三省会

目次

宇佐晋一先生 講話

時間


 あまりにも急な、皆さんのご期待通りのことが、お考えより先に実現するというその速さですねえ。
 速いっていうこと、それは今日、時間について始めから終わりまでお話してもよろしいわけで、時間っていうようなことを、この精神科の話でどう取り上げるのか、皆さん文学部の哲学科の講義ではないかと思われるかもしれませんですねえ。
 けれども、真面目にそれを申し上げますのは、ここに「言語道断去来今ニ非ラズ」と、そう書かれていて、それは過去、未来、現今、そんなもんじゃない。とこういっているんですねえ、これは時間ではないといってるんです。
 で、何をそういっているのかといいますと、その対象は、なんと皆さんご自身あるいは、心と言い換えてもよろしいですね。
 それが時間と共に成り立っていて、それよりほか仕方がないのですね。皆さん過去の歴史を消し去るわけにいかず、将来のいろんな不安をまったく払拭することができず、そういう過去と未来とを見渡して、現在ただならぬ状況に立っていらっしゃるんですね。
 こういう状況っていうのは、どうしたらいいか、いろいろ知恵をしぼってお考えになるほかありませんです。人の手を借りるっていうのも、人の考えを借りるっていうことですねえ。
 ところが、どうにもならないのかといいますと、なんでもないんです。ほんとに皆さん、もうあっけにとられて、その本治りを、ご自分の、こんなことがあってよいのか。
 つまり考えによってとらえられたどのような歴史的背景も、もうかなぐり捨ててですねえ、ただぶっつけのものとして、ただ一つの例外も残すことなくですね、広く、この心の問題を覆って、そしてもう一つ早いのと、すべてを覆っているというのと、そして根本的であるということですねえ。
 それがなんと、時間というものを取り上げないという、その妙なことで全部が一挙に成り立つという、そこのところにこの森田療法の、森田先生もおっしゃらなかったじゃないかといわれそうですけれども、その一番肝心なものが現れて、皆さんが思っていらっしゃるよりいい治り方をなさるんですねえ。
 この想像っていうのは、もちろん理想的なものを熱心に求められるのが、森田神経質の方々の共通した完全主義的態度ですね。ところが、その方々も望むべくして得られなかった。というほどの飛躍的に、別の高さをもった状態を、今晩この講話が終わるまでに、ちゃんとご自分の努力によらずに実現なさる可能性は十分にあるんですねえ。
 皆さんが、そのご自分の努力によらずにとこう申し上げるのを、変な話だと思われたでしょうけれども、これ皆さんのご自分に対するいろんな努力をなさる、その一つ一つが尊くないということをいっているのではなくて、一番的確にいえば、筋違いでありましてですね。
 どなたも真面目に、もうけっしてこの熱心さにおいて、人に負けるもんではないと、そう自負していらっしゃるに違いないですが、それが、それなりの効果を現してこないというのは、相手が悪いんですねえ、相手が。
 その皆さんがお考えになっている論理に従わない。そういうものだからでありましてですね、いわばすれ違いです。で、その相手は、申し上げるまでもない皆さんご自身、心、普通、私とか、自分とか、そういうふうにイメージとして描いていらっしゃるものですね。
 英語でならセルフイメージ(self-image)ですね。マイセルフというときのセルフですねえ。そのご自分のイメージ、なんとそれが具合が悪かったんですね。
 で、世間の人皆んなです。皆さん方だけをこう、いろいろ私が、批判しているわけではなくて、世間の人皆んなですね。自分っていうものを描いた。そこに問題を見つけては解決しようとして悩みを生じるんですね。
 悩みっていうのは、悩みを解こうとするところに生じますので、神経症も治そうとするところに神経症が出てくるんですねえ。神経症があるから治そうとしているんですと、おそらく皆さんどなたも、そうおっしゃるでしょうけれども、悩みがあるから解決しようと思うんです。と、そうおっしゃる。
 そういうふうに見えるんですけれども、実際は解決しようとするところに悩みが存在するんですねえ。治そうとするところに神経症が現れるんですねえ。
