれまして、今は、なんとか会館とか、なんとかホテルで開かれるのが通例です。例えば国際会議場とかね。ところが、その昔は善光寺の宿坊しゅくぼう、つまりそこへ、その信者の人、檀家の人がお参りに来て泊まるための宿泊施設があるんですね。そういうところを借りて、医学の学会を開いていたんです。昭和三十年代の初めというのはそういうものでした。

 それで、学会が済んでから、それは夕方で、あくる日、これだけは是非行っておかないといけないと思いまして、そこへお参りに行ったんです。

 そうしますと、ここに、こう降りていく階段があって、それで、こう曲がってるんです。私の見たところ、中へ入った感じでは、坂はありませんでした。真っ平ら。そういうふうにして、皆目何もわからないところを行くということは、考えが役に立たないということですね。常識が何にもならない。まさに前の院長、宇佐玄雄のいおうとしたのも、考えてうまくいくものではない。ということです。ただ、右手と両足が頼りですね。つまり、実際の生活なんですね。

 皆さん方の治療、あるいはご自分についての治療、あつかい、というものは、もうことごとく考えによって、やっておられるんですねえ。それで失敗する。考えを離れて、生活を純粋になされば、もう今晩、全治疑いなし。間違いないですね。それが親鸞聖人の自然じねんなんですね。

 ですから、全部一通り歩かなくても、一歩進めれば、それで全治なんですね。本当いえば。

 最後の二つ曲がるところの、一つ曲って、ちょっと行くと、ポーっと、薄明かりが見えてくるんですね。それはもう、ホッとしますですね。そこからトントントントンと段を上がって外へ出るんです。

 それで、私が講話で、たいへん良かった。これはもう神経症を治す極意である。というふうに申しましたらですね、奈良県の王子町、大阪府との境になります、法隆寺から南西ですが、そこから山に登りまして、朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)。こんな長い名前の寺は他にありませんですね。そのお寺は、信貴山という山の上に立っているんですね。世間一般では、朝護孫子寺というお寺の名前より、信貴山というほうがお寺の意味でいわれています。

 で、三省会でそこへ行くことになったんですねえ。どうしてかといいますと、そこにありますというニュースが入ったんです。それなら行きましょうということで行きました。行ったのは良かったんですけど、まるで違うんです。長野の善光寺は皆目わからない。真っ暗。信貴山は蛍光灯がついてるんです。足元にね。全部、曲がりくねった廊下が、足元を照らされてるんですねえ。これでは前の院長がいった、神経症を治す極意とは到底ならないですね。分かってしまうんです。

 それから、私は知りませんが、なにか近畿地方で、またもう一箇所、そういうもののあるお寺があるということを聞かせてもらいましたが、もう、その、ポーっと明るいような装置があるようなところではもう、皆さんにお勧めするほどのものではないんです。

 で、こうして、肝心なことは、自分、 心、あるいは生きる、というこの姿に、 皆さんのお考えが引っ付かないように。 これはこういうことなんだなあ。つまり 「こと」として皆さんがおつかみにならないように。心とか、自分、生きる姿は 「こと」ではない。さっきは意味ではないと申しましたようにね。

 ですから、どんな説明をしても、皆「こと」になりますので「分かりました」というのは、すべて治ったことにならないのです。

 それに反して、皆さんが今晩、一生懸命、作業なさった。これは見事に「こと」 を離れている。「考えた生きること」を離れた実生活ですね。実際の仕事ぶりですから、これはよっぽど上等です。ですから、分かることを先にしようとすることほど、馬鹿げたことはないのですね。

 マインドフルネス(Mindfulness)というのは、意図的にですね、つまり、わざと皆さんが、この瞬間、意味付けをなさらない。わざと意味付けをしないで、 この瞬間にこうであるという状態。それを指して、マインドフルネスとこう呼んでいるんですね。そこへ認知療法が引っ付いてきたんだそうです。認知療法があって、その中にマインドフルネスというものができてくるのを目指すのではない。と、この間、東京の先生が一生懸命いっておられました。

 意図的にですから、私にとっては「考えが働くなあ。だからだめだなあ」と思って聴いてたんですけどね。ここ(三聖病院)のは皆さん方の考えによって、こうだああだという工夫が、心に行われたらもう治らない。ですから皆さんが作業に骨折っておられる瞬間、瞬間というのは、ご自分の方に工夫が向かないんですね。ただその仕事に、一途に骨折ってらっしゃる。世間ではそれを、集中といいますが、集中という言葉は使わない方がよろしいですね。集中というのは考えになってしまう。どうしてもなかなか集中ができない、というような。

