三省会

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宇佐晋一先生 講話


美術史学事始め(2)  

 前回法隆寺で始まった学生課主催の古美術見学会の第2回は1944年(昭和19)5月に日本最古の銅製大仏(606)の存在で知られる飛鳥寺と巨大な石室の露出する石舞台古墳をめぐるものであった。

 そのころはまだ飛鳥寺の発掘調査も行われていなかったので、その伽藍配置が1塔3金堂であることなどは知られていなかった。ただ日本仏教美術史の第1ページを飾る像が、いきなりこのような巨大なものであることへの疑念をいだきつづけていた。ただ身体部分は後補が多いにしても尊顔の古様は法隆寺金堂の薬師如来(607)より古拙の趣きがあることは疑う余地のないものであった。鞍作リノ止利がこの本尊の鋳造を完成したとき、新しく建築された金堂に入れることができずに皆が困っていると、彼が銅像をうまく傾けて入れて、一同を感心させた日本書紀の話が、造像と金堂建築の大きさのちぐはぐな無計画さが、ほほえましい実話として信憑性が増す思いがしたのである。1塔3金堂の制は百済に習ったことは明らかであるが、ほぼ同時に着工したはずの法隆寺(若草伽藍・7世紀初頭)が1塔1金堂であったことにくらべると余程壮大な、本格的な規模の大寺院であったといえるであろう。ここでは歌誌編集者で飛鳥小学校校長の辰巳利文氏のお話を聞いた。特に印象的であったのは子供たちを飛鳥川のほとりに連れて行って、その流れの音をきかせるという風変わりな授業について話されたことである。そこにおいては聞く芸術が成り立たないではすまされないであろう。

 島の庄まで歩いて石舞台石室の中まで入った。この時内科内分泌学で後年お世話になる松浦篤実教授が、すぐ隣におられることに驚き、スケッチをした。この巨大な石室の中に自分が小さくならざるをえない体験が、考古学を、これまでの目先の遺物学という意識から、頭の上から高くかぶさってくる遺構へと驚きのうちに変えられてしまった。まさに「百聞一見」の例えの実際場面であった。それと寺院を造営する王者と、巨大な墓を作り上げる蘇我馬子、ともに同じ時代に覇を競ったことが美術史と考古学とが交錯していることで、あらためて「歴史時代の考古学」が急速に組み上げられていくのをおぼえたのである。

   2023.6.25



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