 けっして、にわとりが先か卵が先か、というような問題ではなくてですね、非常にはっきりしていることでありますから、今晩、悩みを解こうということを離れて生活なされば悩みは消えますし、今晩、治そうということをおやめになりますと、神経症はもはや成り立たない、ありえない、存在しないんです。そういうことですから、治し方の話ではけっしてないんですねえ。
 ところが、森田療法以外の精神療法、心理療法、まず治そうとするという明確な目的をもっていますですねえ。ところが、こちらはそれがないです。一番中心的な課題はどなたもご存じの「あるがまま」「そのまま」ですね。あるいは「このとうり」でもいいです。
 これは分かりにくいということから、いろいろ分かりやすいような説明がなされていますけれども、本来は、まったく言葉のないものでありましてですね、かくかくしかじかと、けっして皆さん方のすぐれたお知恵で、これを明確に定義づけることはできませんです。
 自然といってもいけませんですねえ。なぜなら自然といったら必ず不自然ということを頭の片隅で、ちゃんと対立概念として考えておられるんですねえ。治るといったら治らない。ということを一方に考えておられる。
 これはもう、雨というとお天気と考えるのとほんとに同じようなもので、この対立概念を成り立たせているのは、その「対」という一文字ですね。
 ですからその「対」という、3対5のときの「対」ですねえ。言葉、文字をなくす。というような、これは、ああそうかと、やっと気がつかれたときには、それはもう考えになっているんですねえ。・・・・・
・・・・これがいかんですねえ。この「対」これがいかん。というのならですね、これを消し去ったらいいだろうと、それはもちろんそうなんです。それが対を絶する「絶対」なんですね。・・・・
・・・・「絶対」でいいんですけども、どうも自分は、その絶対でない方へまわってしまうような、そういう位置付けをえてしてしてしまわれるんですねえ。なんか良いものをぽんっと出すと、それでない方へ自分を置いてしまわれる。
 したがって「あるがまま」っていうのは、もう絶対これで、絶対治っている状態なんですが、それでない方に自分を置いてしまわれる。これは考えてみたらですねえ、空気も水もマイクロフォンもタオルも全部「あるがまま」なんですねえ。
 言葉をなくしてしまったら、なにもかもが例外なく「あるがまま」ですから、それをおし進めれば「あるがまま」でないものは、ありようがない、ありえない。
 なるんですけれども、言葉、考えというのはおかしなもので、ある決め方をしますと、それとそれでないものにすぐ分かれた形になりまして、その比較の中に、こっちが良い。こっちが悪い。あるいはこっちが好きだ。こっちが嫌いだ。といった種類の価値的な見方や、感情的な捉え方がそこに加わりますと、もういけませんのです。
 そこからは、ご自分を良い方へ良い方へと、こうもっていこうとなさって、その比較、つまり絶対でない方ですねえ。「対」という比較を明確になさるばかりという形で、治るものも治らなくなってしまうんですね。世間の人は皆んなそういうことで悩んでおられる。
 ただそれを医学的な問題として捉えれば、神経症でしょうけれども、そういうふうに捉えなければ、これは健康保険証もきかない、なんともいえない難しい、こんぐらかった問題ということになりましてですねえ、相談相手としてはですね、心理学者ということで、精神療法も心理療法も同じですけれども、心理療法をお受けになると、こういうことになるんですねえ。
 皆さん幸いこれを病気と認識されたことがよくて、この精神療法、森田療法、これをお受けになる、そういう状況に恵まれていらっしゃるんですねえ。
 で、これを療法という、文字通りある病的な状態を治すという意味の言葉をもった方法で捉えますと、治っているか、半分治っているのか、ちょっと治っただけでなかなかうまくいかないのか、ですね。
 いろんな段階などをお考えになって、この間の三省会でも、それぞれの思いをおっしゃる中に、程度の差で表現しようとしておられるのが察せられましたが、多くの人は治らない状態から治る状態へのいいきっかけをおつかみになって、だんだん治る方に近づいていらっしゃる、もうそういうところとしてみておられるんですねえ。
 けれども、このだんだん治るというのは、たびたび申し上げることですが、どう工夫してもそこから治るということのない、残念ながらまずい捉え方でして、それを数量的にですね、だんだん10日経てば、40日の治療期間のうちの4分の1ですから、これで25%治ったと、20日経てば50%治って当然だ、とかね。
