三省会

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宇佐晋一先生 講話


自分らしく生きるのはダメ  

 心のもち方ひとつで、どうにでもなるように思われている。多くの修養団体が目ざすのも、心の対処法の向上である。それは心を鍛える工夫や、心を整えて安定した状態を目ざすものなどが一般的である。厳しい修行で知られる寺院の生活や、修験道なども、心にかかわるものと見なされている。心について向上を目指さないのは人格の錬磨に無関心な、不真面目な人間として、社会生活上も低く見られ、けっしてそれでよいとはされていない。若い人たちも、それぞれに心のあつかい方に工夫して、自分の納得のいく方法で、心のあるべき姿を追究していることは、ことあるごとにTVのインタビューで見られる苦悩を伴う回答からも十分察せられるところである。

 こうして見てくると、日常見られるねたみやうらみが他人への羨望という我執がしゅうによることは確かであるので、他人と比較せずに自分らしく生きようという見方が近頃よくいわれるようになった。これは欲求をあらわにしない点で、穏便な、自己抑制のきいた生活態度とも受けとれるので、批判的な意見は見当らないようである。しかし自己中心性の打破を掲げる森田療法の趣旨から見れば、これほど自己概念を明瞭に打ち出したものはない。自己中心性そのものといってよいくらいである。 

 ここであらためて不安や悩みの出てくる根源を明確にしておこう。それはかならず自己意識内において生ずる。したがって他者意識内で、他人や外界のことがらに注意が向いていれば起こることがない。苦しい場合も、その努力は工夫・研究そのものとなり、その仕事の継続につながる。一方自己意識内にことばと論理を持ちこんで、概念化することは、知性の守備範囲を越えており、いたずらに主観的虚構性の世界を作り出すばかりである。なぜならば「知性は精神の外部機構」であるからだが、困ったことに不安や悩みに困りぬいて自分のほうに意識が明るくなっているので、なかなか自己の概念化をやめることができない。すなわちこれが神経質のとらわれの実態である。幸い意識は単一の認識の明るさしかもてないから、とりあえず外への感謝や気配りを始めれば、他者意識が明るくなり始めて、急転回しつつ全治がそこに確かな現われ方をするのである。

   2021.11.26



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