三省会


目次

三省会とは


三聖病院とは


森田療法の特徴


三省会例会の内容


今後の三省会例会の予定


三省会関連図書


宇佐晋一先生 講話

自分らしく生きるのはダメ


心の工夫で治るのではない


理論離れのすすめ


初心は忘れてもよい。他人のために役立とう


厚労省の「まもろうよ、こころ」について


癒しに関係のない道を行く人は全治


マインドフルネスに関係なく治るのが本もの


学習理論を離れて働けばすぐに全治


本当に瞑想は必要か


自信はまったくいらない


メンタルトレーニングはせずに競技に専念を


知らなくて良い


心には教訓がない


自分の心にテーマをもつのは間違い


心は試すこともダメ、「ガッテン」もダメ


まったく意外な本治り


ストレスも不安も、もったままが全治


全治の極意


心によらない生活の始まり


理論学習で治った人はもっとよくなる


さあどうするか


心は掃除しない、磨かない


全治の答えはいつも「それでない」


森田療法全治の論理とは


緊急事態でも不安の解決はあるか


全治のめでたさは格別


初詣にはご用心


神経質の日常性


不安の解決に心は関係がない


心をどう扱えばよいか


自分を見つめなおすのはよいことか


アナウンサーのインタビューのしかたについて


本当は治らないでいることはできない


不安・緊張・悩みの瞬間的解決


心に関係のない生活の前進を


新鮮な日常的な生活


心には手出しをしないこと


もっとよく治る森田療法


心はほったらかし


宇佐先生からのメッセージ


緊急事態における心のケアについて


宇佐先生への八つの質問


宇佐先生への八つの質問


納得がいらない


ふりをする


インスタント


聞かれても答えない


おのずから


絶言絶慮


いきなり治る


分からなさ


非伝達性


人間にはなぜ宗教が必要なのか


絶学


治癒像


迅速根治


突然治る


精神作業


実際の生活に骨折って


大自然


いったいなにが主題なのであるか


おめでたい日


経験を超える


瞬間的に治る


まったくどういうものでもない


役に立つ薬


コスモス


願ワクハ婆子 永ク苦海ニ沈マンコトヲ


自己像が脱線のはじまり





















































































三省会とは

 三省会は平成26年末まで京都市東山区で診療を行っていた三聖病院に入院あるいは通院していた修養生(患者)を中心に結成されている会です。2ヶ月に1回(年6回)、院長をされていた宇佐晋一先生をお迎えして例会を開催して出席者の親睦と修養を図っています。かつては病院内で例会を開催していましたが、現在は京都市内の会議施設で行っています。

三聖病院とは

 神経症を治療する森田療法を実施していた病院で、宇佐晋一先生の先代の宇佐玄雄先生が昭和2年に創設され、昭和32年に晋一先生が引き継がれたものです。

森田療法の特徴

 一般的に森田療法は「あるがまま」という言葉で代表され、「症状をあるがままに受け入れる」療法だと思われていますが、実際の療法はそれとは違っていて、あくまでも作業が療法の中心です。そして神経症は病気ではなく、本人が病気と思い込んで、自分で治そうとして治らず、ますます病感が増大した状態に過ぎないととらえているのです。したがって三聖病院に入院した人は患者とは呼ばれず、修養生と呼ばれていました。

三省会例会の内容

 まず出席者の自己紹介を行い、そのあと予定されていた方による体験発表、出席者による質疑応答と続きます。休憩のあと再び質疑応答を行い、最後に宇佐先生が講話をしてくださいます。

今後の三省会例会の予定

 令和4年1月9日(日曜)の三省会例会は開催を予定しておりますが、感染対策として、会場での密集を避けるために事前予約制を取ります。参加ご希望の方は三省会報146号に掲載の応募要項に従って予約してください。応募多数の場合は抽選となります。ただし、今回応募できるのは現三省会員に限らせていただきます。非会員の方は応募することはできません。
 以上について、ご理解のほど、どうぞよろしくお願いいたします。




<会場アクセス>

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三省会関連図書

あるがままの生活-講話集-

宇佐玄雄・宇佐晋一 著

出版社 秀和システム

2020年9月10日発行

 この本は、1981年に出版された「真実に生きる」(三省会編)と、2004年に出版された「禅的森田療法」(三省会編)の合本になります。 さらに初出原稿6本と、三聖病院における宇佐晋一院長先生の講話CD2枚が収録されています。
 宇佐玄雄先生と宇佐晋一先生が三聖病院で実践された森田療法の実際がよく理解できる内容となっています。
 ご希望の方は、書店にて申し込みをお願いいたします。


言葉で言い表わせないものを言い表わそうとするからいけない。事実と言葉とは一致するものではない。 -あるがままの生活 講話集 135頁





あるがままの世界-完全版-

宇佐晋一・木下勇作 著

出版社 秀和システム

2020年3月5日発行

 この本は、1987年に出版された「あるがままの世界」、1991年に出版された「とらわれからの解脱」、1995年に出版された「続あるがままの世界」を合本した完全版です。
 宇佐晋一先生が三聖病院で実践された森田療法の実際がよく理解できる内容となっています。
 ご希望の方は、書店にて申し込みをお願いいたします。


実際には本を読む暇も時間もなしに、もっと早く治られるものでありまして、この現実の徹底あるいは不安の徹底、このままの徹底ということなら何も本も薬もいらないわけですね。 -あるがままの世界 完全版 259頁



宇佐晋一先生 講話

自分らしく生きるのはダメ  

 心のもち方ひとつで、どうにでもなるように思われている。多くの修養団体が目ざすのも、心の対処法の向上である。それは心を鍛える工夫や、心を整えて安定した状態を目ざすものなどが一般的である。厳しい修行で知られる寺院の生活や、修験道なども、心にかかわるものと見なされている。心について向上を目指さないのは人格の錬磨に無関心な、不真面目な人間として、社会生活上も低く見られ、けっしてそれでよいとはされていない。若い人たちも、それぞれに心のあつかい方に工夫して、自分の納得のいく方法で、心のあるべき姿を追究していることは、ことあるごとにTVのインタビューで見られる苦悩を伴う回答からも十分察せられるところである。

 こうして見てくると、日常見られるねたみやうらみが他人への羨望という我執がしゅうによることは確かであるので、他人と比較せずに自分らしく生きようという見方が近頃よくいわれるようになった。これは欲求をあらわにしない点で、穏便な、自己抑制のきいた生活態度とも受けとれるので、批判的な意見は見当らないようである。しかし自己中心性の打破を掲げる森田療法の趣旨から見れば、これほど自己概念を明瞭に打ち出したものはない。自己中心性そのものといってよいくらいである。 

 ここであらためて不安や悩みの出てくる根源を明確にしておこう。それはかならず自己意識内において生ずる。したがって他者意識内で、他人や外界のことがらに注意が向いていれば起こることがない。苦しい場合も、その努力は工夫・研究そのものとなり、その仕事の継続につながる。一方自己意識内にことばと論理を持ちこんで、概念化することは、知性の守備範囲を越えており、いたずらに主観的虚構性の世界を作り出すばかりである。なぜならば「知性は精神の外部機構」であるからだが、困ったことに不安や悩みに困りぬいて自分のほうに意識が明るくなっているので、なかなか自己の概念化をやめることができない。すなわちこれが神経質のとらわれの実態である。幸い意識は単一の認識の明るさしかもてないから、とりあえず外への感謝や気配りを始めれば、他者意識が明るくなり始めて、急転回しつつ全治がそこに確かな現われ方をするのである。

   2021.11.26


宇佐晋一先生 講話

心の工夫で治るのではない  

 心が大事なことはいうまでもない、と普通には考えられている。本当にそうであるかどうかは問う人もない。精神医学の近接領域である心理学も、その成立はギリシャ哲学のアリストテレスに渕源えんげんを求めうるという。その進歩は目ざましく、今年放送大学の講座であらためて学んだ。その分野は思いのほか広く、内容も多岐にわたり、それぞれ今日の社会に恩恵を与えていることがよくわかり、勉強になった。

 なかでも臨床心理学の領域での発達は、その概要を知るだけでも著しいものがある。しかし、わたくしからすれば、日本のみならず海外でも大きな治療効果をあげている森田療法がわずかしか採り上げられていないことが残念でならなかった。それは精神医学に属する治療法だから、と敬遠されるのか、あるいは入院による系統的な療法が基本とされるために心理学者で実施した人が少ないためか、今後の発展のために大きな課題であろう。大阪市立大学の精神科教授であった中脩三先生(故人)から聞いた話であるが、九大におられた頃にアメリカの軍医が来たので森田療法の説明をしたところ、それをアメリカの専門誌に「精神分析的操作が不十分である」と批判的に報告した、と苦笑しておられた。昔ベルリンにおられた頃 森田正馬先生に頼まれて、森田療法を訳して精神医学の雑誌に投稿したところ「理解困難」という理由で、編集委員のベルリン大学精神科教授カール・ボーンヘッファー(神学者ディートリッヒ・ボーンヘッファーの父)から不採用の通知があった。それを聞いて森田先生が残念がられ、「なんとかもう1度頼んでもらえないか」といって来られたので「釈迦や孔子が自分の説を外国語に翻訳して広めたという話は聞いたことがない。知りたかったら向うが日本語を勉強して教わりに来るべきだ」と慰めたそうである。

 ところがまったくそのとおりに実行した人が現われた。スイスのブルーノ・リーネルさんである。森田療法が勉強したくて、まず日本語を学ぶためにドイツのハイデルベルク大学の日本語科に入り、卆業して東京の外国語大学に入学、十分修得して京大(臨床心理学)に転じ、河合隼雄教授の紹介で1984年ごろ三聖病院を訪れた。そこで75回の講話を聞き、私のもとで研修して帰国後学位を取得した。ところが日本にいる間にNHKのロシア語講座で学んでロシア語が話せるようになり、帰国後ロシアの日本観光旅行団体の添乗員として再来日した。このように抜け目なく、次になにをしたらよいかと考える時がもう全治なのである。

   2021.11.12


宇佐晋一先生 講話

理論離れのすすめ 

 森田正馬先生の偉いところは「僕の理論を学習せよ」などとはいわれなかった点である。それどころか、感情には「普通論理ニ従ワヌモノアリ」と洞察されて、主観的な感情に起因する神経症には理論的解決の及ぶところではないことを明らかにされた。このことはきわめて重要な森田療法の根幹をなす事がらであるにもかかわらず、今日森田療法の解説書からは無視されているのは、はなはだなげかわしいことで、私はこれから書くことができるかぎり理論学習に反対して、正しい森田療法を伝えて行きたいと決意を新たにしている。

 森田療法が成立をみた1919年に東京慈恵会医学専門学校を卒業した宇佐玄雄は、入学前に臨済宗大徳寺派大本山大徳寺に掛塔かとうして、雲水としての修行をし、論理的なことばによる自己概念を捨てることの体得を経て、森田の精神医学を学ぶ幸運を得た。彼は森田の治療法の優れた脱論理性にいたく敬服して、この療法のなかに流れる理屈抜きに現実生活に手を出して神経質の症状の不成立に導く妙法を、三聖病院で実施して好成績をあげた。

 それは実に鮮やかなやり方で、一切の症状の説明や解釈はもちろん、不安をはじめとする症状の経過さえも患者に語らせず、日記に書くことも禁じて、ただひたすら第1期から第4期に至る療法の遵守と、昼夜を問わず作業へのとりくみに余念のない生活を実行させたのである。そこにもし療法の極意を問われるならば、ただ「理屈抜き」の一語をもって趣旨としたのである。昭和28年ごろ真言宗の僧侶である方が入院された。私はいっしょに庭で麦刈りをした。この方ははなはだ悟りがよく、大きな木の板に「如々真にょにょしん」と自ら達筆で書いて彫刻し、文字の所を白緑びゃくろくの絵具で塗って、院内に掲げられた。如々真とは、ことばに置き変えないもともとの今の姿が真実である、という意味である。

 禅僧が主治医になって真言宗の僧侶の心の病いを治すということに森田療法がどうかかわったか、という点に皆さんも関心を深められたであろう。森田先生が「僕の治療法は不問療法だから」とおっしゃったことはあまり知られていないが、維摩経ゆいまぎょうに伝える文殊菩薩の「不問不説、もろもろの問答を離る」の話のとおり、立ち所に真実に生きる道、すなわち森田療法の全治が実現するのである。症状のままの作業ほどすぐれた妙薬はない。

 それでは前院長の全治とはどんなものであったか、はっきりと記録に留めておきたい。前院長においては一切心の状態の如何いかんを問うことはなかった。普通ならストレスが解消され、不安が消え、悩みも解決された状態が全治と考えられやすい。ところが前院長の治癒像は「神経症になることもでき、また治ることもできるのが全治ですよ」であった。この不問と呼ぶにふさわしい心の無条件のあり方は、全治とは何かという究極の姿をまったく決めない所に特徴があり、あらゆる状態のまま働く時に、つねに如々真であり、全治なのである。

   2021.11.14 


宇佐晋一先生 講話

初心は忘れてもよい。他人のために役立とう  

 若い頃「初心忘ルべカラズ」と教わったのは忘れがたい修養の指針であった。18歳のとき敗戦で、精神的風土も一変し、規範性のない状態に開放感を味わったが、医学の勉強という国家試験につながる大変忙しい毎日の生活に身を置いていたこともあって、初心貫徹の標語は絶対のものであるという思いが強かった。しかしよく考えれば大事なのは実際に勉強することであって、標語はから念仏にも等しい、いわば掛け声に過ぎないものであることは病院長になってから、ようやく気がついた。それは森田療法が修養的もしくは求道的なおもむきをもった精神療法であり、その治療施設の責任者になったことが幸いして、週3回の講話にうかつな脱線は許されず、定期刊行物である「三省会報」を世に問う論説主幹の立場でもあった関係で、つねに新鮮な内容を鼓吹こすいする急先鋒の筆をふるわなければならなかった。これはまことにありがたいことで、期せずして「森田先生のお言葉主義」におちいる失敗をしないですんだのである。つまり責任ある行動をとっていれば初心は忘れてもかまわないことに気がついたのであった。

 ここからは森田神経質の人が本当に全治しているかどうかの話に移ろう。これは治療者である森田療法家の専門医師からいわれるのを待つまでもなく、堂々の全治宣言にも等しい行動で示される。ほかの精神療法と違って森田療法における全治とは医師 - 患者関係の消滅が見られることが要件である。三聖病院では看護師も世話をしない一般の社会人のふりをした。けっして「今日はどうですか」ともかないだけでなく、療法を守らない人には、まるで監視役のように厳しく実行を迫った。実はその実行こそが「いきなりの全治」の成立である。森田療法の第1期から第4期までの一貫した治療システムの経過が大事なのではなくて、各時期における、それぞれの課題のほかならぬ忠実な遵守じゅんしゅの行為こそがもうその場での全治の成立なのであった。症状は自己意識内容を論理化し、気がすむように筋を通そうとして生じたものという観点からすれば、「治そうとする努力そのもの」と見ることができ、それをやめて他者意識の面で療法を守り、実行することで瞬間的に全治し、その後の生活に立派な道が開かれる。それは病院外のどこでも、そしていつでも実現してやまないのである。