 といったように将来を予測するのにですね、そういう数量的な捉え方の図式は役立ちますけど、だんだんその75%とか、80%とか、つまり40日が近づいてきますと、どうもそうはいかんなあということになって、結局39日目に至ってですね、「ああ自信がありません」と、そういうふうにこうおっしゃりたくなるんですねえ。
 これは、なんの気なしに使っておられる、皆さんその理論っていうものがあるんですねえ、ものの状況の説明に役立つだけでなく、もう一つの特色として、将来を予測するのに役立つんですね。
 で、それは普通の論理の上に立って、科学者としての皆さん方が、あらゆる社会科学も含めまして、その状況を詳しく分析された上で、その成り立ち、原因などをはっきりつかまれ、将来を予測なさる。これはごく普通の生活ぶりです。それは外の世界はそれでいいんですねえ。
 ところが先ほど申し上げました通り、皆さんご自身、心、精神とか、私、とかいっておられる、それの世界はまったく論理が異なりますので、ほんの少しも外の間違いない筋書き通りのことがらが通用しないんですね。
 ほんの少し通用しないだけだろうと思っていらっしゃるかもしれないですので、はっきり今晩は申し上げておきますけれども、もう、てんと、外の普通の理屈や、あるいはこうなるはずだという類推、予測ですね、そういったものがあてはまらないんですねえ。
 そういう世界など知りませんとおっしゃるでしょうけれども、実際はそれが全治の世界なのですから、知ることから離れたらもう即座にこの場で実現するんですね。
 実に皆さん方の本治りを妨げているのは、ご自分を知る、認知なさる、という自己意識の中を分かる形に置き換える、その優れた頭の働きが、その張本人でありましてですね、それを外向きの、本来人間の知能、あるいは知性が担当する、外へ向けての解決の分野ですね。
 これは人類始まって以来、ますますその対象が広がり、深みを増し、宇宙の果てまで非常な精密な検査で衛星を飛ばしている。そういう状況でもう申し分ないです。同じその頭がどうして自分自身をうまくコントロールできないのかと、残念に思われるんですね。
 「どうして自分一人がこんなに苦しまなければならないのだろう」という悩みをかかえた息子さんの相談にみえたんですね。
 そういうふうに、どうして自分はと、こう思うわけでして、そこに答えを、自分について、心について出そうとされますと、それは行き止まり、あるいは矛盾に終わるという表現をとってもよろしいことで、そこから治ってくるきづかいはない、ですね。
 ですから本治りっていうのは、もう実にあっさり申しますと、自分を認識の対象にしない。分かる、分からないの問題ではない。分かるのは言葉によって、そして文法で組み立てられました、考えによって自分をとらえているんですね。人間の心を自分自身で概念化する、考えに置き換えるという、その優れている頭の働きが自分、自己意識の中に及んできて、どうにも具合悪いようになってしまうんですね。
 外が対象になる。私、横向きに話をすれば分かっていただけるでしょうが、外のものを対象にして、人間の頭はとてもよく発達してまいりましたので、今後もますます磨きをかけていただきたいんですね。
 ところが自分対自分の問題となりますと、まったく、そのすべてが優れた知能の働きにそぐわない、役に立ちようのない世界で、そんなことないだろうと思われますけれども、結局それは考えとしてとらえるという結果で、工夫してうまくいくと思う、それが矛盾なんですね。
 その本来、人間の知能は外向きの仕組みですから、外へ向かってのことならお手の物ですけれども、それを自分、自己意識に一切、使っては具合が悪いそのことを忘れて、自分を考えに置き換えて、どう解決したらよいか、どう治したらよいか。とやるわけですから、それで矛盾なんですね。
 ですからね、今お話してる前提になっているのは、人間の知能が自分自身を対象にしたときは、まったく役に立ちません。というそのことです。それが大きな前提ですね。
 そしてここへいらっしゃった皆さん方が、間違いなくご自分、つまり自己意識の中の問題をなんとかしようと思っていらっしゃった。ということは、素直な実際の働きである、人間の知能の外向きの仕組みを、内側の、本来守備範囲でない領域にまで広げてしまわれた。ちょっと便利そうなので、自分を対象になんとかしようとされたという、そこなんですね。
