三省会

目次

宇佐晋一先生 講話


自己像が脱線のはじまり 



 今晩、この講話が終わるまでに本物を体得されますのにお役に立つ大事なことを申し上げます。

 毎回、大事なことをお話しているのですけれども、どうもその見当違いの話のように思われて、もっと具体的に何がどう楽になるのかという、その話をご期待になる皆さん方からすれば抽象的に思われるかもしれないですね。

 私の話は抽象的なものでない。という点で、もうなによりも抽象的でない。つまり事実を指して申し上げておりますだけで、この抽象的、つまり皆さんが「あっそうか」というふうに納得される、そのピンとくるとかですね、「今日やっとわかった」というふうな種類のものは皆、抽象的である。あるいは学校の授業はもう小学校の1年生からして抽象的であるんですねえ。

 そういうものがないのが特徴でありますから、皆さんが抽象的でないものとしてお考えになる具体的なものですね、そういう何かの事実を示せといわれたにしても、私からすればそれは呼び名、あるいは状況の細かな説明とか、これがこうなっているでしょうという、その解説ですね、そういうような皆さんが期待されるようなものさえも、私どもからすれば実際から離れた抽象的な事柄であるというふうにみるわけですね。

 ですから言葉を使って説明している限り、それはこの講話では置き換えで、事実のままではないんですね。

 言葉、この場合日本語ですけど、日本語にいくら英語やフランス語などの外国語を織り交ぜて皆さんがお使いになったとしても、それはその言葉で説明する段階で事実から離れてしまっておりますので、もう抽象的だとこちらからはいわなければならないですね。

 森田療法っていうのは、非常に、結果的に皆さんこんな簡単なものかと。前の院長の言い方ですと「ああ、なんと楽なもんだなあ」とこうなりますと。それは皆さん今、考えて一生懸命この講話の内容を、肝心なところを見極めようと待ち構えておられますから、いわばご自分から抽象的に結論を上手につかもうとかですねえ、あれはきっと何かヒントを分からせようとしているんだろうというふうにおとりになったりして、それを要領よく、ぱっとつかもうとか、こう思っていらっしゃるんですね、そういうのはことごとく事実ではありませんです。

 ですから、森田先生がこうおっしゃいましたという形の講話は無難ではありますけれども、ことごとくそれは日本語に置き換えた、肝心なものからはずれた事柄で、それでいわば森田療法の本を一冊読めば治るだろうと、たかをくくっていらっしゃる、それが絶対そうはいかないんですねえ。

 森田療法の本なら良い。ほかの療法の本はお勧めしません。と、私がいってると思われるかもしれませんけれども、ここで一冊も森田療法の本、ことに私の関係しました本など、一切 皆さん方におわかちしないですねえ。

 とても心配されまして、この近所にここから300メートルほど北に本屋がありますけど、そこにわざわざ注文して私の本をお読み下さった。という方がおられましたが、私が皆さんに読んでいただかないようにしているのは、特別の考えがあってしていると思われたのかもしれませんが、考えというものに関係のない治り方が本物なんですね。ですから、私の本なら読んでいただいたら結構です、というようなことはないわけです。

 結局のところ、どの本も皆同じことで、そういうのを抽象的論理的思考といいますが、言葉に当てはまらない説明はないわけでして、これがだめ。といっているんですから、どこのどなたが上手に説明されたにしましても、それはここで全治の太鼓判を押すわけにはいかないんですね。

 極端なほうが早くお分かりいただけるでしょうから、短くはっきり申しますと「治りました」ということは抽象的論理的思考によるわけです。じゃあ「治りません」はどうですかと言われるならば、これも抽象的論理的思考にあてはまるんですね。じゃあどっちがどうなのかというと、どっちもだめっていうことです。

 これで、だいぶ本物に近いんですけれども、いかんせん、この私の講話が日本語あるいは言葉を使っておりましてですね、この講話をお聴きになる限り、皆さん方の優れた大脳の作用は、抽象的論理的に事柄を受け取ってしまわれる。

