三省会

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宇佐晋一先生 講話


「それで治す」は失敗に終る  

 森田療法を行うなかで、広く森田理論の学習が治療の中心のようになって来たのは、私としては心配である。一方には精神医学的な病因論の進歩により、森田神経質とその症状の成立の新たな理解が一般にも普及し、わかりやすくなったことが療法の理論的説明化の背景にある。もう一つは専門の森田療法治療施設に入院しなくても、経験ある先輩方の指導による修養的生活で治そうという集まりが各地に生まれ、経験談をのせた月刊誌がそれを支えるというシステムも確立を見たことが挙げられるであろう。

 それでは理論学習のどこがわるいというのであるか。たしかに理論学習は他者意識上の精神作業であるから、それはもう全治の姿であるといってよい。それなのになぜ心配するのかと疑問に思われるに違いない。それはこの理論学習が治療法として喧伝されている点にある。治療法であるはずの理論学習が治療に用いられて、どうして悪いのだろうかと、ますます不審に思われるのももっともである。しかしよく考えていただきたい。治療する行為は自己意識内のことである。精神療法においてはもちろんのことであるが、一般に知性は精神の外部機構であって、他者意識においてのみ用いて有効なのであった。つまり「それで治す」というところに来て脱線し、失敗に終るのである。心の問題が大事だというので、対策に危機感を共有するのはよいが、知性は心すなわち自己意識内容に対しては守備範囲外であることを忘れてはならない。

 森田正馬先生はご自分の学説を理論化して学習せよとはいわれなかった。それどころか第2期以降、起床時と就寝時の1日2回、日本で一番古い本である『古事記』の冒頭の部分を印刷して、それぞれ5分間ずつ声を出して読む、という作業を日課として作業のうちに加えられた。それは1933(昭和8)年ごろのことである。「今度こういう冊子を作ったから三聖病院でも使ってくれ。1冊10銭」というお手紙が残っていた。これはもう読めばただちに全治するもので、理論学習の比ではないのである。

   2022.5.11



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