三省会

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宇佐晋一先生 講話


新鮮な日常的な生活 

 昨年は森田療法が誕生して百年を迎えて日本森田療法学会は大へん盛大であった。それは結構なのだが、発展のかげに大切なものが失われたように思われてならなかったので会場で指摘しておいた。

 それは森田療法では治癒機転の中心である「あるがまま」が "考え" であるとされてしまっているという事実である。皆様方にも十分ご注意を願わねばならないのは、「あるがまま」は考えではないということである。

 神経症性障害が治りにくいと思われているのは、考えで「あるがまま」にして実行しようとしているからである。考えでない「あるがまま」が作用すれば、どなたも早速さっそくその場で治らないでいることのできない、すばらしい全治が現われるので、これを見逃すことが非常にしまれるのである。その実際は極めて容易なことで、症状や自分、また心については一切言葉を使わずに、とりあえず目の前の仕事を他人に役立つように工夫してやり始める時、その瞬間、瞬間が申し分のない全治の姿なのである。

 言葉は自分とか心とかの自己意識の内容をきめる働きをもっているために、残念ながら自由に変化してやまない "真の自分" の事実を見失う。したがってそれに対抗する治そうとする言葉とぶつかって、その調整を必要とし、無駄な葛藤かっとうを生じて、治ることが遅れるのである。

 このごろ森田療法といえば、一般には森田理論の学習から入るようである。しかし、入院森田療法で理論や言葉を離れて、自分をどのようにもきめないまま、指示に従って外界の事物への観察や研究的な取り組みに着手する全治の早道は忘れていただきたくない。入院施設の少なくなった今日、考えによらない「あるがまま」を十分に発揮する道は、自分の心を行動の原理にしない、ひたすら社会生活への取り組みに苦心の骨折りをすることである。その生きづらさが問題なのではない。生きづらさを回避しない生活の姿が、もうただちに全治なのである。

 この時に当たって抗不安薬以外の、何か良い薬はないものかと言われるならば、最も的確な成果が得られ、しかも治らないではいられない優れものが、ほかならぬ "症状" なのである。症状が薬と聞いて驚かれるであろうが、これほどよく効く薬はない。しかも症状は自分の持ち前であって、取り寄せる手間もかからない。

 国を挙げての非常事態宣言のもとでの出口の見えにくい毎日を送られた皆様といっしょに異常な数十日をともに忍んで、ひたすら家での生活を送らざるをえなかったのは、人生上貴重な「過去の経験を活かしようのない実生活」であった。この状況下においても、言葉のない「あるがまま」に生きる人は、そのストレスに対抗するなにものも持つことなく、症状を薬として飲みながら、経験に関係なく生活し、そのすべてが全治であった。

 このように真の全治は、全く経験をふり返ることのない新鮮な日常的な生活として現われる。だれにも影響されない生きいきした、どのようにも決められることのない自分は、自分でも知らない成り立ちを持つ。もはやその時には自分をふりかえる必要はなくなって、自分に用事がなくなっているのである。症状は、自分をなんとかしようとする、自分相手の工夫によって架空の形で生じた実体のないものであった。

 世間でよくいう「自分をしっかり見つめて」という指示は、努力の方向を誤らせる脱線に誘う掛け声であったことが明らかになると、もう自分や心や症状などについての用事は一切なくなり、自分を意識することなく、仕事に、生活に、また勉強に全力を挙げて取り組んでいる状態だけがあって、自分でも気付かなかった思いもよらぬ知恵が働き、成果があがって自分でも驚かされるのである。精神的に言えば、外への働きは他者へのしむことのない問題解決への協力と感謝と学習である。

     2020.7.12 



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