 そういうふうに、もう皆さんが小学校へ行かれる前から、幼稚園とか保育園とか行かれる前から、もう出来上がっているわけですね。で、それを今更 改めていただくというわけではなくて、それはほっとくわけです、この森田療法では使わない。で、新しい何かをしなさいと申し上げたら、皆さんも困られるでしょうけれども、ほっとくぐらいのことはどなたでもお出来になる。何もしないという、自分に対して言葉を使わない。文法を使わない。なんにも自分を言葉で決めることがないんですねえ。

 で、そうしておいても頭というところは、次々と考えを一人勝手にいろんなことを次々考えてしまうところでありまして、そういう出てくるものを、これを防止することはできないんですね。医学的にいえば予防という形にもっていくわけにはいかないんですね。したがって皆さんの頭、大脳の働きに責任ある。ということはないんです。そこでこればかりは全くのご自由でありまして、こういうことを考えるのは好ましくない。と、ご自身が思われましょうとも、こちらからは何をどうお考えになろうと良し悪しがない。これが徹底した頭の働きの扱い方ですね。そうしますと、新しく言葉を見いだし付け足して、一つの皆さんの治療に役立つお考えというものが出来上がってくるのを助けることはないですね。これが申し上げたいところで、皆さん方のお考えを側から助けているということはないんですね。

 むしろ、どのようなヒントめいた、キラリと光るお考えも採用することがないですね。「あっ、これだ」というその決め手がない。あるいは、あったら脱線。

 そこまで申し上げて、これからは言葉のない精神生活と皆さん方に治療の第1日、第1期療法の説明でお話した、そのことがらを改めて思い起こしていただきたいですね。思い起こしていただくのは、なるほど考えを思い出していただくことではありますけれど、そこに手段、方法、治し方といったものがまったくない、ということを申し上げているんですね。

 昭和25年というのは1950年でありますが、新しく大本山東福寺、正式には臨済宗東福寺派大本山東福寺なんですね。そこで長らく空席になってました新しい管長職ですね、花園の妙心寺。あの日本で一番大きな禅宗のお寺ですが、そこの僧堂の指導者、お師家しけさんといいますが、恵鏡老師。その字は恵みの恵、それから鏡と書きます、その方が管長としていらっしゃった。

 ついでながら、この昔からありそうな菅長という言葉は明治政府がつくったもので江戸時代まではありませんでした、江戸時代まではただ住職です。

 それで、それまでと違って日曜日に講話を一般の人を対象に始められたんですねえ、今晩のこういう講話みたいに。それで聞かせていただきに参りましたら、袂をこういうふうにまくりあげて、黒板が置いてあります、それに「一法の助くるなし」と、こういわれた。何か心の問題で助けになる方法があるのではない。と、ほんと、びっくりしましてですねえ、こうしたらうまく悩みが解けます。というふうな話かと思ったら全然そうでなかったんです。そんな変なものかなあと、こう皆さんも改めて思われるでしょうが、心の問題の解決にどのような言葉も実は役立たないんですねえ。絶対そこへ言葉を持ち込んではいけませんので、それを、きわめてはっきりと表現されたものですね。よっぽど不思議な、難しい、特殊な訓練を経て、そういう意識のもとに生活ができるようになるのかと、誰しもそう考えてしまいますねえ。何年も難行苦行してお坊さんになった方であって、はじめて到達できる心境か、けっしてそういうものではありませんのです。

 ごくごく普通の、そして今晩この場の皆さんの、この意識で十分でありまして、ただ言葉を使わないんですね。このとき簡単に神経症問題のみならず、心の難しい悩みの様々なものが一挙に解決いたします。

 前の院長は、元 禅の僧侶で三重県上野市にあります山渓寺という、伊賀の上野というのは伊勢の津の、皆さんは藤堂高虎という江戸時代初めの人をご存知でしょうが、その大名の支藩といいまして支店の支ですね、津藩の支藩、一種のブランチですが、その上野の城がありまして、やはり藤堂高虎が築城、城を造るのがうまくて、そこも造ったんですが、その高虎が今の愛媛県の大洲から連れてきた禅の僧侶が初代の住職で、それが宇佐といいました。で、代々のその大名の関係者がそのお寺に葬られている、そういう菩提寺なんです。