   2021.10.28


宇佐晋一先生 講話

厚労省の「まもろうよ、こころ」について  

 令和3年10月13日厚労省はそのホームページに「まもろうよ、こころ<勇気を出してまず1歩>」という生徒向けのキャンペーンを打ち出した。この1年間に小、中学生の不登校者が196,127人に急増し、小、中、高校生の自殺者も415人にのぼり、前年度より100名以上増えた驚くべき事態に対して、いそいで精神的な対策を講じたのである。不登校の40%以上に見られたのは無気力、不安であったという。いじめとは異る視点を持たねばならない不登校の生徒の問題の根は深く広い。それにしても「まもろうよ、こころ」とはだれに向けての呼びかけなのか、といえば、それはもちろん当事者本人に対してであろうことは容易に想像がつく。そうすると本人たちが自分の心を守ることを要請されているのである。不登校や無気力、不安などが、自分の心を守りきれなかった自己責任によって多発したかのような論理である。それなら心のあつかいをどうすればよかったのかと問われる時「勇気を出して第1歩」が始まるという、うがった考え方が出てくるのは当然であったが、はたしてすぐにも勇気は出るだろうか。

 それでは真の解決はあるのだろうか。それは大人も生徒もまったく変りなく同じ大きな道が開けている。考えてみれば、自分の心を取り上げて問題にするのはまぎれもなく自己意識の世界である。悩みは意外にも自己意識内の解決努力の姿として成立する。それは自己観察から始まり、それが自己意識内容の概念化をみちびくのを常とする。自分にとって不利なもの、不安なものや嫌なものなどが目について、それらのない安心できる世界を描きはじめる。それは皮肉にも厚労省のキャンペーンの「まもろうよ、こころ」そのものであった。心すなわち自己意識内容を守った結果、苦悩、無気力や不安を生じたのである。自己意識内容をことばと論理で概念化すると、苦悩や葛藤を生じ、治療どころかますますそれらについてのとらわれを増すことにならざるをえない。つまり心を守ることは一刻も速くやめて、知性を本来の守備範囲である他者意識の領域のほうに有効に発揮させ、他人や社会、また製品に感謝してやまない精神作業とともに、骨折って世の中や他人のために、どこにいても尽して行く気のきいた行動に欲ばることがすぐに始まるように仕向ける教育こそが望ましいのである。

   2021.10.15


宇佐晋一先生 講話

癒しに関係のない道を行く人は全治  

 令和3年10月1日から緊急事態宣言やまん延防止対策地区のすべてが解除されて、幸いにも新型コロナ感染症第5波は感染者数、重症者数もともに日々減少をみて、まことに結構であった。街々に人びとがくり出し、観光地にもにぎわいがもどってきつつある。メディアはこれを、皆がそれまで久しく手に入れることのできなかったいやしを求めて出かけた行動だ、というふうに解説した。欲求を抑えられた現状に不満をおぼえるという感情の事実は、自己という主体をその瞬間に明確に意識する。それと同時に他者を意識して意識上に対立を生ずる。もうそこから先はおわかりのように、次から次へと苦悶がくが、実は同時に自己意識と他者意識が葛藤かっとうの舞台になることはありえず、どちらか一方だけなのである。仮に混在するように見えることがあっても、交互に転換しているわけである。森田神経質の人たちは自己意識のなかに悩みを深め、解決の努力をくり返すほど、その熱心さに応じて、自己意識内を動きのとれないものにしてしまい、正にがんじがらめの閉塞感に打ちひしがれる。とうてい元にもどれないという思いが現実になる。

 さてここからが解決篇である。森田神経質の人たちでなくても、一般に悩みは多かれ少なかれ自己意識内に生じている。テレビの「悩みごと相談」は家庭内のことや会社の上司とのことなど、あたかも他者意識内のことを問題にしているように見えるが、実際にはそれを自己意識内にもちこんで「自分にとって」という形に置きかえて悩むのである。いわゆる他人ひとごと(他者意識の世界)では悩みが生じる対比現象が自分との間に生じない。そこで、それまでのいきさつに関係なく、いきなり「その場のものごとについて考えをめぐらし、その物品の由来を考えて、それを作った人びとの苦労に感謝せよ」と、前三聖病院長 宇佐玄雄は講話の時に、机上の日記帳や湯のみを指さしていったものである。感謝はとてもよい精神作業で、感謝することが全治なのである。考古学の友人、国立歴史民俗博物館長であった佐原 眞氏(故人)は、京都にいた頃に「1枚の古瓦にも6つの特色を見つけるのだ」と、あくなき観察をしまなかった。他者意識における精神作業は森田療法のきわめて重要な全治の要素なのである。

   2021.10.4


宇佐晋一先生 講話

マインドフルネスに関係なく治るのが本もの  

 森田療法が説明的になって来た最近の傾向は、私にしてみれば残念の極みである。学習しても治らないと思う人は、ついほかの治療にも目が行って、たとえば認知行動療法が広く行われている現代では、その究極の全治の姿とされるマインドフルネスにも関心を寄せられるに違いない。魅力的なことばであるから、森田療法の全治との比較まで考えられることもあるであろう。早合点をする人の中には「マインドフルネス森田療法」という新語まで作ってしまった例が森田関係の治療雑誌に見られて驚かされるのである。ここではっきりと森田の側から批判しておかねばならないであろう。

 マインドフルネスとは「今ここでの経験に評価や判断をすることなく、能動的に注意を向けること」と定義され、うつ病・不安障害における抑うつや不安症状の改善に効果があり、労働者におけるストレスマネジメントプログラムとしても活用されている。その趣旨は「今ここの経験」という自己意識内容の哲学的なとらえ方に、"禅にも似た否定" が加えられる点に大きな特色があり、賛意を表したい。しかし「能動的に注意を向ける」は対象が明確でないのがしまれるばかりでなく、意識のあり方に方向性を指示しているために、消極的な心には負担が増すのである。その点森田では意識内容に関係なく、必要な仕事を始めることを指示する。高良武久 東京慈恵会医科大学名誉教授によれば、森田は「道が二つに分れた場合、困難なほうを選べ」といったという。これは本に書かれていないことで、福岡での学会において挨拶の中でいわれ、大いに感銘を受けた。森田の弟子の古閑こが義之 元聖マリアンナ医大学長は、これとは反対に「手近な、やりやすいものから手をつけろ」といった。これはとりあえず仕事に着手するうえに役立った。「入院中に宇佐玄雄げんゆうから『足を使ってでもいいから座布団のいがんでいるのをそろえなさい』といわれてやったのがよかった」というK神戸大学法学部名誉教授の体験談もある。金沢大学医学部学生だったOさんは作業室で「こんな作業をして神経症が治ったらノーベル賞もんじゃ」とぼやいたが、立派に治って医師になった。私は冗談でなく世界的な偉業と賞賛するものである。  

   2021.9.21


宇佐晋一先生 講話

学習理論を離れて働けばすぐに全治  

 多くの感動をもたらして、東京オリンピック・パラリンピック2020が終わった。競技前に何人ものアスリートたちの意気込みを聞くことができたと同時に、競技後の感想も、メダル獲得の人たちから沢山聞くことができた。テレビではそれに加えて、解説者が見る人の興味をさらに一層そそる仕組みとして、それぞれ経験者や関係者らから、にぎやかに語られて、普段は見られない独自の番組として盛り上げることに成功した。

 このアスリートたちの声は、彼らの自己意識の内容を直接に純粋に物語るもので、競技直後のそれらは、どの人の場合も生きいきしていて、聞く者をして感動せしめないものはなかった。そこには自分の心について語るという意識がないということは十分注意しておくべきであろう。いい代えれば、自分を客観的に見ているという自己観察の意識がないのである。

 これに対して、森田神経質の人たちの不安や悩みの病苦はかならず最初の精神感動に対する自分なりの感想や予防対策などの批判をともなう心の葛藤である。それは自己意識のなかでさらに自分の心を客観的な対象としてながめるもので、自己意識のなかに他者意識をもちこみ、知性で自分を他人を見ているように概念化しているという構図になっている。上記のオリンピック・パラリンピック番組にたとえるならば解説者をまじえた座談会のようなものということができる。

 ここに忘れてはならない大事な心理学上の注意点がある。それは「知性は精神の外部機構である」という初歩的な事実である。これを忘れて、いくら森田理論の学習に努力しても、自分の症状の解決に向けて使うことは間違いなので、どうにもならないのである。ことばと論理で組みたてられた知性は自己意識内にはまったく役立たないだけでなく、かえって治ることをさまたげる作用をもっている。賢明にも仕事や生活を通じて、身をもってこのことに気付いた人は、理論学習をただちに離れて、その日のうちに全治することができる。徹底して森田理論によらないで、症状の苦痛やストレスを味わって他人のためにしみなく骨折ることをおすすめするものである。  

   2021.9.6


宇佐晋一先生 講話

本当に瞑想は必要か  

 NHKテレビの「心の時代」の講座で仏教史の日本への流れを聞き勉強になった。その次に日本における展開について教わったが、各宗派の祖師方が中国で学び、また朝鮮半島を経由して伝来した仏教の各宗派を、それぞれ瞑想によって伝え、いろいろな形をとって発展したと解説された。その法灯は今日までよく伝えられ、それぞれに優れた修行のあり方として、真実を見究みきわめる上に大きな力を発揮して来たことは事実である。

 ところで私たちはまったく瞑想によらない方法で真実に生きる道を実践して、今日確かな成果を得、自分1人にとどまらず多くの人びとの悩みや不安の解消に明るい光をともして来た。その確かな事実からすれば、瞑想はもはや必要がないといえるのではないか。一番疑問に思えるのは瞑想の「想」である。悩みや不安の解決に中心的課題となるのは、そのテーマそのものの解明ではなくて、心につきまとい離れることのない葛藤そのもの、いい代えればとらわれた想念であることに気付く。あるいは先に感情的な重圧があるからだろうと思われるかもしれないが、感情的なものは長続きしないもので、実は何ヵ月も何年も続くのは、嫌な感情を早く除去し、よい状態をすぐにでも実現したいという自己防衛的な想念によって長引くのである。そこにはきまって並なみならぬ工夫が人知れず行われているが、そもそも自己意識の中を想念で解決しようとすること自体が間違いだったのである。

 この知性によるとらわれが森田神経質の人びとを、自ら如何いかんともしがたい、がんじがらめの苦境におとしいれ、解決の道が見出せない呪縛のどん底にいるように悩ませるが、じつは解脱げだつの方法は確実に用意されている。それは、知性はもともと精神の外部機構なので、自己意識内容の解決には使えないのであった。そこで悩みは放置して、そのまま他者意識の面に知性を発揮して手を出して行けば、すぐに全治の状態が現れる。さらにあなたの知性の優れた働きが見違えるばかりの知恵者として、周囲の人びとを驚かすことにもなるのである。

   2021.8.23


宇佐晋一先生 講話

自信はまったくいらない  

 今ほど自信について考えるのによい時はない。ついこの間まで人生に自信をもつことほど大事なものはないと思っていた多くの人々も、自信ひとつで新型コロナウイルス感染症、なかでも感染力の強いデルタ株に立ち向かえるものではないことがよくおわかりになったであろう。自信は自己意識における自己評価なので、これほど主観的で、あてにならないものはない。それにもかかわらず自信をいわゆる精神力の中核をなすものであるかのように考えて、オリンピック・パラリンピックの選手の評価の表現のなかに頻繫ひんぱんに使われてきた。困ったことに自信は勝つことによって増してくる。それはその人の経験に密接に結びついて、ひとりでに増減するという自己評価のなりゆきから、いくら「自信はいらない」と声を大にしていっても、やはりあったほうが生きやすいため自信をもとうという空回りは後を絶たない。

 そこで真面目な森田神経質の人は主観的な自己評価の意図的な、したがって架空の、心理的安定を目ざして、無駄な自信増強策のあらん限りの工夫に、つい手を出してしまうのである。なにを隠そう、この私も、かつてはその1人であった。当時このことは森田療法に関係がないと思っていたからである。森田神経質の人のとらわれは、等しく自己不全感に由来すると考えて誤りはないが、よく考えてみれば、自信をもとうとすることは自己不全感の裏返しで、とらわれの方向はまったく同じなのであった。

 こういうことをはっきりと教えてくれる人にはなかなかお目にかからないので、いつまでも自信をもとうとして悩む人が多いのを見るにしのびない。そこでちゃんと責任をもって申し上げておかなくてはなるまい。-----突然ながら今、オリンピック最終日の早朝を飾る男子マラソンの先頭集団が北海道大学札幌キャンパスに入って来た。「青年よ! 大志を抱け」のことばで有名なクラーク博士の銅像のまえを走りぬけた。彼が「大きな自信をもて」といわなかったことに改めて感銘を覚えた。「大志」は正に広い他者意識の世界を指し示すもので、自己意識には関係がないことを思うべきである。

   2021.8.8


宇佐晋一先生 講話

メンタルトレーニングはせずに競技に専念を  

 東京オリンピック・パラリンピックを迎えて、アスリートたちのためにアメリカの脳神経科医がメンタルトレーニングの必要さを説くテレビのスポーツ番組を見た。いささか泥縄式の感があるが、多くの人はやはり、しないよりはしたほうがよいにきまっている、と思われるのではないだろうか。ところが、一切してはいけないのである。メンタルトレーニングで精神面を整えて勝負に打ち勝とう、というような常識的な呼びかけに引っかからないことが肝要である。禅宗の坊さんで、精神科医でもあるという方がテレビに出られたので、この方なら大丈夫だろうと思ったら、認知行動療法なみにマインドフルネスを目指すものであったので、残念であった。