 ですから本来の人間の知能のあり方である、外向きの仕組み、言葉を変えますと外部機構です。外向きに役立つんですね。ですからそれは守備範囲として十分ですが、こんなに物事を賢く考えられるんだから、自分ぐらいなんでもない。自分の悩みを簡単に解決できるだろうと、そう思われますけれども、実際はお手上げなんですね。つまり間違った組み立て方をしてしまうんですわ。
 事実あるいは真の実在を真実と申しますなら、それは言葉に置き換えたのでは、とうてい本来の姿では現れない。真実っていうものは、言葉に置き換える前のものですから。
 そこで、そこに目をつけているのが森田療法の、言葉のない「あるがまま」ですね。これだけでいいんです。これ一つあればもう、一生使いきれませんね。
 なんだ森田療法というのはあるがままか、とこうなんとも頼りない、暖簾に腕押しみたいな、こんなもんで治るだろうかと思われましょうがですね。
 これさえあればもう、たとえ強迫性障害であろうと、身体表現性障害であろうと、自分対自分の問題で生じてきたものことごとくが、この一瞬、10分の1秒もかからない、一瞬にして治るっていうのは、森田先生もそこまではっきりおっしゃらなかったですねえ。それは将来の楽しみということで、残しておいてくださったのかもしれませんが、もうもの凄いことなんですね。
 で、いまさっき「時間」と申しましたので、哲学的と思われたかもしれませんけれど、日常的な言葉でいいますと「経験」なんです。あれをしましたこれをしました。つまり、こういうことを今日の、今日という過去にしてきましたと。そいうような一つの最も身近な経験ですね。そういうことです。
 ですから、この今晩の話は、経験に基づかない皆さん方の、こんにち只今の、むずかしい問題、いま目の前にある、守らなければならないとされているこの場所で決められたことですねえ。
 例えば作業室で黙っている、お風呂場で黙っている、食堂で黙っている、というような。ですから、いっぱいその、できるかしらというような難しい、京都の言葉でいえば「難儀やなあ」というような、そういう難儀な問題を、こうるさくいっぱいつくっておいてですねえ、それを皆さんが黙々と実行していらっしゃるというかぎりにおきまして、神経症は成り立ちませんのです。
 どう治すかではないんです。もうはじめから成り立たないんですね。そこのところが後でよくおわかりになりますから、どうしてですかとおっしゃらずに、どうしてですかとおっしゃるとですねえ、ご自分を考えの対象に、認識の対象にしてしまうという、さっきの矛盾が起こってくるんですね。
 ですから、私の役割として一番大事なことはですね、皆さんがおわかりになる前に、今晩その治っていらっしゃる状態を実現しなければなりませんですねえ。
 そういうのには、方法というものがあってはなりませんのですね。これはもうまさに無方法、強いていえばそれが方法なんですね。
 ですから、どうしたらいいですかとお尋ねになったら、もう絶対うまいこといかないんで、まるで見当違いのところからいきなり指示がでて、こうしてくださいというのがでてですね、そして皆さんが当面、最も知りたい、つかみたいと思ってらっしゃる、その多くは自己意識内の問題ですが、それから新しい外の課題に明るい意識の中心が、かわらなければならないですね、絶対に。
 ですから今皆さんが、なんらかの主題としてお持ちになっているご自分の問題。これはかならずここで問題になるのは自己意識の中です。それを明るく集中したい、その熱心な意識の中心にすえておられると、もうどこまでいっても明るくて、それを闇に没してしまうことはできませんのですね。
 治そうという努力は、こうしてどうにも明るく常に皆さん方の関心事としてですね、いつもかもはっきりし続けるので、治るということはとうてい望めないんですね。
 ですから、まったく意表を突くような、思いのほかの別の課題が主題といってもいい、ぱっとそこに現れてですねえ、その何事かとですねえ。
 どういうふうにもっていったらいいか、その解決に、ちょっとやそっとでうまくいきそうにないなあというそれをですねえ、過去の経験に関係なく、今の課題として一生懸命骨折って、解決のために、解決しなくてもそこまでいかなくても結構ですから、その取り組みを手をゆるめずに、ずうーっと続けていらっしゃればそれでよろしいんですね。
