三省会

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宇佐晋一先生 講話


全治に告白は不要  

 長年にわたり日本森田療法学会が開かれるたびに、有名なご高齢のA先生が、演題をもうけて研究発表をされるのには敬服にたえないものがある。しかし毎回きまって「森田神経質の全治には、本人が他人に知られたくない病歴について、包み隠さず告白することが必要である」と説かれるのが常である。それで学会のあと「 "告白" は森田の『あるがまま』ではないように思う。どちらが本当か」という質問が再々寄せられるようになったので、迷う方がほかにもいらっしゃるだろうと考え、この際はっきりさせておきたいと思う。

 この告白是非論の答えはもとより明白で、「あるがまま」の全治は告白をするまえの "今" の状態であり、告白をしてからでは手遅れなのである。「あるがまま」はきめられない「なにでもないもの」だからである。したがって概念化されることがなく、条件を作ることがない。これを「絶対無限定」といい変えることができる。告白はどなたもおわかりのように自己意識内容を概念化したもので、もうそれだけでも真実からの脱線であり、全治からは遠いもの、というより全治不可能な状態をみずから作り出す愚行といわねばならない。

 前院長は初診時に症状を訊く以外に、入院中に自己意識内容について、ことさら訊くことはなかった。私は医師になりたての頃、大学の精神科で症状を訊きまくる先輩に習って、それがよいと思って三聖病院でそのとおりにすると、前院長からは何度も叱られた。しかしどうして叱られるのかがわからず、症状を詳細に聞かないようにして全治させる父の森田療法に疑念を抱き続けていた。ようやくにして自己意識の無概念化が真の全治であるとわかったのは1957年に父の没後に院長になり、多忙で責任が重くなってからのことである。

 ここにヒントになる重要な話がある。昔水谷啓二氏が学生の頃森田の自宅で治療をうけていた時、森田が東京慈恵会医科大学の臨床講義に彼を連れて行き、学生たちの前で症状を語らせて、あとでそのことを褒められたという。これは自分の治療のための告白ではなく、学生らのための他者意識上の犠牲的行為であったからである。

   2022.11.25



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