 心の問題の解決にとって日本には鎌倉時代以来 決定的に即時に達成することのできる道が開かれていた。それを精神医学的に解明し、同時に的確な精神療法を確立したのが森田正馬 東京慈恵会医科大学名誉教授(1874~1938)である。この治療法の発見は今から100余年前の1919(大正8年)~1920(大正9年)ごろであった。私の父、宇佐玄雄(げんゆう、1886~1957)は1919に卆業した森田療法創設期のもっとも古い弟子である。彼は小学校4年から禅宗寺院に養子として入り得度し、早稲田大学(インド哲学)を卆業。京都の大徳寺僧堂に入って、雲水として修行した。寺の住職になってから医学に志し、東京慈恵会医学専門学校に入り、森田に精神医学を教わる機会を得たのは幸運であった。森田神経質の人たちが自分の不完全な所、たとえば不安、心配などに注目して、それを熱心に治そうとしても思うように治らないことにとらわれて、ますます工夫して完全に治そうと努力すればするほどどうにもならなくなるのを、禅の「偏計所執」(へんげしょしゅう)と同一心理と看破かんぱし、森田が見出みいだした人間心理には普通論理に従わないもののあることの発見を、父は禅の不問不答の理窟抜きの生活の姿に重ねて、三聖病院におけるなにより仕事中心の森田療法の実践において好い治療成績をあげることができた。そこには一切メンタルトレーニングなどあってはならず、医師 - 患者の関係を離れた共に修行の生活がすべてで、それが全治にほかならなかったのである。

   2021.7.22


宇佐晋一先生 講話

知らなくて良い 

 スポーツでも練習すればそれ相当の効果がある。効果のある所には自信が生まれる。自信が増すに従って自己評価が高まり不安をものともしない心境になり、どのような場面でも緊張しなくなる、というふうになるはずだと考えられている。アスリートたちの、われわれを感心させるような競技のあとの感想にも、しばしば思うようにいかなかったという後悔の言葉とともに、他日を期するという意気込みが語られることが多い。

 この誰しもに共通した〝自己不全感〟ともいうべきものを、ひょっとして自分だけのものではないかと心配して、そのつもりで周囲を見回すと、本当に誰もそんな些細ささいなことに見向きもしていないように見えるので、自分だけのことのように思えてくる。そのため自分の責任で解決しなければならないと考える。そのとき一番工夫の対象になるのは心である。すべては心の問題だと考えるからである。しかもそれが間違っているとは到底思えないから、結果がうまく行かないのは自分の努力が足りないか、あるいは工夫が足りないかだと考え、人知れず大変な苦労をするものである。それでも思いどおりにならない現実を見て、自分の力不足をなげくのが常である。

 ここまで読まれた方はきっと、どうしてこのように当たり前のことを長ながと書くのだろうと、いぶかしく思われるであろう。筆者の意図は実はこの当たり前のことが、心にとってはすべて当てはまらないことがらで、いわば脱線である、と言いたいのである。つまり解決法になっていないということであって、真の解決法はちゃんと別にある。それを明らかにして皆さんのものとして役立てたいと切に願うものである。といって、もったいぶって秘伝として扱うつもりはさらにない。

 それで思い出したが、今年の四月の終わりごろ、テレビの精神鍛錬の番組に中村天風氏の写真が出た。天風会という修養団体の創始者である。昭和の頃の三省会の会員で、「元気な時は三省会が良いが、気力が湧かない時は天風会に行くと元気になれる」と言っている人がいた。その人が言うには「天風会ではクンバハカの秘法というのがある。それを身につけていると、飛行機が墜落しかけてからでもあわてないでいることができる。教えてあげたいが、こればかりは他人に教えてはならないと言われているので、ご勘弁願いたい」という話であった。

 偶然その後、昭和四七年に鹿児島へ行く用事ができて、地図を買って空港が鹿児島市の南郊の海岸近くにあることを調べて、機上の人となった。窓の下に一瞬桜島が見え、錦江湾が斜めに目に入った。もう着陸だなと思っていると、高度を下げてどんどん山のほうに入っていく。クンバハカの秘法もなにもあったものではない。「ああ、もう駄目だ」と目をつぶるほかなかった。それにしても着陸の放送も普通で、落ち着いた雰囲気なのが不思議だった。やがて土地がせり上がり、景色が後へ流れて、あっという間に着陸した。そこには真新しい、出来立ての鹿児島国際空港があった。聞けばその年の四月に開港したばかりで、霧島市溝辺町という鹿児島市の北方の丘陵地に移転したのであった。

 恐怖も不安も知ることに大いに関係がある。後から考えれば京都で古い鹿児島の地図など買わなければ良かったような話である。昔からよく言われる「知らぬが仏」が思い合わされるが、それは不案内な土地について調べなくて良いという受け取り方をしたら間違いである。予習は十分にした方が良い。ただ地図の上に記された空港の位置が古かったので、大いにあわてたのである。その心の急な変化に対して、どうしたら良いかということについては知らなくて良いのである。

 「知らぬが仏」は自己意識内容について、それがどう変化しようが対策を工夫しないことに尽きる。心の世界はこうなるはずだという経験則の及ばない所である。いかなる答えも必要ではなく、答えを出すことが脱線をひき起こすのである。

   2021.7.11 


宇佐晋一先生 講話

心には教訓がない  

 徳川慶喜が隠棲してのち「写真撮影や絵を描いて、それを心の支えとした」とテレビで説明していたが、同じ局の「心の時間」の番組では「心の壁をのりこえる」ということが人生の転機となったという人の例を賞讃していた。前者に従えば、心の支えさえあれば、どんなに具合のわるい環境条件のもとでも、ぐらつかずにやっていけるというわけだろうし、また後者によればどんな場合も心の壁に行く手をさえぎられている間はうまくいかないので、そこでなんとか心の壁をのりこえないといけない、ということになるだろう。それで当りまえだと考えられている。どちらにしても「心次第で人生は変る」と教えていることにおいては同じである。ということは、心ほど大事なものはないから生きる上の第1条件とせよという教訓と受けとめられよう。世間一般にはそれに同感する人がほとんどなのではあるまいか。

 私が皆さんのお役にたちたいのは、心についてのいろんなよいあり方や条件、それに伴う批判などはどれも皆見当はずれなのだと知らせたいのである。心についてどれほど多くの真面目な人たちが悩み、苦しみぬいているかを考えるとき、もっと積極的に森田療法の悩みの解決の手軽さ、迅速さ、確実さを知らせないといけない、と思う。心の問題となるとやたらとむずかしいものと考えがちなのは、下手にことばでいじくるからであって、どんなに複雑にこんぐらかっていようとも、それは問題ではない。悩みの種類と程度を問わず、今早速さっそく目の前の仕事にとりくめばよい。その責任が重いほど治療効果は確かなものとなる。そのためには目的が他人につながるものがよい。公共的に世のため人のためになるものであればあるほどよく、その目的達成のための工夫がことさら細やかなのがよい。その場の空気をよみ、他人の気持の動きには十分気を配って、先廻りするくらいのとりくみに精魂を使いはたすなら、まぎれもない全治がその場にあらわれるであろう。この全治にはお説教がないし、心のあり方に関係がない。自分以外の世界の、生物・無生物がよく見えていて、みんなのために骨折っていさえすれば満点である。

   2021.7.4


宇佐晋一先生 講話

自分の心にテーマをもつのは間違い  

 多くの人びとは心のあり方が大事だという共有の認識をもっている。それは逆に好ましくないという状況についての見解がほぼ等しいということからもわかることである。たとえば嫌われるのはきまってストレスであり、不安や恐怖であり、不幸である。快楽の経験に伴って脳内に快楽物質エンドルフィンが出てくる。それに関与するのは脳の外側被蓋野と、そのそばの腹側核である。この経験が蓄積されて脳に快楽追求の意欲を生じ、心の快楽原理を確固たるものにしているので、かえってここから心の安定の道は開かれない。

 心の問題は生きるうえに優先的に解決しておかねばならないことは百も承知ながら、一般にはとりあえずの苦痛を解決することに注意が向き、なにか他のことをすることでまぎらして、それで解決したような気になっている。脳の仕組みは知れば知るほど快楽についての理解は進むが、逆に苦痛の解決からは遠くなって、見えてくるはずの道が見出せず、ただ迷いのみが暗く残って、行く手をはばむのである。自己意識内のテーマが邪魔するのである。

 筆者は昭和2年(1927)生れで、戦時中の精神教育を受けた人間だが、若かった当時を回想して、いちじるしい様相の違いを感ずる。それは非常にはっきりと心の目標が自己意識でなく、外の世界すなわち他者意識のなかにあったということである。「お国のため」「天皇陛下のため」に勉強し、勤労動員で福知山市長田野(おさだの)の飛行場建設にも行った。自分の快楽追求や苦悩除去といった自己意識の目標はもたなかったが、そこにおのずからな安定があった。まさに森田のあるがままである。

 このように自己意識内に目標をもちこまない意識がどうしたら得られるのかと問われるならば、その答を出すまえに早速さっそく仕事や介護、他人のための細やかな気配りとお世話、芸術の制作活動などを始めるとよい。天草市の原田益喜さんから「夏目漱石の『こころ』を読んだが、(登場人物が)自分のことばかりいっている」という指摘の私信をいただいた。たしかにこれでは解決は得られるものではないが、これは文芸作品であって、人生の指針ではないから仕方がない。作中乃木希典大将夫妻の明治天皇崩御後の殉死が出てくるが、これは崇高な行為ではあっても、自己意識からの行動であることはまぬかれない。   

   2021.6.11


宇佐晋一先生 講話

心は試すこともダメ、「ガッテン」もダメ  

 NHKの「試して『ガッテン』」はよい科学的番組である。それは思わぬ所によい効果のあることをわからせる実証性が皆を驚かせるからである。こうして身体についての新知見を得ることはよい勉強であり、すぐにも役立つので、その恩恵は大きい。

 ところでこの番組で心が取り上げられなかったことは幸いであった。心は経験的に「こういうものだ」といっただけで、生きいきした真実を取り逃してしまう。厳密にいえば、「そうかなあ」と感心しているだけで早速 脱線を招いてしまう。だから他人に教わって心のやりくりを、「やって見る」ことがもういけない。「ガッテン」などはもってのほかなのである。ところが一般には、この辺をしっかり教える人がいないため、きわめてあいまいで、混乱を招いている。

 しかし心理学がわるいのではない。心を対象にした学問そのものは存在価値があり、ますます発展させればよい。それではなにがいけないのか、どこが間違っているのかといえば、学問を自分に当てはめようとする、そのことが真実に生きることを不可能にしてしまうのだ。自分の心を取りあげて、考えの対象にする時に真実を離れて、自分が考えに置きかえられてしまったことに気がつかない。しかしこれは誰しものことで、間違っているとは到底思えないで過しているのが実状である。

 真実を見あやまって、「考えた自分」で生活していると、納得のいくほうへばかり行ってしまう。つまり自分にとっての不安や不幸、また危険の及びそうなことや損をしそうなことなどを回避することに熱心で、動きがとれなくなり、社会的に孤立してしまう。森田神経質のとらわれの症状は、じつはごく当たりまえだと思っていた自分という、わかる形の考えでとらえた「自己意識内容の概念化」の、さらに「ガッテン」を目ざした姿なのであった。

 なによりも優先して、他人を助ける側にまわって、サービスに着手すれば、実証と納得より前に全治は今日現れる。この自己意識内容の概念化されない状態を、前院長の遷化に際し、当時の東福寺管長 林恵鏡老師は「無角ノ鉄牛、火裡ニ眠ル(角のない鉄の牛が火の中で真赤に焼けて眠っている)」と香語で讃えられたのである。

   2021.5.28


宇佐晋一先生 講話

まったく意外な本治り  

 世の中では、ものごとはわからないようなのは話にならない、とされ、確かな認識が求められる。ところが森田療法では、そのわかる話が邪魔になって、治るものも治らないのである。実に森田療法におけるとらわれの苦しみからの本治りは「わかること」からまったく離れた所に現れるものだったのである。

 多くの解説書が手近かにある現在の状況は喜ぶべきことではあるが、「わからせて治す」という趣旨が森田療法の場合に限っては、究極の全治を成り立たなくさせるのであってみれば、まったく余計なおせっかいというほかはない。私が今日の森田療法に、一番心配しているのはこの点である。

 悩みは自分についての、よいものを求めてやまない人間本来の、自己意識のなかを論理化する所に発生することは間違いない事実である。そのことからすれば、自己の安心を目ざして自己意識のなかを論理化するような心理療法が、治療どころかつねに新たな次の悩みの火種となっているのは明らかであるが、ちょっと気がつきにくい。

 森田療法は森田神経質の人のみならず、すべての人びとの悩みの真の解決の道を、ともに達成せしめる公開された方法である。悩みといい症状と呼ぶも、どちらも矛盾に終わるほかのない言葉と論理の使い方を自分のために向けて用いた出発点の誤りに気がつけば、事は容易に解決する。それに気がつかないのは自己意識は自分の考えの世界なので、間違いがおこるはずがないと思っているからである。そこで忠告に従って、「これが自分だ」ということをすべて離れて、ひたすら外界の用事や勉強、あるいは芸術作品の制作、ならびに鑑賞などに骨折ればよい。他人や社会のために骨折ることは、その他者意識内のはたらきの徹底である。不安やストレスを口にする人は、そういう他人のための骨折りで喜ばれる仕事をすぐに探し始めるとよい。その探すという精神作業がもう立派な本治りであって、なんと全治はむずかしい心のやりくりではなくて、意外なまでに身近かで確実なものであったことが身にしみてわかるであろう。

   2021.5.18


宇佐晋一先生 講話

ストレスも不安も、もったままが全治  

 大型連休の人出を防ぐために第3回の緊急事態宣言が発出されて、ずいぶんいつもとは違った自粛生活が強いられている。それは新型コロナウイルス感染症(異種株も含めて)をぜひともここで食いとめたいという国家的な、強い要請にもとづくもので、医学関係の責任者は5月、6月の予測値まで示して、ハラハラしているのがよくわかる。

 それにもかかわらず主要駅周辺、繁華街、観光地などの人の流れは思ったようには減っていない。これは自己主張がいかに強いかを示している。それもやかましくいわれていることはわかっているのであろうが、家に閉じこもっていると不安や不満がたまり、それがストレスになって健康によくないという思いが外出へと向かわせてしまうのであろう。なにか「自分にとってよくない」という考えには人は弱いものである。

 そもそも神経症性障害の共通した発端は、自分にとってよくない状況や考えに気付いて、それを思いどおりに取り除こうと、繰り返し努力するところから始まるものである。その最初の心配のところでなくても、じつは森田療法ではいつでも、その不安や心配、またストレスなどを自分の考えで打ち消そうとせずに、もったまま外への取組みを始めさせるところに他の療法と大変違った対処のしかたがある。どうしても心の問題を先に解決したら、それですむように思われるので、なかなか気がつきにくいものである。ここに気のきいた助言者が必要とされる理由がある。それは理論的説明を親切そうにする人ではだめで、あっさりと心の問題には一切ふれず、目のまえにさし迫った大事な生活にとりあえず着手させてくれるような助言者である。それは目下のところなにが一番必要な、急ぐ仕事であるかを指し示し、命令までしてくれるほどの人なら最高である。