 考え、集中はどうでもいいのでして、 いろいろ気になることがあるままで、今の、とりあえず目の前の仕事に骨折って進んでいらっしゃる姿。それでここは全治なんですね。マインドフルネスというようなものが、あろうがなかろうがどうでもよいのです。

 森田療法では、意図的にということが何もないですね。あるがままは、これからあるがままにしましょうというような、皆さんにお誘いすることがない。意図的に、こうしましょうというのではないんですね。そこが大きく違います。いわば、手間ひまのかからない、ただの放ったらかし。が、あるがままです。言葉のない、文法のない状態が「あるがまま」ですね。したがって、世界のどの精神療法も、これに追いつくことはありません。

 言葉のない、文法のない精神療法というのは、今まで、一度も聞いたことがないです。精神療法というのは、もう三百もあるという、世界に。人によっては四百もあるという。ま、それは色々な治し方が、工夫一つで生まれてくるんですねえ。その治そうとする工夫がいけないのです。

 こうしたらいい。自分の悩み、考えなどを風呂敷に包んで、ぽいと、川に投げ捨てる。という、皆さんお笑いになるかもしれませんが、そんなことまで大真面目に心理学の学会ではいわれていて、ある年の学会で、三つや四つ新しい治療が出てくるのが普通だそうです。みんな考えるんですね。ところが、どれもこれも考えによる治療ですから、私どもの事実による治療と違う。ここのは事実による治療でありまして、考えというものが引っ付きません。考えは皆さんの外に使う。

 今日お話してますこと、さっきお話したことを絵にしますと、感覚、そしてやがて、というよりすぐ感情、好き嫌いですね。そういうふうに、パッと変わるんです。痛いというただけで、すぐ感情が起こるんですね。その次に、思考、つまりこれがこうだからこうしたらよい。あるいはどうしたらよいか。という、当たり前のように思っておられますけれども、論理の異なる自己意識の世界でこれをやったらもう、脱線するのに決まってるので、ここで止めなければいけないですね。この自己意識の思考はだめで、思考は皆さんが、外の他者意識の世界へ、十分、いいお考えで仕事に取り組まれる。あるいは勉強なさる。生活なさる。それが全治なんです。これ非常に簡単でしょう。

 感覚と感情はもう、そのまま放ったらかし。良いも悪いもないです。その次に、どうしようという時に、すかさず、外の今の生活を始めてしまわれれば、もう全治なんですね。これが、インスタント、 即時入必定ですね。自然じねんというのは、まさにこれが自然じねんなんですね。しかもほかならぬ「あるがまま」なのです。

 皆さんに、はっきり申し上げておかないといけません。いや、多くの心理学者にもいっておかないといけませんが、人間の知能というものは、外向きの仕組みであるんですね。これが、よく知られた事実であるにも関わらず、心理療法、精神療法では、ころっと、みんな忘れてしまって、一生懸命、心の問題を、人間の言葉、考えで解決しようとするんですね。これ大きな間違いです。

 ですから、精神にはいろんな働きがありますが、精神の外部機構っていうのは外向きの仕組みである、ということです。これは、人間の知性、あるいは知能、知的な働き、知ること、分かること、納得することなど、知的な働きを、自分、心、生きること、に使うということは、使い間違いであるんですね。私だけがいってるのではなくて、ちゃんと心理学の教科書に書いてあるんですね。みんな忘れてるだけです。で、馬鹿なことをしているんですね。

 精神療法というと、カウンセリングかしらとお考えになるかもしれません。カウンセリングというと、一つの心理療法のあり方でありまして、一生懸命、悩みを聴いてくれるカウンセラーという人がいて、べらべらしゃべらせている。それが傾聴だという。その人の悩みが大事だから解決するっていうのは、良いことのように聞こえますけれども、その人の知能を自分のために使ってるわけですね。自分の説明ばっかりするのに使ってる。治すためにやってるのかもしれませんけれども、治らないことを決定的にしている。という馬鹿げた行為であることは皆さんお分かりのとうりですね。

 こういう説明をしたら、なんと世の中で馬鹿げたことを推奨すいしょうしてるなあと、お分かりになりますね。心理療法と称して、心の悩みを聴いてあげますというのは、なんという不親切なことでありましょうか。

 そういうことです。今日は、このへんで講話を終わります。

(平成25年9月13日 三聖病院における宇佐晋一先生の講話)


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