 で、そこで心を健康にするのにお寺の説教だけでは到底うまく指導できない。ということに気がついて、それから医学の勉強をすることになるんですね。東京で昔内務省という省庁があったわけですが、そこが主催した人間の様々な性質のあり方についての学者の、たぶん心理学の人の説明があったんですね。それを聞いて痛切にお寺の説教ではうまく救えないと感じて、それから医学の道に進んだんですね。

 そして、幸い今の慈恵医大、当時は医学専門学校と称しておりましたが、そこの精神科の教授が森田正馬先生でありまして、卒業の年1919年(大正8年)が、精神医学では一般に森田療法完成の年と認められているんですね。ですから、ちょうど森田先生がこの治療を編み出して創り上げていかれる途中にお世話になって、それ以来ずっと、卒業以後ですね、この森田療法の最初の病院として、ここに東福寺 のお寺の援助を得まして、空いている二つのお寺を借りて、この病院のもとになる三聖医院というものを開きました。ちょっと解説が長くなりましたが1922年のことでありました。

 それでこの、前の院長は「正法しょうぼうに不思議なし」と、こういう。それを申し上げるためにえらく回り道しましたが、こんなに摩訶不思議な、世間並みの考えを離れた、難しい宗教的な話があるように思えても、実際はなにもそのなかに世間並みでない、妙な理屈をこね回している、変な意識を説いている。ということはなくて、ごくごく日常的な普通の意識で十分なのだ、ということですね。

 ところが、お聞きになる皆さん方が、どう考えても理屈に合わない。ということを、ここの、この森田療法についてでしたらば、症状をほんの少しも治そうとしない、ということについて思われるであろうとお察しいたします。で、わざわざ「正法に不思議なし」といわなければならないのは、宗教の中に、心の問題を扱って普通の理屈と違うことをいってるからですね。あるいは普通の理屈の通らないことを述べているからですね。そうしますと、ますますお聞きになって混乱をきたされるかもしれませんが、わざわざ「正法に不思議なし」といわなければならないのは、その心の問題で理屈に合わない変なことと思える内容の話をするのは、実は心の方は、まったく意識のありかたが違う、筋の通った事柄が逆に脱線であるからなんですねえ。そこのところを抜きにして宗教の話しをお聞きになりますと、もう初めから終わりまでおかしなものです。

 今日お話してますのは、それを精神医学的に、まともにお話の正面にすえて、遠回しでなしに、あからさまに申し上げていますので、この説明のわかるようでわからない感じの部分は、ことごとく自分で見た自分、簡単にいえば心のありかたについて、それがけっして普通の理屈通りでない、論理っていうものを持たないんですね。論理が異なるといういい方、あるいは別種の論理に従うといういい方などがあるのですけれども、そういう AとBという二種類の論理があるわけではなくて、理屈がない、まったくそこに論理性がない、ということをお話しているんですね。けっして特殊な考え方のなにかがあるのではありませんのです。理屈がない、論理性がない。という、それが「正法」であることをいっているのが「正法に不思議なし」ですね。

 おかしいなあと、早く気がついていただいて、普通の世間的な一般の、皆さんが学校で勉強してこられ、あるいはもう日常、普段お使いになっている筋書き通りの、この論理というものは必ず外の世界、皆さんの外にある環境ですね。世間、社会、そういうところにある普通の論理を心の中には持ち込めません、ということです。簡単にいえばそういうことです。そこは、はじめから論理というもののない、身体の高級な発達をとげた一部であるんですね。

 1日24時間、これは正確に地球が回転しますので、太陽は動かない。地球がこう回っている、自転しているわけですねえ。その時間は間違いないんですけども、身体の時間は25時間というリズムで動いておりますことはお聞きになってるかもしれません。だいたいの1日という意味で「概日がいじつ」という言葉を使いまして、医学的にはこういう言葉で25時間を身体のリズムの中に皆さんの日常があるんですね。