 三聖病院初代院長はただ「理屈ぬき」といった。それは納得を待たずに、とらわれて抜きがたい不安や、解消に手間どるストレス対策はほったらかしにして身辺のあらゆる人や物の、ありがたさに目をむけて、ほんの少し仕事をしたら、それが全治のはじまりなのである。それは急いだほうがよい。

   2021.5.1


宇佐晋一先生 講話

全治の極意  

 この1年で警察に悩みごとで相談した人が84.200件にふえたという(警視庁調べ)。しかもこれらの相談の内容が「死にたい」ということだったので問題は深刻である。テレビで見るかぎり、その対策にはその人の心境を聞く人が必要とされる。他人に話を聞いてもらい、親切な助言を受けることができれば幸運であるに違いない。そこで疑問に思われないであろうか。もしカウンセリングで解決するのなら、なぜ森田療法では入院をすすめたのか。それはけっして病状や、相談内容の深刻さの程度によるものではなかった。

 森田療法における入院生活はコミュニケーションから離れた状態を人工的に作り出すのである。鈴木知準先生の話によれば昭和2年(1927)の入院中、第1期療法の間に森田正馬先生は1度も顔を見せられず、ただ奥さんが3度の食事を運んでくださるだけだったという。これでは話し相手がいないのも同然である。そこに独創的な治療があるわけだが、それは悩みの相談をしようにもできない1週間なのであった。つまり自己意識内容を組み立てても、答えの出しようもない、中ぶらりんの自己意識で、悩みは解くすべもなく、悩みのままにもっているほかはなかったのである。驚くべきことに第1期絶対臥褥期において究極の状態が現れる。けっして治療の最終段階ではないというこのことは、とても普通には信じられることではないであろう。  

 私は昭和25年(1950)に医師になって、京大の精神医学教室で学び、家では昭和32年(1957)2月まで父の入院森田療法の指導をうけた。といっても特別秘伝というようなものを教わったわけではない。ある時の講話で「長野市の善光寺の本堂の床下の戒壇めぐりは全治の極意ですよ。1度行ってごらんなさい」と珍しいことをいった。父が亡くなった年 昭和32年(1957)の10月に善光寺の宿坊で日本精神病理・精神療法学会が開かれた機会に本堂の床下へ降りた。そこで2回道が折れ曲がるともう真っ暗で、あとは手さぐり、足さぐりで進むほかなかった。いかなる理論学習も経験も、なんの役にも立たなかった。これが本当のあるがままである。やっと明るい堂内に上がってきて、あとは善行精進あるのみと思わずにはいられなかった。

   2021.4.17


宇佐晋一先生 講話

心によらない生活の始まり  

 気がついたら、これまでの生活は心にふりまわされてきたといえないだろうか。まるでそれ以外の生活がないというふうに心を大事に扱ってきた。若い頃 戦時中で、医学の勉強のかたわら寺田村(現城陽市)の農家に勤労奉仕で泊まりこみで行って、六月の水田に入って草取りをし、足に蛭(ひる)が吸いつくのを手で払いのけながら仕事をしたことや、秋の稲刈りに忙しい奈良県の郡山市の西の矢田村の農家に数日手伝いにいって、「稲刈りは粘る仕事じゃ。のう若い衆」と老人からいわれながら、日が暮れるまで頑張ったことなどは、妙に生きいきした思い出として、精神教育よりもずっと鮮やかな記憶として消えないでいる。

 昨年亡くなった詩人で作家のなかにし礼さん(1938~2020)が「(普通の心のほかに)もう一つの自分を感ずることが大切だ」といった。それはわからぬことはない。多分詩情、文芸の心であろう。しかし「もう一つの自分」という所に自己所属感が残っている。じつはもっと肝腎なものがあることに気付いていない。それはどのような心にもよらない生活である。私が戦争中に農家で生活をともにした、あのしみじみとした味わい、生活感情とでもいうようなものである。そこにはおいしいというようなご馳走はなく、梅干と漬物で暮らす人々と働いた。幸福など考えもしなかった。ただご飯だけは「沢山食べてくれ」といわれた不思議な生活であった。だが感情的には豊かなものがあった。

 関連して戦争末期の頃、一般教養の時間に京大文学部哲学科卆の柴田清先生は、江戸時代前期の盤珪永琢禅師(1622~1693)の「不生(ふしょう)禅」について講義をされた。「盤珪禅師仮名法語」で知られる、もっとも日本的な禅の話で、禅師の口調がそのまま、生きいきと伝わってくる。「すべては不生で整いまする」という究極の禅意識は、自己意識内にことばと論理をもちこまない不生が中心になっている。ここまで説明すれば、賢明な皆さんは森田療法の「あるがまま」と同じだとお気付きになるであろう。自在な感情の世界も「驚きなば、そのままにてよし。用心すれば二つになる」と親切かつ用心ぶかくさとしている。禅も森田療法も、その極意はなにものでもなく、いわば無色透明なのであった。あとはただ心によらない社会に役立つ生活あるのみである。

   2021.4.3


宇佐晋一先生 講話

理論学習で治った人はもっとよくなる  

 入院によらない森田療法の普及に尽力された長谷川洋三氏は水谷啓二氏のあとを受けて、森田理論を学習する方式を創案し、自助グループに対して新しい道を開かれたかに見えた。

 しかし森田先生は皆に「ぼくの理論を学習しなさい」とおっしゃったであろうか。それどころか、日本最古の古典「古事記」抄をわざわざ印刷して、治療の一環として、起床後と就寝前に10分間ずつ音読させられた。これは面白くもなんともない古文で「天地初発時(あめつちのはじめのとき)、高天原成神名(たかまのはらになりませるかみのみなは)天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次高御産巣日神(つぎにたかみむすひのかみ)、次神産巣日神(つぎにかむむすひのかみ)。此三柱神並独神成(このみはしらのかみはみな、ひとりがみとなりまして)、身隠(みをかくしたまいき)」といった読みにくく、わかりにくい文章を声高らかに朗読するのである。これで全治するのだから、理論学習など余計な話なのである。

 理論学習だけについていえば、他者意識に属することがらであるので、健全な行為であるはずだ。それがなぜいけないかといえば、「これで治る」といっている点である。理論学習をする人も、治りそうな、もっともらしい話につられて期待がふくらむわけである。ところが「治るという考え」は自己意識に属するので、そこに知性をもちこんだらどうにもならなくなるのである。ここで賢明な皆様方はなぜ古事記抄を朗読することで全治するのか、もうおわかりになったであろう。それは「これで治る」とはだれも思わないからである。

 森田療法の4時期とも、治そうとするとらわれから完全に離れて、自己評価のまったくない他者意識の世界での生活である。それは治そうとしないことの徹底である。入院外とはいえ森田療法に理論学習を組みこんだのは、実をいえばなくもがなのしむべきことであった。理論学習を離れた所で日常生活に骨折れば、その場の意識は間違いなく「あるがまま」で、その心境は「純な心」にほかならず、どなたももっとよくなられるのである。

   2021.3.19


宇佐晋一先生 講話

さあどうするか 

 世界で新型コロナウイルス感染症の人が1億1.000万人を超えたと報ぜられる中、皮肉にもどうしたら不安をなくすことができるか、という心の問題がとり上げられなくなってしまったのは、唯一結構なことである。そういう時にふだん気にも留めなかった、自分をもっと成長させたいという思いがわいてくればさらに願ってもないことだ。

 そもそも心の持ち方などと言って、心のやりくりで自分の問題がどうにでもなるように思っていたのが間違いであったのだが、なかなか気づいてもらえなかった。そのようなことよりも、どのようなことにもとらわれずにさっさと必要な仕事に手を出して進むことが、今の大変な時代には特に必要である。

 そのために自分をもっと成長させたいと考える人びとは、世のなかには発達心理学というものがあるではないか、それを学べばよいだろうと考える。それでも不十分ならば、さらに教育心理学を勉強すればいいのではないかと考えるであろう。

 ところが心の問題の解決は学問の世界ではできないのである。なぜならば自己意識の世界、すなわち「これが自分だ」と思い込み描いた自己像の世界は、言葉や考えによって組み立てたものである。しかし、心は瞬時も定まった姿を保ちえず、どのような固い決心も外界の刺激の変化によってゆらぎかねないのである。しかも学問の様な他者意識の世界と違って、自己意識の中は論理が異なる領域なので、それなりの対応が必要であったのだ。この点がほとんど無視された精神論は実際には役立たない。人間の知性が最も役立ってほしいはずの自分自身に対して無力であるということは信じたくないけれども、絶対に見落としてはならない厳然たる事実である。私は精神医学を学んだが、この重要なことがらは学ばなかった。

 昭和31年(1956)から父に代わって美濃加茂市正眼短大で教育心理学の講義をするようになってから、心理学を通じて学んだのである。人間の知性は外部機構であって、外界すなわち他者意識の世界にのみ力を発揮するものなのである。これに基づいて、コミュニケーション理論による教育心理学に矛盾を感じ、先生と生徒の一方にどうしても自己像を描かざるを得ないその間柄が是正されなければならない必要さを知り、コミュニケーションのない所に実際生活を通じた真の教育があることに気付いて、講義内容を改めたのである。

 当時は新幹線もなく、交通の不便な山奥に学校があったので、4日間泊まりこんで集中講義を行なったが、このことが幸運であった。それは短大に近い正眼寺の望雲亭という客室に泊まり、僧堂の雲水の人たちと生活をともにした。しかも毎日梶浦逸外老師に接して、その気魄のこもった雲水に対する指導ぶりをつぶさに拝見し、老師の提唱すなわち講座を聞かせていただいた。接心すなわち個別の入室にっしつ参禅の様子は、老師の隠寮が望雲亭に近い高い所にあったので、大きな声で叱られているのが手にとるように聞こえた。これは普通のコミュニケーションによる教育ではない。言葉によって意思を通ずることのない教育であった。

 つまり言葉による説明的な回答は老師から叱られるほかなかったのである。それは論理的な回答であると叱声が飛ぶと同時にドーナッツ形の環鈴が鳴らされ、それを合図に雲水は引き下がらざるを得ない決まりになっていた。何か良い答が見つからないから叱られるのではなくて、問と答という形に持っていこうとしているから「何をぼやぼやしとるか」と闇をつんざくような大声で怒られて、すごすごと引き下がらざるを得ないのである。

 心すなわち自己意識については論外であるという、分からない、決められない世界の話をしてきたが、これはまぎれもない真実に生きる大道である。問えばただちにその自分の言葉に引っかかり、答えればまた矛盾に終わる。「富士山に縄をかけて引っぱって来い」と今まさに言われている。さあどうするか。

   2021.3.14 


宇佐晋一先生 講話

心は掃除しない、磨かない  

 ギリシャの昔デルフォイの神殿に「汝自身を知れ」というソクラテスのことばが書かれていたという。その流れは近代哲学の祖とあおがれるデカルトの「我思う故に我あり」という思想に受けつがれて、心身二元論を明確に打ち出している。私が三聖病院の院長であった頃、役員会といえば、臨済宗東福寺派の管長の林恵鏡老師以下七名の僧侶方が席を連ねておられて、他所では見られない雰囲気であった。役員会のあと、いろいろな世間話が出るなかで、一人のお坊さんが「掃除をすることは心の掃除や」といわれたのが印象に残っている。これは普通、一般受けのする機知的なことばで、表現を変えれば「心を磨くべきだ」という考えに共通しており、だれもが賛成して、反対する人のほうが変な目で見られるだろう。

 ところが心とか自分とかという自己意識内容は存在するものとして論ずることは、ものごとの根源的な事実を十分に見極めたものではない。あるように思えるから、あるにきまっていると勝手に思っているだけである。そういう場合、自分の責任において心を理想的にすることが精神修養の効果として期待される。「心を磨くこと」が何時いつとはなしに義務感をもって、人格を高めるよいことだと思われてしまったのである。「これが自分だ」という自己意識内容はよく見極めると、じつは絶対不成立のものであって、心を自分でよいものにしようというのは、不可能なことであり、まったく無駄な努力なのであった。心に手出しは無用であり、どうなろうとおかまいなしにほっておいて、他者意識の社会生活に向って善行のかぎりを尽していくことがあるのみである。日本では鎌倉時代に、このことに気がつく人が二人現われた。一人は身心一如(しんじんいちにょ)を説く曹洞宗の開祖 道元。「心は仏の方(かた)より行われる」として、論じなかった。もう一人は「不断煩悩、得涅槃(ふだんぼんのうとくねはん----煩悩を断ぜずして涅槃を得)」と正信偈に説く浄土真宗の開祖 親鸞聖人である。両者とも「目ざす心」という対立概念をもたないところに真の宗教者といえるものが共通して見られるのである。森田療法における「あるがまま」の意識も、まったく同様で、不安のまま、ただそれだけなのである。

   2021.3.1


宇佐晋一先生 講話

全治の答えはいつも「それでない」  

 どんなによい答えを出しても「よろしい」といってもらえない。他人がもっとよい答えに気がついて、さっさと治るのではないかと思えて気が焦るが、実際はけっしてだれかが賢い答えを出してめられ、涼しい全治顔をして喜んでいるわけではない。

 全治の状態を目ざそうとした長い間の苦しみは 描いた自分の理想の姿を目標にしての努力の姿であった。これがいけなかっただけのことなのだ。しかし心のあり方がなにより大事がられる社会では、心をおろそかにすることはとんでもない不真面目な態度と評価される。そのためなかなか心の工夫から手を放すことがむずかしい。まったく教養とは自分の心の扱いがうまくなることにかかっているように思われる。

 禅の僧堂で修行中の雲水さんが、夜中までも熱心に座禅し「無一 む一」と唱えて無になろうとして真剣に努力するという話を聞くにつけ、どういう指導が行われているのか、気になって仕方がない。禅の修行の方式は鎌倉時代以来の伝統を今に伝えて、最高のものとして尊ばれ、批判は自他ともに許されないものとされている。私が気になるのは、自己意識内容である自分の心を対象にして、「無になろう」とするその態度である。われわれからすれば自己意識内容には指1本触れず、意識はつねに他者意識のみを働かせて、仕事にとりくむことが、全治の早道であるから、自己意識内に「無」という言葉を持ちこんでさえも大脱線なのである。

 これを書いているうちに70年もまえに聞いた前三聖病院長 宇佐玄雄(げんゆう)のことを思い出した。いままでどこにも書いたことのないもので「僧堂で修行するより森田療法を受けたほうが早く目が開ける」といっていた。父は小学校4年生のときに寺に養子にもらわれて得度し、早稲田大学卆業ご軍隊生活を経て、大徳寺僧堂で川島昭隠老師のもとで修行をした。医師になったのはそのあとである。入院者に朝から晩まで作業をさせ、「神経症になることもでき、また治ることもできるのが本治りだ」と説き、全治の状態を言葉できめることがなかったのである。  

