三省会

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宇佐晋一先生 講話


まったくどういうものでもない

 本日はBさんに日頃の神経症についての、治療者としての実践ぶり、ならびに会場の皆さん方からのご質問に対する的確なご回答を頂いて、大変参考になりありがたいことでございました。

 Bさんが神経症は精神疾患とは一線をかくするという表現をされたように、両者は程度の差というようなひと続きではないのです。神経症の人は森田先生流に言いますと「生の欲望」が強い人なのですが、自分というものを取り上げて、良い生き方をしたい、良い人柄、良い社会人でありたい、という非常に強い気持ちをお持ちです。

 ところがその努力にも関わらず、少しでもその目標に達していない部分があると、強い不安感、恐怖感にさいなまれます。これが森田先生以来の森田神経質の説明です。

 森田神経質の人にとってその不安感や恐怖感などは邪魔でつらく、なければいいと思う感情ですから、それを無くそうとなさることに非常にご熱心です。しかしいくら治そうとしても治ってこないので、これはもう病気に違いないとご自分で判断される人もいらっしゃいますし、外来で、これは治しにくい病気だと診断されることもあります。

 しかしこれを病気と見なして治そうとしても全く治ってこないのは、普通の病気とはまったく一線を画する別のものであるからです。その証拠に、神経症の人には精神のずれ、ひずみあるいはまとまりのなさなどの症状が一切ありません。

 前の院長が大正十五年に作家の倉田百三氏を診察した時に、あなたは今でも偉い人ですが、治ればもっと立派な仕事をする人になりますと申し上げた、と私に言っておりました。森田先生の「神経質優秀論」というものがありまして、病気の人、普通の人、そしてそれよりも上に神経質の人が来るわけです。自己批判の強い、向上を目指す努力ゆえにとらわれた方は優秀であるというものです。

 思い通りの良い状態の自分、つまり不安がなく悩みの状態が解決できる自分というものになりたいという、別の自分へ向上するための努力が、自分の心の問題の努力になってしまうため、そのはからい、言葉によるとらわれから抜け切ることができなくなってしまいます。

 これが自分だという自己像、自己イメージというものにもとづいたやりくり、工夫というものは世間的には立派な、正当化された努力と見なされておりますのでますます一生懸命にやります。そして森田療法を実践しても少しもあるがままになれないという結果が失敗感として感じられるわけです。

 ところが正当化されたかに見えるその自己像、つまり自分が自分を問題にするという、主と客に分かれたそのあり方というものは完全に無効であります。すなわち自分を描く脱線、自分を知る脱線、自分を決める脱線です。

 あるがままというのは言葉で表せるものではなく、森田療法を受ければそれが分かるようになるというようなものでもありません。まったくどういうものでもないのです。前の院長はこの状態を自分についての理屈抜きと申しておりました。森田先生は端的にそれを問わない、つまり「不問」というふうに打ち出されて、僕の治療は不問療法だと言っておられました。したがって私達からしますと「不答」なのです。こちらとしてもこうだ、ああだという議論をするような問答ができないのがあるがままなのです。

 そうしますと、皆さん方は自己意識をやりくりするという用事がなくなって、外向きの、つまり他者意識の中の、より細やかな気の利いた早速の取り組みのみとなります。その時の感情はそのままで、仮に嫌だという感情でしたら、その嫌なままとなります。自己意識の中は嫌なままで、外については必要なことをして行くということです。それで森田療法における全治がどなた様にもインスタントにその場で成り立つのです。

 悩みが瞬間的に解けるというようなことは起こり得ないというわけで、このことは世間一般では受け入れにくいものです。しかし瞬間的にしか治ることがないのです。治らないでいらっしゃることはできないのです。皆さん方が、治らないなあ、とお思いになるのは、だんだん治るものと思っていらっしゃるからなのです。

 これは非常にはっきりした事柄で、前の院長は、健康人としてやりなさい、と言っておりました。つまり、治った人としてやって行く、あるいは、まったく何も決めずにそのまま今のままやって行くということです。

 二つの状態を同時に意識することはできません。これは森田療法だけで言っているわけではなく、一般的な心理現象として起こることです。つまり今対象とされているご苦労が意識の明るい中心になりますと、心の問題はどんどん暗くなります。

 外の問題の解決に苦心し骨折っていただく努力が今の課題です。それは皆さん方が良い社会人になられます修養ということに他ならないわけなのです。

   2016.5.8



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