 頭と違う。頭の方は24時間に合わせて生活していらっしゃる、時計がそうですから。けれども身体は、そういうふうに1時間ずれたかっこうにリズムがなっているんですね。ずれたというのは24時間のほうを正しいと考えた表現です。けれど事実が事実ですから、これ一つでも身体というものが、外の理屈に合わないものであると。で、そこから生まれてきます心という精神現象ですね、これはもう理屈に合わんわけですねえ。で、外の状況、社会に合わすために、やや無理に自分というものを合わそうとして、中に、これが自分だという自分のイメージを組み立てていらっしゃる、これを自己像というんですねえ。

 そうして無理なく社会生活が、外の状態に合わせてできるように工夫しておられる。そうとうこれ、しんどいのがわかりますね。

 マイセルフというそのセルフ(self)、セルフイメージ(self-image)ですね。そういうものを、あたりまえのことのように作っておられますけれど、これは作られたものでありまして、もう今晩からおやめになってもよい。これが自分だ。これが心だ。これが生きているということだ。という、それは早速おやめになってよろしい。もって作って無理して合わす必要は全然ないですね。

 じゃあどうしたらいいかと申しますと、中の、皆さんのお身体に向かっての方向、もっと具体的にいいますと、皆さんのお考えが脳に対して、この頭の働きに対して、もっとこうなってほしいと思われたにしても、いうことをきかないということですねえ。身体のほうは、変化は、まったく外の状況と食い違った形で進んでおりますから、もうそれはそうしておくほかありませんのです。そうしますと、すぐれた皆さん方のいいお考えは、ことごとく外向きでありまして、外の社会生活上の必要な事柄を次々と処理して進んでいらっしゃるだけでよろしくて、ご自分の心を良い、思い通りの気持ちの良いものにしようというのは土台無理である。ということをあからさまに申し上げているのがこの講話ですねえ。つまり、どうすることも余計な手出しでありまして、したがって、なにか心を練り鍛える。難行苦行して心がしっかりする。というようなことを目指す努力はことごとく失敗に終わるんですね。

 前の院長は、さっきのようなことから大本山であります東福寺の僧堂に入るべきであったんですけれども、そのお師家さんが年をとっておられて、もう弟子は引き受けない。といわれたので同じ臨済宗の大徳寺ですね、皆さんは一休さんがしばらく住職をされたことでご存じの通り、その大徳寺で修行しました、僧堂に入っておりました。ですから、その修行に比べて精神医学的なここでの皆さんの修養生活というもの、本来同じ趣旨であることがよくわかってまして、そして手前味噌みたいですけど、ここのほうが早く真実に目覚める。と、そう私に申しておりました。僧 堂で何年も修行しているよりも、ここのほうが早く悟りが開ける。と、そういう種類のことをいっておりました。

 皆さん方が40日というのは長いと思われるかもしれませんけれど、たいへん短い早い悟り方でここでお治りになるというのは、悟りを開くということですから、絶対そうでなかったら治るわけないので、なにか悟りは、お釈迦さんでも6年かかったというので、たいへん難しいものとお考えになりがちですけど、そうではなくて、お釈迦さんが悟りを開こうとしたことによる、自分に目的をもった失敗で、開けなかったのでありまして、悟りを開こうとする、自分の方に目的をもったやりくりを失敗に終わってからやめた。途端に悟りが開けたんですねえ。それに6年かかってしまったと、こういうわけでありまして、皆さん方は、わずかに40日間でそれを成し遂げられるんですねえ。

 それは一生懸命なされば、その努力はご自分の方へ向いている間は上手くいかないんですねえ。外、人、事柄のほうに目的をもって、そこは皆さんがたいへんご熱心な方々ですから一生懸命なされば、もう今晩この講話が終わるまでに真実に目覚めていただくことが十分、可能です。

 一般には、お釈迦さんでも6年かかるのなら、自分は10年かかるだろうぐらいに謙遜してお考えになりますけど、それは間違いで、真実に生きるのは瞬間的であるよりほかはないんですね。