   2021.2.3 


宇佐晋一先生 講話

森田療法全治の論理とは  

 神経症性障害のみならず心の問題は森田療法によって跡形なく治る。この優れた全治の特色は、一般の精神療法とは論理がことなるからであって、森田療法でも うっかり普通の論理を持ちこんでいると、治るのに長い時間がかかってしまう。しかし森田先生はそういうことをおっしゃっていただろうか、と心配される方もいらっしゃるだろう。それは ちゃんと「感情ニハ普通論理ニ従ワヌモノアリ」と述べておられる。だから「治らない」といっている人はそれを見逃がしているだけのことなのである。普通に病気を治すというあの論理でがんばっているから、いつまでたっても治らないわけなのだ。早く "治す論理" から離れることをおすすめしたい。

 この話は種あかしのようだが、けっしてそうではない。種あかしなら分かってすむ話だが、森田療法のほうは分かってすむ話ではなくて、心は別種の論理のなかに放置して、他方 外に向っては大いに活躍する道が開かれるのだ。どうしたら世の中の人に役立つ仕事が見つかるか。他人に喜ばれる仕事はもっとないか。探してばかりいるような生活が始まるのである。そういう社会的によいことを探して、どんどんやっていく時、もう神経症性障害は存在せず、治ったかどうかなど考えるひまもないのである。こういう外に向かって緊張して次々仕事を見つける前進の姿を、森田先生はすすめられ、治し方について質問する人に「君はもっとハラハラしたまえ」といわれるのが口癖のようだったと伝わっている。

 いまは全世界を通じて、新型コロナウイルス感染症の拡大に対してハラハラして暮らしているから満点なのである。のんきに社会生活を送って、守るべき対策をおろそかにしていてはいけないご時勢である。こうして皆さんが不安の真只中にいるよりほかない状況は森田療法からすれば実に貴重な体験といわなければならない。すぐさま「今しなければならないことはなにか」と探すならば、それはもう立派な全治の姿といってよいのである。

   2021.1.22


宇佐晋一先生 講話

緊急事態でも不安の解決はあるか  

 新型コロナウイルス感染症の拡大はすさまじい勢いである。緊急事態宣言が出された都県はもちろんのこと、そうでない地域にも緊張が走る。日本医師会が待合室用に出している「日医ニュース」の1月5日号に「ストレスに強くなろう」というテーマでの特集記事がのっているが、今度ほど白々しく思えたことはない。「ストレス過多になると自律神経のバランスが乱れる」という話から始まって「ストレスに強い体を作るために行いたい毎日の習慣」が5つ述べられている。

 だれも今さらストレス対策強化法など希望する人はいないであろうし、生死にかかわる問題が日本中いや世界中の人びとの生活空間にさしせまっているのである。皆が不安のまっただ中といってよい。こんな時にもよい生き方というものがあるのだろうか。だれしもが平等にその不安に直面していることや、アメリカやイギリスでは1日に何万人もの感染者が出ているのにくらべれば日本はずい分と少いことに、いくらかの安心があるにもせよ、国家的重要さにおいては楽観的資料はなにもない。ただワクチンの接種が期待されるのみである。それまでは不安にさらされていなくてはならない。

 ここでせっぱつまった人の話は多分参考になるであろう。14世紀に南朝の後醍醐天皇をたすけて転戦した知略の武将 楠木正成が形勢不利ななか、大阪府の北部の桜井駅で息子正行を国もとの千早赤阪村に帰し、みずからは西からの足利軍との湊川での決戦に向けて進む途中、現在の高槻市の広厳寺に立ち寄り、中国からの来日僧である明極楚俊(みんきそしゅん)の名声を聞いていたので面会した。正成が「生死交謝(しょうじきょうしゃ)の時如何?」(生きるか死ぬかの時は どうしたものでしょうか?)と問うと、即座に「すべからく双頭を断絶すべし(自分について生とか死とかの対立概念を使ってはいけない)。一剣天に倚(よ)って寒(すさま)じ(頭の上に敵の剣が来ているぞ)」と答えた。それで正成は湊川に向けて出陣したのであった。今日においても自己概念は最初からはぶくのが賢明である。

   2021.1.10


宇佐晋一先生 講話

全治のめでたさは格別  

 入学祝いや結婚祝い、また交通では鉄道や高速道路の開通祝いなど、個人や公共の新しい事態の幸運な始まりは祝福される。ただ同じ祝いごとでも正月のめでたさは、ほかのめでたさと違うことに気付いておられたであろうか。普通のめでたさには はっきりした理由がある。ところが正月のめでたさには理由がない。年の初めのめでたさという理由があるではないかといわれるであろうが、なぜ年の初めがめでたいのかと問われると、はっきりした答は難しいのである。しかし特徴的なことは、誰彼なく皆がめでたいという点である。そこにはまったく区別がなく、比較がなく、よしあしがない。したがって対立するものがなく、勝ち負けがない。それで安心も不安もない、ということに気付かれたであろうか。

 正月とはそういうめでたさに包まれた期間である。これは考えによらない人生が垣間見える時であり、それを見逃してはならない。この状態は真の実在そのもので、ほんの少しも自己意識が概念化されてはならないのである。年末のニュースに国連の重要な任務についた日本人女性が、就任のことばとして「気をしっかりと引きしめてやりたい」といっていた。これが自己意識内を概念化した真実からの脱線のよい例である。当りまえの話を決意をこめて、上手にいっているようだが、「あるがまま」の真実からは遠く離れて、自分についての考えにとらわれているのである。

 森田療法の全治は正月のめでたさとそっくりである。心のやりくりでよくなると思うのは間違いで、治そうとするどのような考えを持ちこんでもうまく行かない。前院長の宇佐玄雄は「子供のほうがよく治る」といったことがある。それは大人のように理論的に自分で納得しようとしないからで、いわれたとおりに実行してすぐに治るのである。新型コロナウイルス感染症でいうならば、その拡大の情報にビクビクハラハラして接し、対策はおこたることなく、万全を期して行うこと、あたかも医療機関のごとくであることが望ましいのである。そうすればこのたびの正月のめでたさは緊張のうちに全治の保証としてあらわれるに違いない。

   2020.12.23 


宇佐晋一先生 講話

初詣にはご用心

 昔森田先生のことばを使って「かくあるべしの反対があるがままで、あるがままの反対がかくあるべしだ。こんなにわかりやすいことはない」と書いてある本を見たことがある。こういう道理がわかったこともうれしいに違いないが、本ものの全治はもっとすばらしいものである。そう聞くと長年の修養によってやっと到達するような困難な道のりを考えて気が遠くなりそうだが、実は本もののほうが簡単で、確実なのである。それは全治は論理の異なる世界であって、普通の心理学的な筋の通った学問的解説では役立たない。それだけでなくすべてのストーリーが関係がない。つまりわかってもわからなくても全治はもう皆さん方のものであるといってよい。

 答えを出そうとする時は、真実はもうそこにはなくて、全治はなり立たない、と聞いたら、すぐに心や症状に向き合うことをやめて、仕事に着手するか、他人からの恩恵を考えて、なにをすれば皆さんに役立つことができるかと考えるのが賢明である。それを難しいというのは自分の気分や能力を考えているからにほかならず、治らない状態というのは自分が思考対象になっている。すなわち自己意識が明るくなっていることは間違いない。そう見てくればお正月になったらなにをいても出かけようという初詣は、よほど慎重に考えてみなければならない内容のものである。それは自己意識の集中して高まった集団的行動で、ことごとくなんらかの願いごとを欲深く祈る。家内安全、無事息災、健康長寿、学業成就など、祈願するのが当然のようになっている。その祈りが真実に生きることを妨げ、全治を不可能にしていることに気がつかない。

 全治は自分についての祈願のない状態である。初詣はそれを打ち消す行為なのだが、神社に年頭に参詣することが、国民的行事として良いことのように思われているために、気がつかずに全治の機会を逃し、真実に生きることから離れて、新年の気分に酔うのはおろかしいことといわねばならない。私は森田療法の家に生れ育って93年、一度も初詣をしたことがないし、ご利益にあずかろうとは思わないのである。 

   2020.12.11 


宇佐晋一先生 講話

神経質の日常性  

 どなたもご自分のことでよくおわかりであろうが、一見のんきそうに見える人でも、かなり生活や仕事には気を使っているものである。2020年11月28日に行われたNHK杯フィギュアスケート・グランプリにおいて、女子シングルの部で優勝した坂本花織選手は直後のインタビューで「とても緊張したんですけど、のびのびとやれました。これからもいい緊張のなかでやっていきたいと思います」と語った。そのことばは、あの美しく冴えた演技のイメージの拡がりに消されて、ただ感心し、羨ましいばかりの憧れのみが残ったかもしれない。

 しかし私は まず口を突いて出た「とても緊張したんですけど」という口調に「森田神経質の人に違いない」という確信を得た。自己意識内容をいうか、いわないかで、そんな違いはあるのだろうか、と思われるかもしれないが、それは実に大きな分かれ道なのである。神経質のとらわれは、そこから「緊張はあってはならないもの」として予防したり、排除しようとするところから始まる。そこで「緊張はあってもかまわない」とか「あるのが当りまえだ」という解説がなされるが、逆転の発想でうまく治るというのは森田療法としてはお粗末である。

 そもそも自己意識内容、もしくは自分の心を考え方で調整しようということからして、自己の真実をよく見抜いていない人にありがちな とらわれである。森田正馬先生の「あるがまま」は考えではない。つまり考え方を変えて「あるがまま」の実現を目ざすのではない。緊張したらしたまま、不安になったらなったままであって、あらゆる考えのまえの意識の状態である。それは「ことばのない世界」というべきもので、あらゆる解説に関係がない。手っ取りばやくいえば、自分を考えで表現するまえの状態で、外のことや他人のことにとり組んでいる状態が一番たしかである。他人への感謝なら間違いない「あるがまま」の全治にほかならない。はじめに述べた坂本花織選手は「これからもいい緊張のなかでやっていきたい」という名言をのこした。その実行が体得あるいは全治なのである。

   2020.11.30


宇佐晋一先生 講話

不安の解決に心は関係がない  

 テレビの「悩みごと相談」の番組を見ていると、考え方を変えたり、心のあり方に工夫を加えるものなどが多い。中には心理学的な解説で、理解を深めることによって、自己洞察どうさつを深めたら解決すると説く学者の、もっともらしい意見もあって、聞く人びとを感心させている。また例外なく心を明るくするようなものや、心がいやされるものが話題になっていて、抑うつ状態を無くそうとしていることがよくわかる。要するに気分転換が中心になっていて、新しい精神生活が始まりやすいように仕向けているのだといってよいのではなかろうか。

 こういう話は当たりまえすぎて、どうしてわざわざ取り上げるのだろうと、いぶかしく思われるだろう。ところがそこに大きな問題があるのが気付かれていないのであって、そこを上手に解決したら、誰の手も借りないで見事に悩みごとは解決するだけでなく、不安という不安のどれ一つも起こりようがなくなってしまうのである。 

 はっきりいっておかねばならないのは心の問題、自分で見た自分、すなわち自己意識の内容は、筋を通した正論の通じない世界なのだということである。しかし臨床心理学があるではないかといわれそうであるが、それは他人が客観的にこちらの心のなかを取扱とりあつかっているから学問として成り立つのである。それに対し自己意識の内容は自分の主観で描き、作り上げてしまった世界なので、事実でないことがわからずに信じこみ、無批判に思いこんだ自己像にすぎないのである。それは主観的な虚構の世界なので、真実と思って取り組むことで脱線してしまうから、知性で抽象的論理的に解決しようとすることが間違いなのである。むしろ一切手出しをしてはいけないことを早く知って、自分や心について論ずることをやめれば、即刻真実に生きることができる。それはなにも難しいことではなく、今の目の前の現実の課題に敏感に対処して、ただならぬ緊張のうちに社会生活上の工夫を手ぬかりなくなしとげていくことが、ほかならぬ不安の真の解決が同時になりたつ姿である。現実の新型コロナ感染症拡大への対応こそがまさしくそれなのである。

   2020.11.12 


宇佐晋一先生 講話

心をどう扱えばよいか 

 だれしも今正しく判断して、確実な道を歩み生活していると思っている。しかしその生活のしかたでは、知らない間に自分の気持ちにとらわれていて、そのために感情生活のほうに引きずり込まれているのがわからない。たとえ、それに気づいたとしても時すでに遅く、自分の感情なのに思いどおりになってくれないから、どうやりくりしても悩みは増すばかりである。こういう当たりまえで、どこも間違っていない精神生活が神経症性障害の心理そのもので、森田療法は特定の人びとだけに通用する特殊な心の問題の治療法なのではなく、自分について考える、いいかえれば向上心のある人なら、どなたにも役立つ人生上の大きな課題を解決する役割をになっているといってよい。

 それでは元より病気でもなんでもない所から出発しながら、なぜある人びとだけが苦しい神経症性障害を引きおこすことになってしまうのであろうか。聞けばその人特有の、ある時の事情が発端として語られる。けれどもそれはかならずしも、抜きさしならぬ原因のように見えていても、多くはきっかけにすぎないのである。したがって気になり続けている悩みの本態は、今自分が片時も手をゆるめずに解決にとりくんでいるその姿勢そのものであって、そのなかに内容として原因らしいことがらが物語として入っているだけなのである。ふり返ってみれば自分の苦痛を何よりも先に解決しようとするのは感情の自然であって、じつにもっともなことではあるが、困ったことに自己意識のなかは自分の心の問題なのにうまくいかない。しかもつねに不安がつきまとうから、一刻も放置できない感じがして、ただもう方法のかぎりを尽くして人知れず早く治そうとして、その努力は自分に対して手をゆるめず、その葛藤かっとうはますますひどくなり、軽くなる見通しは見出みいだせない。

 森田神経質の人は熱心である。仕事に取り組めば他人に負けないであろう。それがどうして症状には勝てないのであろうかと不思議に思われるであろう。しかしこの事実に対して森田療法ではそのまま受け入れて克服しようとしないでよい。それで瞬間的に全治するのである。そこがじつに鮮やかで他に比類を見ない。

 後から理論化すれば、人間のもつ知恵、すなわち考える力は精神の外部機構であって、自分の心の問題の解決は守備範囲外なのである。今日の森田療法を見渡して、知性による理論学習で治そうとする傾向が見られるのは、その点から見ても、本療法の真髄しんずいをよく見きわめたものとはいいがたいのである。

 ところが、幸いなことに、理論学習そのものは対象が自分以外のことなので、立派な精神作業であるから、他者意識が明るさを増してくる。こうなれば自己意識は暗くなるので早速さっそくの全治が実現する。どこがいけなかったかというと、その理論学習を治すための方法であるとしたことなのである。それはあたかも全治の状態をだめにする「治そうとする自己意識」を最終目標として掲げているため、うまくいかないのである。自分のことはほっといて、ひたすら理論学習にうちこめば、その勉強に打ちこめば、いや応なしに治らずにはおかない立派な作業として生きてくるのであった。

