三省会

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宇佐晋一先生 講話


美術史学事始め(3)「太秦(うずまさ)広隆寺」

 平安京(794)ができるまでの京都がどのようであったかについては、今まであまり関心をお持ちにならなかったかもしれない。飛鳥や奈良ばかりが先進文化に浴していたのではなく、考古学から見れば京都盆地で古墳時代前期初頭から優勢を誇るのが西の向日市の丘陵で、後期に入ると太秦の地に圧倒的な巨大石室をもつ蛇塚をはじめ、清水山古墳、桂離宮内の大山島古墳、さらに物集女(もずめ)の車塚など京都盆地の北西部にその勢力が集中する。これは渡来人秦氏の勢力の拡大をものがたるものである。古墳時代の5世紀の話として日本書紀は雄略天皇が秦氏の養蚕、絹織物や土本における貢献を讃えて「禹豆麻佐(うずまさ)」という姓を与えられたという。これは現在太秦(うずまさ)という地名になって残っている。

 ①推古天皇11年(603)に聖徳太子 [厩戸王(うまやどのおう)574〜622] が「私のもとにある尊い仏像を敬い拝する者はいないか」と重臣たちに問われた時に「自分が」と進み出たのが、側近の秦河勝(生没年不詳)だった。そして彼が建立したのが蜂岡寺、またの名が広隆寺である。

 ②広隆寺に伝わる別の資料には創建を推古天皇30年(622)と記すものがあり、はじめは私的に仏像を祀っていたものを、聖徳太子が亡くなった時に追善のために本格的な寺院を営んだとされている。

 ③日本書紀の推古天皇31年(623)の条には新羅と任那(みまな)の使節が来日し、葛野秦寺 [かどのはたでら(広隆寺の別称)] に「仏像一具」が安置されたという記事がある。

 これだけの歴史を負って2体の弥勒菩薩像すなわち半跏思惟像が存在する。弥勒はゴーダマブッタ(釈尊)の入滅後に兜率(とそつ・ツシタ)天にあって、いかにして人びとを救うべきかと考え、修行しており、56億7万年のちにこの世に現れると期待される菩薩である。1体は飾りのない宝冠をかぶり、上品な微笑をたたえる優雅な姿で知られ、戦後の国宝再登録の際、第1号となったので、宝冠弥勒の名でことさら有名である。(写真1)もう1体は、まるで泣き顔を思わせる容貌から「泣き弥勒」という通称で呼ばれている。(国宝・写真2)

 見学会の日、講師の源豊宗先生は宝冠弥勒の韓国製であることを示唆しながらも、「誰か科学的に証明してくれる人がいれば良いのですが」と言われた。見学会に参加していた京大建築学教室の研究員小原二郎氏(のちに千葉大学教授)はこれを自分の専攻する木材学から熱心に取り組み、とうとう宝冠弥勒の背中の内刳りのわずかな木片を入手して、木像の材質をアカマツと断定した。飛鳥時代の木彫仏がことごとく樟に限られるのに比べてアカマツ製は韓国製を思わせるに十分で、大きな反響を呼んだ。ただ問題は背中の内刳り蓋と左腰部に吊している綬帯は、韓国には自生しないクスノキで作られている。またクスノキ製の泣き弥勒は頭髪のスタイルが段のある奈良時代に多く見られるもので、7世紀末〜8世紀初めと見られている。

 私の “裳の折り返し手法の襞の研究” はまえに述べたが、宝冠弥勒はイチョウの葉の上下短縮型を示すのに対して、泣き弥勒の襞は構成が緩んでくり返される後出性を見せているのがわかる。(図1)美術史上、2体の半跏思惟像にはなお多くの解明が待たれていることを知ったのである。
   2023.7.26
参考文献『広隆寺』小学館、2022


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(写真1)宝冠弥勒




picture2      
(写真2)泣き弥勒


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(図1)裳の襞の比較
左 宝冠弥勒
右 泣き弥勒




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