 常に瞬間、瞬間、皆さん方がありとあらゆる比較、比べることを、例えば治るのと治らないのとの比較をやめて、その事実のままに生活を進められる、この状況を最も純粋な真実の姿と認めてよろしいんですね。ですから、考えが先に整うという必要がまったくありませんから、考えという考え、言葉という言葉、一切をやめにして、そして外のことにだけ言葉を使って、心の問題は何がどうという筋を通したとらえ方、わかり方、知り方、決め方をやめてしまわれるんですねえ。この瞬間をもって真実に生きていらっしゃる、ということができるんですねえ。その脳の働きは、あたかもチンパンジーが自分を、言葉を知りませんから、言葉を使わずに感じているのと同じと見てよろしい、ちょっとわかりやすいかもしれませんですね。

 「これが自分だ」という、セルフイメージを描くことができる人間であってはじめて悩みが生じてくるのでして、それをまた人間ですから上手に解決しようとして、もういっそうまた引っかかるんですねえ。

 とらわれるのも人間らしいことですし、こだわるのも人間らしいことです。どこまでも解決を目指すという、その熱心さは、皆さん方におかれましては、ひと一倍努力家でいらっしゃるんですね、ご自分の解決に完全を目指される。これは一般的な傾向ですが、世間の人は非常に呑気でありまして、思った通りにいかないものだなあ。ということぐらいのことで、簡単にいえば自分の心の問題は、うやむやのうちにあきらめてるみたいなところがあります。ところが、そういうのを世間で「あっ、上手くいってる」と思う、それは間違いであって、ですね、ほんとはどのような考えもそこに持ち込んではだめなのだというところまで、よく見極めておいていただかないといけないですね。いい加減な考えで上手くいくということを、時として世間の人は、そんなに真面目にしなくてもいい。60パーセントぐらいできていれば、まあそれでよいとしなさい。と、そういうふうになぐさめ半分でいう場合がありますけれども、実際には心の問題は、ぴしっと、どのように抽象的に言葉を使ってわかる形にしても、それは本物でない。という、そのへんの徹底した言葉によらない精神生活が、今晩はっきり、ここで講話をお聞きになる最中に言葉から離れるんですねえ、言葉離れ。あるいは一種の離れ業でありますが、それは単に使わないというだけのことで、新しい別の考えを特に必要といたしません。

 で、それで今までのことを自己意識、自分の中で見た自分の姿ですね。あるいは他人がこう見ているだろうと、そういう想像ですね。それを含めて自己意識と申しますが、その中は完全にどうでもよろしいんです。つまり、ちょっとでも決めたら逆に脱線で、何をしてるかわからない。つまりその努力は無駄骨折りであるんですね。ですから自分というものを決めることを、心を磨くといったり、しっかりするといったりですね、世間では大事なことのようにいっているわけですが、それを今晩からおやめになりますと、もう立ちどころに皆さん方の悩みは雲散霧消してですね、悩もうと思えばできますですね。つまり解決しよう、自分の心を良くしようとすれば、悩みとして成り立ちますが、心に言葉を持ち込むことがなかったら、もうその瞬間に神経症の症状、安心、不安の問題、気になる事柄の回答、どれをどうしたらよいかという、人間の知的な論理にもとづく抽象的論理的な考え。というものが成り立たなくなって、自分の扱いというものがいらなくなる。これが、さっき申しました「ああ、こんな楽なもんか」ということなんですね。それは世間の人は絶対、それは皆さん方以外の人が見つけられることはないです。

 学問的に申しますと、人間の知能ですね、頭の外向きの働きというものは、すべてはじめからそういうものであったんですね。外部機構であると、これはもう、なんとも今まで何をしてきたんだろうと思われるでしょうけれども、たいていの方は、なみなみならない苦労をして、ご自分の心の良いあり方を目指す努力を惜しまれませんでした。つまり、良い心の持ち主になろうという努力ですね。これはむしろ世間一般の事柄で、心を問題にしないということは、かえって世間一般では、だめな人間である。心のことをいい加減に考えてるのでは、けっしていい人間になれない、 というふうにまで考えられているんですね。自己啓発書といわれる種類の本が後から後から出てくるわけですし、心を磨くというような本が売れたりもするんですね。

