三省会

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宇佐晋一先生 講話

 

美術史学事始め  

 1944(昭和19)年入学して間もなくの4月の掲示板で、ひときわ目を惹いたのは学生課主催の「古美術見学会」で、「第1回法隆寺、講師は文学部講師 源豊宗先生」と書いてあった。これはありがたい。総合大学なればこその恩恵である。医学以外の勉強が、それも専門の先生の指導のもとで出来るとは夢にも思っていなかったからである。

 当日はやる心を抑えて、集合場所である法隆寺中門前に行って見ると、それらしい学生はパラパラと数人がいるばかりであった。講師の源先生もいささか拍子抜けのていでお気の毒な感じがしたが、それでもまず「私の『日本の古美術図説』を読んだ人は手をあげてください。」と言われた。が、それもやっと3人であった。私はその本の存在すら知らなかった。

 私は今とちがって古瓦以外の仏教美術の知識はなく、雑誌「考古学」に掲載された藤沢一夫氏の「飛鳥期瓦の再吟味」を読んでえた法隆寺再建説に基づく古瓦論の知識と、川勝政太郎氏の『古建築入門講話』の挿図の理解にとどまっていた。したがって北川桃雄氏の大版の写真図録『法隆寺』を買って、写真に親しんだのは見学会のあとであった。

 法隆寺金堂の入口のまえで調査主任浅野清氏(のちに大阪市大教授、博士)の挨拶を受ける頃、急にうす暗くなってきた。これはあとで気がついたら偶然その日は皆既日食だったのである。金堂内はさらに暗く、模写事業の画家の横の壁画を照らす、いままで見たことのない蛍光灯の白昼のような明るさのみがまぶしかった。そこには六号大壁阿弥陀浄土変(担当者入江波光、京都市立絵画専門学校教授)など大小6場面の仏国土を描いた壁画のまえに模写中の画伯が皆横向きに高低さまざまに台座を組んで座り、その前に斜めに画を描く台を置き、そこに白黒の実物大の写真を敷いて、その上に模写する紙を置き、それを揚げたり、降ろしたりして、絵を写しとりながら着色していくので揚げ写しという。私は壁と仏像の基壇の間に置かれた模写の台座の間の狭い空間を縫って、やれやれという思いで一巡した。

 森田療法的にいうならば、申し分のない「他者意識のみによる生活」の実現で、これ以上のものはないといってよい、素晴らしい自己意識の消失した瞬間であり、仏国土の中に浸っていたのである。

 1949年1月26日早朝、画家の電気座布団のスイッチのきり忘れから出火し、この名宝が焼失したのは惜しみでもなお余りある衝撃的な痛恨事だった。

   2023.5.28



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