 こうして見れば、治そうとする自己意識内容は影をひそめて、初めから他者意識だけの生活をすればよいことがわかってくる。一般にいう「心の問題」とか「自分のこと」は、みな自己意識をとり上げたものなので、どうあつかうかよりも、まったくとり合わないでよかったのである。

 ここまで来ればあとは至って簡単である。心とか自分というものを設定する必要がなくなったので、自己中心性はおのずから消失し、全治があるばかりの自然の風光のなかにあってただ働くばかりなのである。森田も究極のところを「ただ働くだけです」と語ったという。その優れた回答は、ただちに外に向って仕事を始めるという、生きいきしたものであった。

   2020.11.8 


宇佐晋一先生 講話

自分を見つめなおすのはよいことか  

 テレビに悩みごと相談の番組のあることはよいことで、メンバーのお坊さんが宗教学者という肩書きで解説されるので参考になる。しかし悩みの解決は悩む人の自己意識内に主題がある間はうまくいかないものである。数人のメンバーが思い思いに意見をのべて、客観的にはわかる形に結論をもっていくが、それがうまくいったかどうかまでは番組のなかではあつかわれないからわからない。しかし大体の傾向として心の統一が目標とされており、助言としては考え方を変える方向にもっていくように見える。

 最近のその番組で、僧侶の宗教学者が、写経が心の統一によいとすすめられたところ、脳科学者で、心理学にも詳しい相談員の女性がそれに賛同して「自分も写経をしてみて自分を見つめなおすのによかった」といった。写経自体は他者意識のもとで行われる作業であるから心の問題の解決には適切であり、速効的でもある。ところがその点をいわないで、自分を見つめなおすのによい、とあたかも自己意識内によい変化が期待できるかのようにいうのはよろしくない。

 悩みが自己意識内を見つめなおすことで解決すると思うのは学者のおちいりやすい間違いである。脳科学や心理学で悩みの解明に行き届いた説明をしても、悩む人にしてみれば自己意識内を概念化しなおす手間がふえただけのことで、真の解決には程遠いのである。悩みの解決には科学が邪魔をするのだということを、声を大にして今いわないと、いつまでも脳科学や心理学にたよって理論的解説に満足し、そのかぎり迷いは去ることがないであろう。

 先年ある禅宗の大本山のお寺の管長さんと二人きりでいた機会に、「よく『しっかり自分を見つめろ』といわれるのは間違いではないでしょうか」とおたずねしたところ、笑って「あれは常套句じょうとうくですよ」といわれた。

 私は精神療法家として、自分を見つめることをやめて、すぐ外界への最高の気配りのもとに、他人に役立つ仕事を始めることをおすすめしたい。もしどうしても見つからなければ、写経を心の統一のためでなく、字の芸術を創造するためになさるならば 早速さっそくに悩みは解決されるであろう。

   2020.10.22 


宇佐晋一先生 講話

アナウンサーの
インタビューのしかたについて
 

 アナウンサーになる人びとはインタビューについて どのような教育を受けるのであろうか。アナウンサーに知り合いがいないのでたずねたこともないが、あまりにも当たり前過ぎて教科書にはないのかもしれない。精神科医のわれわれからすれば、まことに変なきき方をする。しかし世間ではそれが当たり前なので、少しもおかしいとは思われない。たとえば特別に優秀な成績をあげた力士に「おめでとうございます」ここまではよい。つぎに「今の心境はいかがですか」ときくのがわるいのである。自分をして自分のことを語らせることがいけないのである。

 有名な森田療法家であった鈴木知準(とものり)先生は 初診のまえに森田先生の本を読んで「自分のことばかりしゃべる人は森田神経質ではない」と書いてあったので、森田先生からなにを聞かれても せいぜい黙って答えなかったら、森田先生に統合失調症と間違われてしまって、入院を断られ、困った親が他の先生に手を回して、そこから頼んでもらって ようやくにして入院が許された、と生前に苦笑して森田先生を懐かしまれた。

 自分について語らない、という生き方は もう全治である。それは自分を概念化することがないからである。もうそれだけで全治が達成できるからである。考えた自分を離れるとは どういう状態かというと、それは疑いもなく毎晩眠っている状態、それそのものである。

 昭和の終わりごろの妙心寺管長 梶浦逸外老師は揮毫きごうを頼まれると、よく色紙に「夢」という一字の墨跡を書かれた。これはけっして「人生は夢のようなものだ」というお説教ではなくて、自己概念のない現実の、赤裸々せきららな表現だった。

 夢は見っぱなし、描きっぱなしで、無批判の状態で目がさめる。そのときの自分は まったく良し悪しがない。どんな自分も きめられない状態で次の行動が始まるのである。その社会的行動は十分、慎重であらねばならない。それはほかならぬ他者意識での行動なのである。

   2020.10.6


宇佐晋一先生 講話

本当は治らないでいることはできない  

 仮想現実空間、バーチャルリアリティといっても、他人ごとのようにしか思えない。「自分はしっかりこの現実社会に、地に足をつけて生活している。その証拠に社会生活の苦しさを嫌というほど味わっているではないか」と思いがちである。実はその社会の生活のしにくさこそがバーチャルリアリティの中でさけられない苦しさなのである。もしバーチャルな世界を脱して、真実に生きるならば、だれでもただちにとらわれのない解脱げだつの道を進むことができる。

 不安や恐怖や悩みは、ことごとく "自分で見た自分" がかかわる自己意識のなかに生ずる。他人のことを心配している人には神経症性障害は起こらない。それは他者意識のなかで精神的な緊張のたかまりがあるからである。その時の自己意識のあり方が森田療法で重要視する「あるがまま」なのであって、ほかならぬ全治の状態であり、治ったといってよい。それはそうなろうとして自己意識の努力でなれるものではなく、他者意識がなんらかの外界への取り組みで明るくなると自動的に生ずる自己意識の暗くなる状態である。森田がよく「君はもっとハラハラしたまえ」といったというのは、この他者意識の明るくなる外への取り組みをうながしていたのであって、森田の着眼のすばらしさに改めて敬意の増すのをおぼえる。外への緊張への緊張の時は治らないでいることはできないのである。

 昭和20年(1945)の春に、はじめて静岡市に空襲があった時に臨済寺の住職であった倉内松堂老師が、のちに京都の妙心寺の管長になってから笑って話されるには、ちょうど洋服屋の人が来ていて爆撃が始まり、逃げるに逃げられず、腰が抜けて座りこんでいたら、気がついた時は洋服屋はもういなかったという。そこで「禅僧がこんなことではダメだ」と修行をやりなおしたそうである。この話は極度の精神感動のために仮性運動麻痺が起こったもので、修行の不足によるものと見るのは当たっていない。

   2020.9.18 


宇佐晋一先生 講話

不安・緊張・悩みの瞬間的解決

 なにかが解決しそうでできないとすぐ不安を生ずる。それは社会生活上は「緊張する」といって、良くないことの始まりのように心に対処するやりくりが始まる。その努力の結果はかならずうまくいかないので、人知れず悩みが始まるが、黙っている人は悶々もんもんとし、いわないでいられない人は相談をもちかける相手を探す。テレビ番組はそれを察して頻繁ひんぱんに特集を組み、脳心理学者が卓越した解説をして、大いに感心させられるが、それで終わりである。その他もろもろの心の相談に乗ってくれる親切な窓口があるけれども、いくら深い配慮のもとに心理相談が行われても、学説による根拠をもった、相手を納得させる心の解決法では、わかった所にとらわれて、そのとおりにしようとする自分の動きのとれない新たな悩みに困りはてるのである。そうしてストレスが増すばかりとなる。

 このように「解決」という目標をもった相談の態勢は、かならず「未解決」という対立概念を伴っているために、「未解決」を嫌ってそこから離れようとする努力が消えない。つまり「未解決」が自分によくないものとして立ち向かい、どこまでもそれが目立って仕方がない。どのような心理学的理論をもってきても実のところうまく行かないのである。

 考えの世界では不安・緊張・悩みの解決には役立たないことを見抜いた人は幸運である。内容がどのようであろうと自己意識すなわち心の内容は、自ら解決に乗り出す相手ではなく、完全にほったらかしで十分な、至って世話のやけない世界であって、だれしもが今すぐ真の解決を実現しうる端緒たんしょに満ちている。しかも瞬間的に実現可能なので、これほどすばらしいものはない。

 今こそ先輩格のサルたちに学ぶべきことは、この自己意識内に ことばと論理を持ちこまない精神生活である。人間はその賢い知能をけっして自分に使わずに、もっぱら世のため人のために存分に発揮し、感謝して進めば、その瞬間から不安も緊張も悩みも徹底的に解決され尽くすのである。

   2020.8.25


宇佐晋一先生 講話

心に関係のない生活の前進を  

 「心なんかどうでもよい」などといおうものなら、皆からさんざんに叱られるに違いない。心の問題をきわめるということが、人間としての修養の姿と信じられていて、心をないがしろにした人間のあり方はだめだといわれる。

 数年前に『心を整える』という本が大変よく売れて、京都府と市は 秋の文化事業の共同テーマにその言葉を選んだ。それに気をよくして、その本の編集者から「数万部売れたので、あなたも心について書いたら・・・」という手紙が私に来て驚いた。そこで「私が書いたら『心は整えようとするのが間違いだ』という主旨のものになるから、あの本が売れなくなるだろう」と返事したら、それきりになった。

 ここで徹底して生命の事実に接する森田療法の立場からすれば、考えによる自分の姿、あるいは心の事実は、真の自己意識内容そのものではなく、すでに自分の考えによって概念化され、きめられたものである。生命の事実はそれではなくて無限に多様な、変化してやまない、きめられない状態である。

 森田の「あるがまま」は自分の考えでとらえようとしてもできない変容の姿そのもので、ことばと論理できめられることのない、概念化のまえの生き生きした生命の発露はつろなのである。

 恐らくほとんどすべての人びとが、つかんだと思って喜ぶ「治ったと思う瞬間」は、そのかぎり脱線のはじまりにほかならない。真に治るのは「治ったかどうか」の問いも答えもないところで、いきなり生活、仕事、勉強、芸術活動や感謝を始める働きに現われる。

 心にもないお世辞をいう、という時の「心にもない」自分のあつかいがきわめて重要なのである。もちろんお世辞よりも、世のため人のために役立ち、喜んでもらえるものを選んで早速さっそく取りかかるに越したことはない。自分の心について考えている間はだめで、他人への働きで役立つ前進こそ真の全治のはじまりである。

   2020.8.3 


宇佐晋一先生 講話

新鮮な日常的な生活 

 昨年は森田療法が誕生して百年を迎えて日本森田療法学会は大へん盛大であった。それは結構なのだが、発展のかげに大切なものが失われたように思われてならなかったので会場で指摘しておいた。

 それは森田療法では治癒機転の中心である「あるがまま」が "考え" であるとされてしまっているという事実である。皆様方にも十分ご注意を願わねばならないのは、「あるがまま」は考えではないということである。

 神経症性障害が治りにくいと思われているのは、考えで「あるがまま」にして実行しようとしているからである。考えでない「あるがまま」が作用すれば、どなたも早速さっそくその場で治らないでいることのできない、すばらしい全治が現われるので、これを見逃すことが非常にしまれるのである。その実際は極めて容易なことで、症状や自分、また心については一切言葉を使わずに、とりあえず目の前の仕事を他人に役立つように工夫してやり始める時、その瞬間、瞬間が申し分のない全治の姿なのである。

 言葉は自分とか心とかの自己意識の内容をきめる働きをもっているために、残念ながら自由に変化してやまない "真の自分" の事実を見失う。したがってそれに対抗する治そうとする言葉とぶつかって、その調整を必要とし、無駄な葛藤かっとうを生じて、治ることが遅れるのである。

 このごろ森田療法といえば、一般には森田理論の学習から入るようである。しかし、入院森田療法で理論や言葉を離れて、自分をどのようにもきめないまま、指示に従って外界の事物への観察や研究的な取り組みに着手する全治の早道は忘れていただきたくない。入院施設の少なくなった今日、考えによらない「あるがまま」を十分に発揮する道は、自分の心を行動の原理にしない、ひたすら社会生活への取り組みに苦心の骨折りをすることである。その生きづらさが問題なのではない。生きづらさを回避しない生活の姿が、もうただちに全治なのである。

 この時に当たって抗不安薬以外の、何か良い薬はないものかと言われるならば、最も的確な成果が得られ、しかも治らないではいられない優れものが、ほかならぬ "症状" なのである。症状が薬と聞いて驚かれるであろうが、これほどよく効く薬はない。しかも症状は自分の持ち前であって、取り寄せる手間もかからない。

 国を挙げての非常事態宣言のもとでの出口の見えにくい毎日を送られた皆様といっしょに異常な数十日をともに忍んで、ひたすら家での生活を送らざるをえなかったのは、人生上貴重な「過去の経験を活かしようのない実生活」であった。この状況下においても、言葉のない「あるがまま」に生きる人は、そのストレスに対抗するなにものも持つことなく、症状を薬として飲みながら、経験に関係なく生活し、そのすべてが全治であった。

 このように真の全治は、全く経験をふり返ることのない新鮮な日常的な生活として現われる。だれにも影響されない生きいきした、どのようにも決められることのない自分は、自分でも知らない成り立ちを持つ。もはやその時には自分をふりかえる必要はなくなって、自分に用事がなくなっているのである。症状は、自分をなんとかしようとする、自分相手の工夫によって架空の形で生じた実体のないものであった。

 世間でよくいう「自分をしっかり見つめて」という指示は、努力の方向を誤らせる脱線に誘う掛け声であったことが明らかになると、もう自分や心や症状などについての用事は一切なくなり、自分を意識することなく、仕事に、生活に、また勉強に全力を挙げて取り組んでいる状態だけがあって、自分でも気付かなかった思いもよらぬ知恵が働き、成果があがって自分でも驚かされるのである。精神的に言えば、外への働きは他者へのしむことのない問題解決への協力と感謝と学習である。

   2020.7.12


宇佐晋一先生 講話

心には手出しをしないこと  

 日本には精神文化を尊ぶ気風があり、それを誇りにしているという伝統もある。また わび・さび というものは外国人にはわかるまいという広く国民性に根ざす自負もあるが、それを的確に説明するとなると、なかなか難しいものである。それは心の問題はすべて自己意識に属し、その自己意識内容は ことごとく主観にもとづいたもので客観性がないからである。