 なんと、皆さん方のお知恵はご自分のためにあるのではない。これ、なにも私一人勝手にこういうことをいってるのではなくて、ちゃんと私が勉強した心理学初歩という本に書かれていた言葉です。

 精神医学を勉強する医師、皆さん方医者になったら当然心理学はよく心得ているだろうと、こう思われるでしょうけれども、医学の勉強に心理学は出てこないんです、精神医学はありますけども。

 ですから心理学は、本で勉強したり心理学の先生から教わったり、つまりここでですねえ。そういう次第で、ちょっと不思議に思われるかもしれませんですねえ。一般に心理学を軽視しているんですねえ、精神医学の人達は。

 ところが前の院長は、元々禅の僧侶であったということもあり、心理学的な研究を続けました。心理学の人との交際がずっとありましてですねえ、昭和11年、1936年に「感覚残像と心的態度との関係に就て」という論文で医学博士になったんですね。

 感覚残像というのは、ある感覚を皆さんが、例えば痛い、例えば赤く見える。というふうに痛覚、視覚など様々ですが、そういう刺激の去った後、つまりそれがなくなった後に残る、しばらく続く感覚をいうんですね。例えば赤いものを約10秒、皆さんご覧になって、ぱっとその赤いものを取り去りますと、その後に薄緑の、もやっとしたもの、だいたい四角ければ、もとの赤い色が四角であったら四角に近い形で薄緑色のものが残ります。そういったものは時間とともに、いっそう薄くぼんやりしてきてやがて消えます。これを感覚残像といいます。例えば細い針金の先を手のひらにぎゅっと押し付けるという道具がありまして、前の院長が作ったんですけど、それでこう、痛いですね、当然。それをぱっとこう、バネがついていて、手を離すとこう、ぱっと痛みが消えますねえ、針金がぱっと上にあがりますから。ところがその後しばらくは痛みに似た感覚が、ずうーっと続くんですえ、何秒か。それが心の状態によって、長引いたり早く消えたりするという、それをまあたいへんな回数、それから協力してくださった大勢の方々のご好意によりまして調べることができたんですね。

 結論を早く申し上げますと、どういう時に長くなるかといいますと、それを感じないようにしよう。と、その見えたり痛みが残ったりするのを早く感じないようにしようとしたら一番長く残った、重要な事柄ですね。

 つまり森田療法的にいえば、皆さん方が治そう治そうと努力しておられるということは、一番その症状を長引かせているということでもあるんですね。

 それに対して、どういう時に短かったかと申しますと、もっと長引かせようとした。その赤いものを、ぱっとのけて薄緑色が見えはじめてから、それをもっと長く見ようとした。そうすると早く消えてしまったんですね、痛みも同様です。 

 それから、こそばい。筆の先をかすかに皮膚に接触させるということもやりました。そのほか痛覚のほかに温覚、つまり温度感覚ですね。熱いのや冷たいのやいろいろやったんですけど、一番はっきりしているのは視覚と痛覚でありましてですね、精神態度でもっと痛みが残るようにと努力したら早く消えてしまったというものです。

 それからもう一つは、そのままにしておいたということですね。で、そのままにしておくのと、もっと長引かせようとしたのと、じゃあどっちが短かったか、これは皆さんもご関心をお持ちになるでしょう。これは変わらなかったんです、結論的に。

 で、ここでいう、あるがまま。森田療法はもうなにがなんでも、あるがまま。ですが、それは言葉のない、あるいは心に意味付けをしない、こういうふうにしようという心を持つんではないんですね。その状況のとうりにほうっておく、感じたままでいる。というそれと、それからもっと症状、皆さんならば不安を強くしよう。気になることをもっと気にしよう。というそれとは同じであったということですね。ですから、わざわざしなくてもあるがままでけっこう早く治るわけです。