 第二期の方が、朝から夕方まで長い時間外の動物、植物その他いろんなものを、間近にご覧になってですね、今までも見ておられた同じ対象であり風景であるかもしれませんけれども、どうなってるかと思ってご覧になったらもうそれで、その瞬間をもって、心の問題、神経症の問題の完全な解決、あるいは徹底、あるいは真実の姿など、いい方はいろいろありますが、究極のものがその瞬間に現れているんです。
 まだ第二期なんか序の口だろうと思ってらっしゃるかしりませんが、もうそれで十分なんですね。
 で、なにか別の、特にいい状態でもあろうかと考えるのが間違いでですね、世間の人は心にもいろんな心のあり方があって、特にこの「平常心」といわれるような、特別によい、ぐらつかない、不安に思わない、何事も気にしないような状況が、多くスポーツの選手の口からですね、「平常心でやれたのがよかった」とかいうように、なんかスコアがいいと、みな心のせいにしたがりますですね。
 そういうのを皆んな聞いてるもんですから、若い人が平常心をお手本にもちたがるんですねえ。これは大きな間違いで、私が一生かかって、平常心というようなものが、あるのではありませんといい続けてもいいくらいですね。
 平常心というのはそのときの心をいう。ですから皆さん方のお持ち合わせの財布の中身みたいなもんでですね。ご自分で何10何円までご存じなかろうと、ご存じであろうと、そんなんに関係なく、財布の中身は中身ですねえ。
 そんなのが平常心ですから、いま平常心だろうかって、そんなことをかえりみる必要は毛頭ないんですねえ。
 ソウルのオリンピックゆうたらもう何10年も前ですけども、射撃で大阪府警の、大阪府の警察ですね、その女性の警官の方が、大会がはじまってもう2日目かぐらいで、銀メダリストだったんですね。
 日本から行った連中で、最初のメダルをもらった人だったんで、非常に有名で、でその、大阪へ帰ってから、なんか巡査部長になったという話ですが、そのソウルでのインタビューでですね、NHKのアナウンサーが、その人がどうも会場が陰気な雰囲気だったといわれたのに対して、もっともっと平常心だったらゴールドだったでしょうかというたのを私はおぼえておりますが。
 そういうふうになんか状況によって平常心が妨げられ、うまく現れるときもあればそうでないときもあるという前提のもとに、みんなが心の問題を考えているようなところがありますですね。
 ところが、心は、皆さん方これからもう持ち方もなにも、置き所もあったものではなくて、どうであろうと、皆さんのこれからの、大事なお仕事ぶり勉強ぶりを妨げるなにものでもないです。
 つまり先に解決をして、ずうーっといい状態を保ち続ける必要のまったくないものなんですね、知らん顔でよろしいです。
 ですからお釈迦さんも、心がどうのこうのって、そんなお説教されたことはない。あとの人がいろいろいい状態を考えるのに、心のあり方を問題にしてるだけの話でありますからですね、心に一言でもふれるということはもう今の皆さん方からすれば、たいへん見識のない、ここではもう最も具合の悪いことであるんですね。
 そんなことですから、ここでは心を条件にしませんので、どんな心がよい、心がこうなってはダメだという批評は、ぜんぜん当たってないんですね。
 そこで、あるがままを思い出していただきたいんですけれども、これは「そのような」ということなんですね、「このような」でもいいです「こんな」でもいいですね、あるいは「そんな」でもいい。
 とにかくこう、「こうです」と言葉にだして、それを明確に規程するということのまったくない、ぶっつけの状態ですから、用事がないというてもいいですね。
 ですから、ほんとの用事は、皆さんの目の前の仕事や勉強にありましてですね、いきなりそれに大急ぎで取り組んでいらっしゃれば、その相手が小さな花であってもですね、紙くずであっても、これはまったく選ぶところではありませんです。紙くずはだめで花はいい、というようなことはないんですねえ。
 そういうことをお話しして、ふと思いますのは、作品そのものは、まったくこれは昨日描かれた作品も、何百年前の作品も、まったく同列に並べられていて、その色と形の作品を皆さんがまともに第一期療法の説明書きにありましたようにですね。
 「見えるものはそのまま見る」ということにのみ努力されれば、それで今日のテーマであります、「時間」「経験」の問題はですね、一瞬にしてその作品の歴史を消し去って、こう誰の作品も同等に眺めるということが可能になるんですね。