 神経症性障害という主観的な病気の精神療法上のむずかしさも、この点に共通の原因があることを見破れば、難しい心理学治療理論を持ち出さなくても容易に完全に解決する。それは思いもよらない、意外なまでに新鮮なことがらで、だれも気がつかなかったことなのであった。

 その心の問題を一挙に解決し、ぐらつくことのない真実を発見するという人生上の一大事は、おそらく長年にわたる修行の成果として、特定の恵まれた個人に幸運にも見出されるものでもあろうかと、羨望せんぼうの目で想像されがちであるが、じつは それは禅宗の僧堂の厳しさの一端を伝えるテレビからの予測に過ぎないのである。

 パニック症などの不安症や恐怖症が治ることの実際は、どのような考え方の進歩によるのでもなければ、積み重ねられた修行の経験によるのでもない。

 それは誇るべき日本的精神文化を今早速さっそく離れて、自分の立場を明解にするまえに、生活上の骨折りに徹して、あらゆる問題の解決、学習 そして感謝の、他者意識における努力を始めればそれでよい。それは いつでもどこでも とりあえずの、自分を離れた用事への手出しが始まればよい。

 いいかえれば自己像や心を描き、さらに神経症性障害を形作ってきた言葉と論理を捨てて、自己意識内を概念化するまえに生活を先にして、ひたすら他人のために骨折ることである。ここに わび・さび の真に深い味わいも実現するのである。

   2020.7.6


宇佐晋一先生 講話

もっとよく治る森田療法 

 一般に森田療法は、このごろは森田理論の学習から入るのが一番の早道であるとされている。これも一理あるといえるのは、全治の状態は他者意識すなわち実生活上の努力の姿にほかならないので、精神作業としての学習はその内容の如何いかんにかかわりなく全治の姿であるからである。

 ところがしむらくは、理論学習は治療の手段として、方法化されているから、折角せっかくの努力が自己意識のほうを明るくしてしまい、全治から脱線してしまうのである。自分が治るためという自己意識内の努力に結びつきやすいので、理論学習が全治のさまたげとなり、学習内容の習熟が全治と思いこむほかない状況が、あたかも森田療法を理論武装であるかのような誤った印象を生じさせている。

 ここではっきりさせておきたいのは、森田療法による全治の状態は、まったく理論学習に関係のない意識の問題であるということである。

 意識は自己意識と他者意識に分かれ、自己意識は内省的な自分についての考えや心と他人が自分をどう思っているかという関心や想像の世界であり、他者意識は自分を取り巻く環境のすべてについての想念である。

 森田療法では、自己意識内に知性を持ちこまない状態があるがままで、純な心であり、全治なので、理論学習は邪魔じゃまであり、かえって全治の妨げとして作用するので、使ってはならないのである。これを絶学ぜつがくの意識といってもよい。人間の知性が精神の外部機構であることを忘れて、理論学習という知的作業を精神内界に持ちこむことをやめて、ただちに症状のまま実生活に骨折れば、それが身体作業や精神作業の区別なく、問題解決の努力、学習、感謝のすべてが、もっと早く、完全なよい治り方をもたらしてくれることは間違いない。

   2020.6.6 


宇佐晋一先生 講話

心はほったらかし  

 こんな時代でなくても、心はおだやかなのがよいにきまっていると、皆がそう思っている。本当にそう思っていない人はいない といってもよいくらいである。

 しかし意識を取りあつかう精神医学からすれば、自己意識の内容は自分で調節することができないから、ほったらかしにしておくだけでよかったのである。

 自己意識のなかを変えようとすると、そこにかならず考えが出てきて、工夫するために、どうにもならない自己意識とぶつかって葛藤かっとうを生じてしまう。それが悩みの本質であり、結果としてはストレス状態を引き起こしてしまう。

 こんなにばかばかしいメカニズムで、日常的に悩みが絶えないのも、もとを正せば、心のよいあり方をきめたのが原因である。心は穏やかなのがよいと勝手にきめた常識がわるいのである。

 ストレスという言葉は夏目漱石が使った早い例はあるが、私が精神科医になった1950年ごろから、カナダのモントリオール大学のハンス・セリエ教授が1945年に、ストレス学説をとなえたことに触発しょくはつされて、次第に治療面にも その考えが応用されるようになった。それは本来、生体のもつ防衛反応についての共通した理解をたすけるものであったにもかかわらず、ストレス作用因子の有害な面を示すことばとしてストレスの語が使われて、ストレスといえばないほうがよいという常識を生み出したのである。物理学的あるいは化学的なストレス作用因子はともかくとして、心理的なそれには立派な解決法がある。

 それは まったく言葉や考えで対抗策を工夫するのではなく、自己意識のなかは完全に言葉を使わないでほったらかしにするだけでよい。

 心のなかの工夫がいらないことが、それだけ他者意識の余裕が生まれ、周囲の問題の解決や学習のみならず、広く世間の恩恵にも気付くことになって感謝が生まれてくる。これは思ってもみなかった生活上の充実となり、幸福のはじまりでもあるといってよい。

   2020.5.22


宇佐晋一先生 講話

宇佐先生への質問
 世の中が時々刻々と変化をしています折に、宇佐先生からご指導をいただきまして感謝にたえません。今回もまたメッセージがございましたらお伝えください。

宇佐晋一先生 
 毎日不安と緊張の増すばかりの、ストレスにさいなまれる暮らしのなかで、心のケアが必要だとテレビで臨床心理学者がいう。その折角せっかくの親切も悩んだ心には早速には届かない。それは聞いたかぎりでは、一人ひとりの悩みのなかに立ち入っての解決法であるように思われるからである。そんなことではなかなか追いつきそうにない。それは心の問題は自分対自分の、なんとか助かろうという考えのやりくりにほかならず、その葛藤かっとうに他人が言葉や考えで入りこむと、新たな葛藤を増すばかりで結果は矛盾に終わるほかはないのである。

 その理由は解決の方法が間違っているのではなくて、自分を目的にした論理が自己意識のなかには役に立たない不向きなものだからである。自分を助けようとして筋を通して論理化すると、自己概念と自分とが対立し、この形でよいほうにもって行こうとすると、ちょうど自分の身体を自分で持ち上げようとするのと同じように、りきむだけで心はどうにもならないのである。

 外に向かっては すばらしい能力を発揮する知性の力だが、自分自身に対しては無力であることを、この際 皆さんに知っていただくことは、きっとお役に立つことであろう。こののぞんで、明解な見通しをたてるのに、今は非常事態であって、皆がピリピリしているから、とてもよい時期であるといえる。

 この状況から突破するには、心がどうであろうと、自分のためになる工夫は一切しないで、言葉と論理を自分に使わずに放置し、目のまえの状況に人一倍気を使って対処して進むことを第一とすればよい。予想されるストレスが何倍になろうと、予防することがいらないことも おのずからわかるであろう。 

   2020.5.13 


宇佐晋一先生 講話

宇佐先生への質問
 令和2年5月10日(日曜)の三省会例会は中止となりましたが、宇佐先生、いかがお過ごしでしょうか。メッセージがございましたらお伝えください。

宇佐晋一先生
緊急事態における心のケアについて
 
 今は全国に緊急事態宣言が出されて、先のことがはっきりしない不安の多い閉塞感のなかで、ひたすらおうちのなかで辛抱の生活を送っていらっしゃることでしょう。身体的な一日中の予防対策はどうしても必要なことで、ゆるがせにはできません。それとともに心のケアが叫ばれて、いかにももっともな方針が示されていますが、心についてはよっぽどその言葉に用心しないとひっかかって逆に悩みが増すことにもなりかねません。

 私の知り合いの精神科医がテレビで「ストレスをめこまないように」と忠告していましたが、それを聞いた人びとが毎日ストレスだらけの生活ですから、すこしでもストレスを減らそうとして自分に工夫をし始めますと、悪いと思うストレスに対抗する心の葛藤が起こり、減りそうにないストレスをなんとかしようとして苦しさが増し、それがまたストレスになって、どうにもならなくなってしまうのです。心の問題には本当はなにも手出しをしなくてもよろしいので、筋の通った正論には耳を貸さないで、心のなり行きどおりにほっておけば、いつもかも あるがままの真実の状態ばかりで、すこしもひっかかることなく、生活して行けます。

 そこで 真にとらわれのない健康な心の状態とは、一切自分を言葉に置きかえずに、その日の困難な情勢のまっ只中で、ビクビク、ハラハラ、ヒヤヒヤ、ドキドキ 戦々兢々せんせんきょうきょうとして 公共生活に骨折り、お互いに協力して、この緊急の多い、かつ非日常の事態に対処していけば満点なのです。
   
   2020.4.30


宇佐晋一先生 講話

宇佐先生への八つの質問

宇佐先生への質問 1
 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関連する、神経症の症状や不安で困っている人々に、宇佐先生からアドバイスがありましたら、お願いいたします。
宇佐晋一先生  
 注意事項をよく守って、油断なく感染の機会を避けて、なるべく自宅で生活することです。
 とくに、
 ① 密閉された部屋での集まり。
 ② 人びとが多く集まるところ。
 ③ 人びとが近くで話したり歌ったりする場所は絶対に行かないこと。


宇佐先生への質問 2
 心とはなんでしょうか。
 外の世界とは論理がちがう、わけがわからないものでしょうか。
 心は、芸術や宗教と似たような、合理的、論理的ではないものでしょうか。
宇佐晋一先生
 自分を対象にして概念化したものです。
 外の世界とは別の種類の論理がはたらく世界です。
 心は芸術や宗教をも概念化しています。合理的、論理的にとらえることをやめれば、芸術や宗教と同じものが現れます。


宇佐先生への質問 3
 「治す前に、全治の状態がいつもそこに現れています」というのが分かりませんので、ご説明をお願いいたします。
宇佐晋一先生
 つねに「そのまま」の状態が全治なので、どこにいても全治が現れているのです。考えを加えたら全治が消えてしまいます。  
 


宇佐先生への質問 4
 「スタートラインが実はゴールだった」とは、どういうことでしょうか。
宇佐晋一先生
 自分や心についての考えを組み立てないので、スタートラインもゴールも全治です。だんだん治ると考えるのは間違いです。
 


宇佐先生への質問 5
 鈴木大拙先生は「アメリカ人はもっと苦しまねばならない」とおっしゃったそうですが、宇佐晋一先生でしたら、日本人に対して、なんとおっしゃいますでしょうか。
宇佐晋一先生
 生き苦しさをなくすことを先にしてはいけません。生き苦しいまま生活に手を出すとよろしい。そのとき全治します。
  


宇佐先生への質問 6
 ①「この苦しい神経症の症状を、そのままほうっておいて、苦しいままでいる」という場合と、
 ②「この苦しい神経症の症状を、もっと苦しんでいく」という場合では、どちらがきれいに治るでしょうか。
宇佐晋一先生
 治そうとせずにいればきれいに治ります。その「苦しい神経症の症状」がそのまま薬です。
 


宇佐先生への質問 7
 神経症は自分を治そうとすると、悪化するのでしょうか。
 神経症は他人を治そうとすると、自分は治ってしまうのでしょうか。
宇佐晋一先生
 治そうとして自分を考えの対象にするところから神経症が始まるのです。
 他人を治そうとすると、自分が考えの対象にならなくなりますから、すぐに全治します。
  


宇佐先生への質問 8
 邪馬台国やまたいこくは、大和(奈良県)にあったのでしょうか。
宇佐晋一先生
 邪馬台国は 大和にあったと考えます。
 2009年に桜井市纏向まきむく学研究センターの調査で見つかった JR巻向駅の南西にある3世紀の、東西一直線に並ぶ建物群が王宮と考えられます。女王卑弥呼ひみこか次の王である台与とよの時代の土器が出ています。
 すこし西の纏向小学校の東に接して石塚古墳から3世紀初頭の土器が出ていますが、その古墳の南側の堀から木製の弧文円板が1975 年に出て、私に復元研究をまかされ、直弧文の一番古いものと考えました。一方岡山倉敷市の楯築たてつき墳丘墓から弧文を彫った石の彫刻が二つ出ていてよく調べると 弧文円板を写しているのです。そうすると弧文円板は楯築の王が2世紀に使ったことになり、それがすんなりと大和に入って石塚古墳(3世紀)に使われたということは 邪馬台国成立のときに 吉備の勢力が大きな役割をしたことが考えられます。
  
   2020.3.10


宇佐晋一先生 講話

宇佐先生への八つの質問

宇佐先生への質問 1
 2020年2月末現在の新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的感染拡大という状況について、宇佐先生はどのように感じておられますでしょうか。
宇佐晋一先生  
 専門家の意見をきいて、先手先手の対策を講じなければなりません。やはり3月は外出をひかえ、必要最小限の買いものですませるべきで、手を洗うこと、消毒、うがい、マスクなど面倒ですが、実行しなければ危いです。
  


宇佐先生への質問 2
 世界中で自然災害が発生しています。世界の気温は高くなり続けています。 有史以来、人間が自然界に対して行ってきた事柄と、人間がこうむる自然災害について、 宇佐先生は、どのように感じておられますでしょうか。
宇佐晋一先生
 人間は災害の経験から、それを予知する方法や対策をたてることができますから、想定内で防災につとめることが大事です。
 想定外の自然災害には対処しきれません。
  


宇佐先生への質問 3
 今後、次の世紀にわたって、神経症を治すことができるのは、薬ではなく宗教でしょうか。
宇佐晋一先生
 宗教がよい働きをするでしょうが、宗教の欠点は診断が抜けているということです。
 やはり精神医学的に十分な診断をした上で、宗教をふまえた森田療法が行われるのが一番よろしい。
  


宇佐先生への質問 4
 外国の方々は、神経症問題をどのようにして解決しておられるのでしょうか。
宇佐晋一先生
 ことばのない「あるがまま」を体得して治られたのです。ことばを使う常識的な考えによる治療では到底とうていうまく行きません。
 森田療法では日本語がわからない外国の人にも効果的なのです。
  


宇佐先生への質問 5
 自分の手足は自分のものではないのでしょうか。
 自分の脳は自分のものではないのでしょうか。
 私は私のものではないのでしょうか。
宇佐晋一先生
 自分の「手足」「脳」「私」は、それを概念化することで悩みを生じます。そこからは、いくら工夫しても治りません。
 自分とか心とか、いうまえに他者意識のなかで他人相手に生活すれば、全治があるばかりです。
  


宇佐先生への質問 6
 「おなかで飲む薬」というのは、どのような薬でしょうか。 
宇佐晋一先生
 口でのまないで効く薬というものです。
 実は現在、抗不安剤を使うのが神経症性障害の治療の主流となっていますが、不安を消すやり方では治らないのです。
 症状をそのまま丸ごとのんでこそ全治するのです。「おなかで飲む薬」は、いいかえれば症状が薬ということと同じで、だれでも今すぐにできることです。 
  


