三省会

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宇佐晋一先生 講話


知ることに終わるのは真実でない

 これまで勝手なことを書きまくって来たが、それでも遠慮してきたことがある。それは自分の専門領域でないことには口を出さないことや目上の人に意見がましいことは言わないことなどである。しかしとらわれない意識すなわち真に生きる姿については専門分野として長らく一筋に追求し、悩みの病態である神経症について治療実績を挙げてきたことから、この際僭越ながら一言申しのべたい。それは宗教家の説くところ、その窮極の在り方について意識面から、言及してみたいということである。

 1964年禅文化研究所長、1978臨済宗妙心寺管長であったY老師は当代一の禅僧として尊敬され、京都を訪ねる禅に関心のある外国人が多く訪問するという評判の方であった。私は雑誌『禅文化』に毎号掲載された名文に親しんでいたが、帰国された鈴木大拙博士を招いて開かれた「禅の将来を考える」という趣旨の座談会、その他に出席して尊顔を拝し、講演を拝聴したりした。しかしなんといっても毎月執筆されたものによってお考えの一端を知りえたのは幸いであった。そういうものに現れたのは老師の思想面で「人々に対する愛情だ」と表現された。禅の持つ社会性を強調されたのにほかならない。

 最近になって長らく開けたことのない箱を開けたら茶色く染めた手拭いに老師の歌が白く染め抜かれたものであった。それは「大いなるものに抱かれあることを今朝吹く風の涼しさに知る」という和歌である。

 これのおかげで老師の境地がはっきりした。ここに示されたとおり、知ることに終わるものであった。禅意識、ひいては神経症全治の道も実は知ることを離れての生活のなかにある。それは「知らなさ、わからなさ、きめられなさ」といえばよい。そういうことが一方ではわかっていて知らないでかまわないのである。禅学者鈴木大拙博士はそれを「わかるわからなさ、わからぬわかるさ」といった。「わかるさ」は少し変だが、それは講演会で直接に聞いた。まさに絶妙の言い回しではないか。

   2024.8.10



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