 これはとても大事なことで、皆さん方の組み立てられたご自分の心の歴史というものが、さっき今日一日の歴史で、今の悩みが組み立てられる、出来上がってしまうという例をあげましたですけれども、その由来に関係なく、これを絵と同じように味わっていらっしゃるという状況で、もうそれ以上のあり方はないんですね。
 これが森田療法の言葉のないあるがままで、時間とか経験とか、そして今それを言い換えて歴史と申しました。そういうものが一瞬にして、皆さん方の、これが自分だというその背景から消え去るんですね。
 言い換えれば、額縁のあるなしに関係ないものがそこに現れて、そして、心の問題のいっそうの解決ということが必要でなくなるんです。いっそう、これから、もうちょっとなんとかしないといけない。
 で、もうそこまで行きましたらもう話は簡単で、どんな額縁のつけられた絵でありましょうとも、その額縁のそれぞれの趣を、皆さん絵とともにご覧になりながら、共に味わっていらっしゃるという、これでもう額縁の良し悪しはなくなるのですねえ。
 もっとこういう額縁に入れ換えたらと。絵をお描きになる方も、あれたいへんだろうと思うんですねえ。額縁っていうのはたいへん高いものでありまして、同居してるだけであってお互いを助け合ってると思ったら大間違いですねえ。
 ただ同時に、目には見えてしまいますから、それはそれなりに別々に味わっていくというだけのことで、ある以上はですね、それを見ないでおくというわけにはいきませんのですね。
 そうすると、今いろんな例をあげましたが、ご自分の今これが自分でこれが心でという、いろいろこう分けてお考えになっていることがら、一切こう説明や、分類、比較などをぬきにして、ぶっつけにそのとおりこう机の引き出しの中がごちゃごちゃになってるような場合と同じようにこうもっておかれてですね。
 それは後回しにして、実際の今大急ぎでしなければならない大事なことの方に、すっと、とりあえず手を出していらっしゃればですね、もうなんにも心の問題は、きのうそして今日あしたという、その時間の流れをお考えになる必要もなしに、夢の世界のように、過去も未来も現在もごっちゃにこう出てくるんですね。
 それで、「夢の中は真実だなあ」と、前の院長が申しておりましたです。夢はだいたい精神分析が取り上げるのですから、森田先生の古い弟子である前の院長が、夢を精神療法の助けにしようなどとは毛頭考えてないんですね。夢を取り上げることはまったくなかったんですね。
 けれども、ただ晩年に「夢の中は真実だなあ」という、ぽつりと言うていたのを今思い出しましたですねえ。
 つまり問わないんですね、これは本当かうそかと、それは夢の中はもううそに決まってるとか、そういうことをいわないで、その妙な成り立ちで理解困難という、そこのところをぶっつけにもっていく、味わっていくという、それにつきるんですねえ。
 これらはみんな歴史をこえると、ちょっと表現はきざっぽいですげれども、時間を問題にしないという、そのごちゃごちゃの体験で、けっして精神分析をする人に委ねるべき問題ではないんですねえ。
 それよりは、いつも皆さんの外にある他者の世界、他者のなかでは一番他人が問題になりますが、その他人さんの意向をよくお考えになって、その人に十分、その場で役に立つような工夫を、皆さんの労力のほうは惜しみなくですね、とにかく向こうへその骨折りを、その方のためにしてあげるという、極端にいいますと、やること自体が無償ですね、償いをまったく求めることがないですねえ。
 これがあるがまま、つまり「これが自分だ」ということをきめないときの見事なはたらきであるんです。だからじつにそのはたらき、生活の真っ最中に、いま真っ只中とは皆さん思われないですねえ。
 なんか学校の講義を聞いているように思われるかもしれませんが、そういう知るということに目的があるのではなくて、この人の話を聞くというこの状況における、この場にふさわしい行為をなさる、そのことがらが、極めて現実的な森田療法の本治りで、そして他人からすれば真実そのものなんですね。
 自分で真実だと認識する真実はない、ありえないわけでして、とにかく必ず皆さんの外に目的があって、そしてご自分の方に、どんないいことがあるだろうというようなことは一切ぬきにしてですね、あるいは災難がふりかかってくるかしれませんけれども、それはすべて受けるということにして。
