三省会

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宇佐晋一先生 講話


役に立つ薬

 私が今日、会場に到着しました時にちょうどビデオ映像で禅のお坊さんが話されているのが写っておりました。そのお坊さんが「心を空っぽにする」ということをおっしゃっていて、大変気になりました。昔は偉いお坊さんのおっしゃることを傾聴してうかがっておりましたが、この頃はお坊さんが何と言われようとも事実だけが本物と言わざるを得ません。ですから、心はそんなに無になるものでもなければ、空っぽにならないといけないものでもありません。ビデオ映像に登場されたお坊さんは「」というのを、有る無しの、無い方に意味づけしておっしゃっていることは明らかです。私どもとしては、そのままだけですから、あればあるまま、なければないままなのです。つまり、苦痛があればあるまま、不安があればあるままです。  

 そうしますと、特別に目標とされる良い心の状態、あるいは進歩、向上、発展、治るということを想定することすらおかしいことなのです。禅の話の中には心という言葉は使われてはおりますが、心ということを取り上げる必要はありません。自己意識、あるいは自己像、自分のイメージから離れてただ日常生活をどんどん発展的に向上させていらっしゃるということですべて尽きるわけです。

 き上がってくる感情については十分に味わい、そして知性を働かせたり言葉に置き換えたりするのは心の外の実際の生活上のみになさればいいのです。お釈迦様が悟りを開くまでの六年間を縮めるということではなく、もう今早速さっそく、お釈迦様が明けの明星をご覧になって悟りを開かれたこととまったく同じ意識が現れるのです。 

 体得と言いますと、何かをつかむということが必要なように思われるでしょうが、私どもとしてはそれは意識でありまして、森田療法における全治の状態というのは、人間がれることができない意識のおのずからの変化であります。ですから実生活の真っ只中におれば、十分にどなたもが全治そのものなのです。

 会場から、私が講話で白隠禅師の話をするのを聞いたことがありませんがそれはなぜでしょうか、という質問がありました。これはまったく偶然にこの方のご入院中に白隠禅師の話をしなかっただけのことです。

 白隠禅師は江戸時代初めの偉い禅のお坊さんで、現在の禅宗の各流派とも白隠禅師の流れをんでいるといっても過言ではありません。日本的な表現で禅の極意を体得させることを上手に工夫された方です。坐禅和讃という有名な詩がありまして、その最初は「衆生しゅじょう本来仏なり」という言葉で始まるのです。平たく申しますと、皆さん方は一人残らず仏あるいは悟りを開いた真実に生きる人なのです、ということです。もっと良い心を目指す、まだ不十分、未熟な自分だと思っている人にとっては拍子抜けしてしまうわけですが、これは今日会場に来られている方にとって一番のお土産として大事な意識なのです。治っているか治っていないかはまったく問わないで、答えを出さないまま、大事な必要な仕事を多くの皆さん方に役立つように工夫してなさることが間違いのない全治の姿であります。

 会場から「症状を薬とする」とはどういう意味か教えてください、という質問がありました。これはもうぶっつけに、今気になる、例えば強迫観念などを持ったままという状況を、その場ですぐ役立つ薬と申しただけでありまして、森田先生の「苦痛を苦痛し、喜悦を喜悦す これを苦楽超然といふ」とおっしゃったのとまったく同じことです。

 したがって症状以外のものを薬としてお飲みになるというのはただちに脱線です。そういう点で皆さん方は妙薬を自前でちゃんと初めからお持ちになっていらっしゃるので、飲むか飲まないか、つまりあるがままでいらっしゃるかどうかだけの話です。あるがままでいるということは外へ向かっての働きがあって初めてあるがままの意識がそこに出ますので、それを作ろう、手に入れようというような構えはまったく要りません。

   2016.3.13



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