三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


「インスタントに完治」のみ  

 前三聖病院院長没後65年。思い起こせば宇佐玄雄について、語り尽くしていない重要なことが沢山ある。昭和32年(1957)2月14日に亡くなったので、もう65年になるが、森田正馬先生直系の弟子として、その一生は森田療法の実践と、より一層の顕彰に打ち込んだのであった。どうしても禅僧という経歴から、人はすぐ特殊な禅的森田療法という、何か別派の趣きを予測しがちである。昭和27年(1952)アメリカから鈴木大拙師という禅の大家の案内で来られた精神分析の新しい道を切り開いたカレン・ホーナイ博士(女性)からの問いも「禅と森田療法とはどういう関係があるか」というものであったが、即座にそれを否定した。同席した学者達はかえってその答えを意外に感じたらしいが、本人にしてみれば禅など考えてはいなかったのである。

 禅には関係性を問う論理の入り込む隙などありえないことからすれば、少しもおかしくないのだが、その集まりが精神医学や臨床心理学の議論の場になっていたために、異色ある回答として語り継がれている。しかし本人もそれを機に、あらためて自分のやっている森田療法の禅的な、論理を取り払った現実重視の長所に気付き、「禅による精神療法」という小論を書き、鈴木大拙師の校閲を得て英文で発表した。

 私が誤解を心配して、今まで書かなかった次のような話がある。それは京都の呉服商で、昭和8年(1933)に入院のKさんから聞いた話である。入院中に庭で皆と草引きをしていたら前院長が通りかかったので、横にいた人が「私の症状は治るでしょうか」と質問したら、前院長が「あなたの症状は何でしたかね」とその人に尋ねたそうである。その質問をした人はがっかりして「入院してもう1ヶ月にもなるのに症状を忘れるとは殺生な」と言ったという。

 ここで森田神経質の症状はもとより、性格由来のことがらのすべてが、取り上げて語るべきものでないことを思い出していただければ幸いである。自己意識に関わるすべてのことがらと経過には、言葉と論理を与えてはならないということは、他の精神療法や心理療法には見られない森田療法の一大特色である。この自己意識没却の徹底は、また学問の不成立の基盤であるため、かえって多くの学者の見過ごしてしまう盲点である。禅ではこれを「絶学無為(三祖鑑智)」という。これが前院長の場合、ごく普通の日常生活に出ているので、聞いた人が驚くのである。

 戦後に東京都庁の係長の人が入院された。熱心な方で、前院長が講話で「般若心経は神経症治療経ですよ」と言ったら、すぐに達筆の大きな字で般若心経を書いて、作業室の戸の上や窓の上一面に掲げられた。その方は不安神経症であったが、講話の時に「朝夕病院の周囲を走ったらどうでしょう」と質問されたところ、「ああ、いけません。いけません」とすげなく否定した。そのついでに「作業も治すためにするのではありませんよ。前に『作業と治療とに如何なる有機的関係ありや』と質問した人があったが、作業はその仕事のためにするのです。」と語った。

 戦争中に灯火管制下で暗くした作業室でも、夜の作業は続行した。ある時夕方まで三省会が作業室であったので、私が「夜の作業は止めておきましょうか」と言ったら「夜の作業は大事だから」と言い、全然取り合わなかった。

 前院長にとって森田療法の極意は「仕事をどんどんやりなさい」であって、外のこと、すなわち他者意識の領域に細心の注意をはらって進むことであった。それには他人への十分な善意の気配りが含まれている。父は森田先生から、京都にいらっしゃるというご連絡が入ると1週間も前から青くなって心配し、布団も新調して別人のようであったと母が聞かせてくれた。そこには自己意識の入る隙など微塵もなかったのである。

   2022.7.10



目次