 ですから前の院長はですねえ、自分は元僧侶、禅僧だったんですね。そういうところたぶんそのいろんな人から、ばちが当たりますか言うて聞かれる立場やったんだろうと思うんですね。
 「ばちに当たっていきなさい」というてるんです。皆さんこんなことお聞きになったことあるでしょうか。「ばちには当たっていきなさい」と、どうしたらばちに当たらんようになるでしょうとみんないうわけですねえ。「当たっていきなさい」と言うたら、それでおもしろいです。今そういうことお話、初めてです。これは皆さんにご披露するのは初めてですかね。
 中国の唐。唐っていうのは、618年から907年までですね。そのずっと唐の後のほう、ですから奈良時代のおわりから日本の平安時代のはじめにかけていた、趙州禅師という人がですね、・・・・・
・・・・趙州というところの観音院にいた人ですが、趙州観音院にお婆さんがやってきてですね、女性は人生かえりみてつまらんとですね、いろいろ中国でも昔は、なにをさしていうのかわかりませんけれども、とにかく五つ困ったことがあると、こう言うたんですね。・・・・・
・・・・五障の身であると、障害の障。とにかく女性とうまれて、ちょっともよいことはない。ぐらいの愚痴をこぼしたんですね。
 「どうしたら救われるでしょうか」と、そのお婆さんが聞いたのに対しまして、趙州禅師が、「どうかお婆さん」書いてあるとおり申し上げればですね、「願ワクハ婆子 永ク苦海ニ沈マンコトヲ」と、「永沈」と書いてありますわねえ。『趙州禅師語録』ってのを読みますと、・・・・・・
・・・・「願ワクハ婆子 永ク苦海ニ沈マンコトヲ」と、ということは、どうかお婆さん、その五障の苦しい海に、ずうーっと沈んでいてくださいますようにと、こう言うた。殺生な話みたいにもとれますね。
 もうおわかりのように、自分がどうしたら助かろうかという、これが具合が悪いですねえ。
 大正15年12月に倉田百三(ももぞう)、世間で百三(ひゃくぞう)というのは間違いでして、百三(ももぞう)ですね。倉田のももやんという人でして、で、倉田百三の壽岳という先生とお友だちに宛てた手紙を、『生きんとて』という書簡集に、「もう絶體絶命で、どうするってこともまったく私は出来なくなっております」と。
 それで治っているんだという意味のことを書いておられるんですが、ところが、ちょっとそのあと、最後のほうに、二通ともですね、「どうか私のために祈ってください」と、つまり相手の人に頼んでいるんですね。
 私のために祈ってくださいと。それがその、余計なまだ治っておられないことを示す、具合の悪い点なんですね。自分のために祈ってもらうことなんかもうぜんぜんいらないんですね。人に頼むっていうことは、まったくいらんのです、心の問題で。
 力試しでもなんでもないので、ただその今の味わい、今のつらさ、今の不安さ、それでもう十分その状況にぴったりの妙薬、薬がですね、そこに選ばずとも求めずともちゃんとそこにあるということですね。
 江戸時代に熊沢蕃山という人がいてですね、ちょうど近江聖人の中江藤樹と同時代人で出会っておりますけれども、憂きことの、つらいことですね、「憂きことのなほこの上につもれかし かぎりある身の力ためさん」という歌をよんでいるのですけれどもですね。
 これ力試しでもなんでもない。皆さんは自分のなかの力試しよりは、実際の生活に一生懸命骨折られたらいいです、もう早速。
 ですから、前の院長は「どんどんやりなさい」とこういうんですね。とかくその、「やってみなさい」ぐらいが多い世間の進め方に比べて、前の院長は「どんどんやりなさい」とこういうんですね。
 ちょうどここを電車が走ってましてですね、で、講話を聞いておりますと、この坂を京都の市電がゴトゴト上がって行く音がするんです。そういうのがありまして、そのなかで、そういうふうに言うてますですね。
 肝心なのは、すぐ周囲にハラハラして、皆さんも次なにしたらよいかっていうことばっかり考えながら夜おやすみになるとよろしいですね、明日のことを。
 ちゃんと皆さんの全治を約束するものであるんですね。明日なにしようというそれがもう立派な精神作業です。
 はい。じゃあ今日はこのへんで失礼をいたします。

   2010.5.12  



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