 こういうことをした人がなかったのですね。こういうことをもとにして、それで森田療法というものを数字で、治り具合の状況を知ることができるようにしたんですね。

 つまり森田先生の頃でしたら、治ったかどうかというのは森田先生の判断で、その本人さんがいわれるのを聞いて決めておられたんですね。ところが前の院長のは、客観的に治ったかどうかという、その経過を、その感覚残像の長い短いから他人にも分かるように捉えたというんですね、これはほかに例がありませんです。熱心に治そうとした人ほど長引いたんですね。もうこれでお分かりでしょうけれども、いつも申し上げますように神経症のとらわれというのは、治そうとするという、病気でないのにその熱心さが生み出した症状でありまして、治そうとする病気みたいなものですね、病気ではないんですが。

 自分に対して良い状態にしようという努力によって、具合の悪い感じが長く残る。というそれを実験的に明らかにしたんですね。したがって最も具合が悪いのは人間の知能、知性あるいは知恵というものが、自分を助けようと思って努力している間は、残念ながら治ることはないですね。

 自分に対して皆さん方が、じゃあどうしたらいいのかというと、どうもなさらなくてよろしいわけで、ただ頭の中に浮かんでくる、次から次に出てくるその考えのままほっとけば、もうそれで十分満点であるんですね。

 今あるその症状を最も大事な心の間違いないあり方として、宝物のように減らないようにもっていらっしゃれば、もう早速さっそく今晩が全治のおめでたい時を迎えられる。ということでありますから、いくら再発しようが次の瞬間に自分というものを取り上げなければ、ですね、自分というものから治そうとなさらなければ、もうそれで満点でありまして、心に人間らしい考えというものが必要がないという、それをいってるわけですねえ。

 じゃあ、心はいったい誰がどうしたら褒められるのか、ですね。ですからこれ、さっき「一法の助くるなし」という東福寺でのお説教の一部を思い出してお話いたしましたが、そのように心の問題で誰かに頼んで助けてもらう、ということはもういらないわけです。なんのことはない、ご自分持ち。不安な時は不安を、その時の心として大事にもっていらっしゃれば、もうそれでよろしい。ただ、外へ向かっての緊張はたいへん大事ですね。森田先生はよく「君はもっとハラハラしたまえ」と、こういわれたと、これはもう素晴らしい言葉ですね。外へ向かって緊張をうんと高めていらっしゃるという。それでよろしいので、人間の知能とか知性とかいわれるものですね、それはもう自分の方に使わなくなったら飛躍的に皆さん立派なこと、お仕事を成し遂げられる方に変わられるんですね。

 自分の知性を自分のために使おうとしているということが、もう何にもまして、はなはだ具合の悪いことをして自分らしさを、自分であることをだめにしているんですね。

 今、自分らしさといいましたけれども、これはもうまったく無駄な言葉で、世間では自分らしい状態ってものを褒める人、お手本にしようとする立場などがあることはありますけれども、これはまったく無駄です。自分というものを描くこと自体が、間違った自分のあり方をそこから始めることになりますし、それはもうするだけ無駄なんですね。ですから、この自分についてどのようにも言葉が使えないその領域を、皆さんお分かりでしょうけれども、それはほんとは何もいらないんですね。ですけれども世間の人はそこがさみしい、あるいは不安、気になるもんですから、その代わりに宗教家が神様とか仏様という世界を用意して、ですね、宗教の世界っていうのは、心でなんとかしようと間違ってしている人たちをそういうふうに救うんですね。考えは外向きの仕組みですから、ここでは宗教の立場でいいませんから、外へだけ、どんどん皆さんの優れた知能を発揮していらっしゃれば、もう間違いないと、こういう。いくら再発しても次の瞬間は必ず全治であると。これはたいへん助かりますね、後戻りということが全くない。再発ということが起こりえないんですね。次々、外の大事なことに取り組んで進んでさえいらっしゃれば、それでよろしい。こういうのが森田療法ですから、治らないでいらっしゃることができません。

 治そうということだけ、それをやめればよかったんですね。はい、じゃあ、このへんで今日の講話を終わることにいたします。

    2014.6.6



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