宇佐先生への質問 7
 宇佐先生の講話を聴いて自分を向上させようとするのは脱線でしょうか。
宇佐晋一先生
 脱線ではなく、向上の姿は全治そのものです。どのようにしたら皆さんのお役に立つか工夫し、計画し、実行して、感謝を忘れなければ上等です。
 このように、つねに他者意識のなかで考えていれば、全治しないでいることはできません。
  


宇佐先生への質問 8
 これから生まれてくる世界の子どもたちが、15歳になって悩んだとき、宇佐先生がアドバイスをされるとしたら、どのような言葉をかけておあげになりますでしょうか。
宇佐晋一先生
 アドバイスとしては、
① 悩みはもっともである。
② ことばや考えは自分を救うためには役立たないので、どんなに考え方を変えても悩みはなくならない。
③ ことばや考え(知性)は精神の外部機構がいぶきこう なので、自分について使うのをやめ、外の世界に向かってのみ使うこと。
④ すぐ今しなければならないことはなにかと考え、他人に少しでもお役にたつことに手を出すこと。
⑤ 他人や周囲の組織の恩恵おんけいに感謝していくこと。
  
   2020.2.29


宇佐晋一先生 講話

納得がいらない

 本日のBさんのお話はすばらしいものでした。かつてのBさんを存じ上げている私としましては、よくここまで肝心なものを身につけて来られたなと感心しているところでございます。皆さん方はBさんのお話を聞かれて、理屈の上での、精神医学という枠での全治とは違った、非常に生き生きとした本物がこのように身近なものとしてあることに気づかれたことでしょう。

 本日は遠方から精神科専門の先生が四名もおいでくださっています。なぜ専門の方がここにお越しになるのか皆さん方は不思議にお思いになるかもしれませんが、神経症は決して薬で本治りするものではなく、先生方がご熱心に肝心なものをここで身につけたいと思ってくださることは、とてもありがたいことです。お帰りになっての今後の治療にそれを存分に発揮していただけるものと存じます。先生方の患者さんはどなたもがご自分の状態とはまったく別の所に、にわかに本物のご自分の姿がいつでもどこでも現れますので、治らずにいようとしても治ってしまいます。そこのところは到底、他の一般の精神科の先生ではお考えにならないことです。

 その見事な全治はどのように現れるかと申しますと、理論的に自己意識の内容を論ずることを離れて、もっぱら他者の意識、外の意識の中で大いに工夫、研究をし、森田先生は「もっとハラハラしたまえ」と言われ、前の院長は「どんどんやりなさい」と申したように、理屈を離れて実生活の中で苦心して進まれることをお勧めします。ですから、言葉を使って「これだ」というふうに何かをつかむということはすべて脱線で、全治は言葉では伝達され得ないものですから、どうか私のこの話も、分かる・・・というつかみ方をなさる必要のないことを申し上げておきます。

 それは例会で常に申しておりますとおり、「知らなさ、分からなさ、決められなさ」という特色のある、言葉のない状態でありますから、筋の通ったご理解はもうこれからは必要ありません。世間でよく言われる「心の健康」というのは本物ではありません。

 皆さん方が他の方々を指導する立場になりましたら、Bさんでしたら農業やサッカーですが、とにかく責任を負って指導者として当たられるその苦心が全治そのものです。ですから、言葉では伝えられないという全治の特徴は、伝えることが難しいというよりも伝えること自体が要らない、じかにこのまま、という極めて徹底した状態で、決して難しいものではありません。

 皆さん方は禅のお坊さんが言われることを難しく感じてしまいます。禅のお坊さんの趣旨というものは、分かって答えを出すことをやめさせているのです。ですから解けない、絶対答えの出て来ない問題を出して、それに言葉なしで答えさせるというやり方を取っているのです。そこをお間違いのないようにお願いいたします。

 会場から、Bさんのお話の中にありました、楠木正成くすのきまさしげの、湊川に赴く時のお坊さんとの禅問答について、詳しく話して欲しいというご希望がありました。

 楠木正成は、京都から大阪の方へ行く途中の桜井で息子の正行まさつらと別れます。正行を郷里の河内の方に帰し、父、正成はそれから兵庫の方に戦に向かうという「桜井の駅の別れ」という話があります。それからまもなく高槻に入ります。そこに広厳寺こうごんじというお寺があって、中国から渡来してお寺で指導をしていた明極楚俊みんきそしゅんというお坊さんがいました。そこに楠木正成が立ち寄り、「生死交謝しょうじきょうしゃの時如何」(生死の岐路に立った時にはどのような心構えで行けばよろしいか)と聞いたわけです。そうしますと、明極楚俊の答えは、ピッタリそれを受けたものではなく、「すべからく双頭そうとうを断絶すべし」と答えたのです。双頭は文字通り二つの頭のことで、あれかこれか、生か死かというその考える頭を断絶してしまえ、切ってしまえということで、これはもう、言葉も断絶せよ、というふうに受け取るとよく分かります。

 どっちかにしなさい、迷ってはいけない、一方にしなさいという意味ではなく、もうそれは言葉を取ってしまいなさいというのがまず最初の答えで、それに追加して「一剣いっけん天にってすさまじ」と言ったのです。これは一つの決まり文句で、楠木正成に対して特別に考えた言葉ではなく、他の禅問答でも出て来るのです。生きるか死ぬかというところでこれから湊川に進んでいく正成に対して、そんなことを言っている場合か、と一喝したのです。これが明極楚俊のすばらしいところで、実は前の院長がこの問答を大変好んでおりまして、自分の著書の序文にそれを書いているくらいで、そのことをよく講話で申しておりました。

 それから会場からのお話の中で、「一無位いちむい真人しんにん」という言葉がありました。これは唐の時代の臨済禅師の生活と意見を記録したものの中に出て参ります。偉いとか偉くないとか、悟っているとかいないとか、という位置づけ、説明がまったくない、本物の人ということです。そういうふうに臨済禅師が真実に生きる人の表現をしております。

 われわれの全治もまた、言葉にしないままの、悩んだら悩んだまま、症状があればあるまま、気になればなるまま、それでもう十分でありまして、それを薬で症状をなくそう軽くしようとすると、途端に脱線します。ですからそのまま、このとおりという状況で、実際の生活で他者の意識の方にどんどん進んでいらっしゃればもう立派な全治で、治って治って仕方がないのです。一番肝心なことは、皆さんのご納得がまったく要らないということです。

 皆さん方も今年初詣をなさったかもしれません。世間の人は初詣で、健康、長寿、家内安全や受験合格などの祈願をどうどうとしていますが、森田療法からすればそれは大脱線です。それでは本物の真実に生きる姿は到底やって参りません。

 さらに申し上げるならば、平常心は普段の生活上でのいろいろな悩み、気になることそのものが当てはまるわけでして、決して世間で言われているような、落ち着いた心、平穏な心と限定するものではなく、目指すべき心の状態でもありません。

 これからはご自分の在り方を論じる前に実際の日常生活にどんどん取り組まれればよろしいのです。

   2020.1.12


宇佐晋一先生 講話

ふりをする

 本日体験発表されたAさんはこれまでたくさんの本の編集や記述で地元に大いに貢献され、大変すばらしい本治りの状態をご披露してくださいました。Aさんは具体的な事実というものを本の編纂という成果でよく見せてくださり、全治とはどういうものかという見本として、私が申し上げるまでもなく、お分かりいただけたと思います。

 世間では、心がどうであるかとか、治っているのか治っていないのかということを問題にしていますが、実はそれはどうでもよい議論でありまして、今、こうして骨折って仕事に取り組み、次の仕事の計画を立てているということが大事なのです。  

 ですから、治すためのいかなる努力も実は脱線であるにも関わらず、森田理論を学習して自分をしっかりしたものにしよう、という努力を大勢の人がしておられる姿をこの十月に浜松で行われた日本森田療法学会に出席して認識させてもらいました。

 たとえばある方の発表で、これで治療を終了しました、と治療の経過を話されたのですが、治療が終了しましたら、治す人と治される人との関係はどうなりますか、と私が質問いたしますと、発表者の方は返答にきゅうされました。簡単に申しますと、この今の三省会でも私はAさんに対して治療者ではないのです。立場は医師であるとしましても、Aさんが治される人で私が治す人という間柄はまったくありません。三省会の時間だけは症状の話をしても良いということにしておりますが、実際に症状についての質問をされると、治す人と治される人との関係ができ上ってしまい、その人の状態が後退します。つまり治らなくなるのです。逆にお仕事の話、仕事上の計画の話など、外向きの話をされますと、私との関係は社会人対社会人となり、どなたもが見事にこの機会に全治なさるのです。

 Aさんは森田療法の治療段階の五段階説というものを話題にされましたが、段階というものは何もありません。つまり治った状態というのはどんな心の状態でも構わないのです。前の院長は、治ることもでき、神経症になることもできる、どちらにもなれるというのが本治りです、と申しました。つまり心の状態、あるいは自己意識の内容はまったくどうでもよろしいのです。

 森田神経質の悩みの起こる範囲というものは、自分で見た自分、あるいは他人が見た自分の批評、すなわち自己意識内容だけなのです。ですから、それではない他者意識、外向きの意識の中にどんどん前進なさればそれは何ら問題がなく、瞬間的にどなたもが全治なさるわけです。

 森田先生が「外相整えば内相おのずから整う」とおっしゃっています。この言葉の原典は兼好法師の徒然草第157段に出てくる「外相もしそむかざれば、内証必ず熟す」であると言われています。そして江戸時代の徒然草の注釈書に「これは恵心僧都の常套句じょうとうくなり」と記載されていまして、兼好法師は恵心僧都の言葉をそのまま引き継いだと思われます。

 「健康人のふりをする」というのは、前の院長の非常におもしろい表現でありまして、その「ふり」がしいて言えば心そのものであるのです。兵庫県に北条鉄道という鉄道会社があります。これはNHKテレビで紹介されていた話ですが、ある無人駅でその会社がアルバイトの駅長さんを雇い、その駅長さんが立派な制服を着て列車に敬礼して見送るということを始めたところ、乗降客がどんどん増えて行ったというのです。これはまさにそういう表現の仕方が工夫のしどころであったという良い例です。

 では会場からのご質問にお答えします。

 「森田療法は進化というものはあるのでしょうか」というご質問です。

 森田療法というのは、事実の徹底、つまり、言葉を抜きにしたこの通りの状態の徹底、それでいる、ということで究極のものですから、そこから脱線することはあってもそれを超えて進化するということはありません。今から十数年前に「森田療法を超える」という本が出ましたが、言葉ではこう表現するのでしょうが、実際は自分については言葉を使わないことが究極のものです。そしてどんな考えが浮かんで来ようとも、放っておかれればもう十分なのです。心の中の状態で段階的に治ったかどうかが決まるものではありません。瞬間的に全治いたします。

 次のご質問は、質問者自身が書かれた本の中の一節、「自分なんてないに等しい」というのは森田療法では正しいですか、というものです。

 これは、本来無一物という禅のあり方を表した言葉を自分の方に当てはめているわけですが、あるとかないとかと言いますと、脱線するだけです。

 前の院長が森田療法の極意としてお話したものの中に、長野市にある善光寺の「お戒壇かいだんめぐり」があります。善光寺本堂の地下へ通じる階段を降りて行くと、そこは完全に真っ暗なのです。左手は伸ばしても何も触ることができず、右手だけで手探り、足探りで進んで行くのです。これが本当の全治です、と前の院長が申しておりました。森田理論学習や私の話は真っ暗なところでは全然役に立たないのです。要するに説明的な森田療法ではどうにもならず、じかの体験、真っ暗闇の中をどのように進もうか、という取り組みだけで十分立派な全治なのです。

   2019.11.10


宇佐晋一先生 講話

インスタント

 本日は大変結構なお話をたくさん聞かせていただき感謝いたします。では会場からのご質問にお答えします。

 最初は「宇佐先生は無神論者でしょうか、それとも有神論者でしょうか」というご質問です。

 宗教というのは自己意識に関わるものですが、世の中には絶対必要なものです。他者意識の方は、皆さん方はそれぞれお仕事や勉強すべきことをお持ちで、それに手をつけること自体ですでに救われています。
 心の問題や自分についてのことをいろいろ自分で組み立てて主張なさることがわざわいの元となります。したがって神様がいらっしゃるのかいらっしゃらないかを決めることはまったく無意味で、心とか自分をどのようにも決めないことです。それが本当の宗教です。今のまま、びっくりしたらびっくりしたままが本当の宗教です。ですから、どんどん皆さん方のお仕事、勉強をやり、あらゆる人に対する働きかけをして喜んでもらわれたらよろしいのです。役立つ事を一生懸命なさることです。
 森田療法が心の問題を解決する療法だととらえると、たいへん難しいということになりますが、少しも難しくありません。皆さん方の今のままそのままで、どんな良いと思われる答えを出されようとも答えはそれではないのです。答えは出さないことです。どんどん実際のお仕事、勉強、人を喜ばせることを熱心になされば良いのです。

 次は「仏教の言葉に一瞬にして悟る頓悟とんごとだんだんに悟る漸悟ぜんごがありますが、森田先生は、森田療法は漸悟の方が多いと書かれています。これについて宇佐先生はどう思われますか」というご質問です。

 本来、漸悟というものはあり得ないのです。あるのは頓悟だけです。頓悟しては少し後戻りする、また頓悟しては少し後戻りするということを繰り返していく姿が漸悟、つまりだんだんに治るものだと思いこんで苦心していらっしゃる方は皆思い違いをされているのです。実は常にインスタントなのです。インスタントであることが本当の治った状態です。言い換えますと、本当に治った状態というのは必ずインスタントなのです。

 次は「最近の会社ではストレスでうつになって退職しないよう、メンタルヘルスの面で気をつけなければならないという風潮がありますが、これについて先生のお考えはどうでしょうか」というご質問です。

 メンタルヘルスと一口に言いましても簡単ではありません。まず、客観的障害、つまり精神科の病気と森田神経質というまったく主観的な障害との見分けをつける必要があります。主観的障害というのは虚構きょこうの病気ですから、病気のように思えるにもかかわらず実際には病気ではないのです。治そうとするとますます苦しくなり、場合によってはアトピー症状も悪化することがあります。
 ですから森田神経質の方のメンタルヘルスとしては、ご自分の症状や心のことについては一切何も言わないこと、決めないことです。そして実際の生活の方にすぐ取り組んで、あれこれ目的を持ち責任を重くお持ちになってどんどんやって行くということです。森田先生流に言いますと、仕事を欲張って、熱心に取り組んでそこから離れないようになさればいいわけで、責任の重い方を取って行くということです。大事なことを片っ端からやって行くのです。
 幸い皆さん方は、同時に二つのことを意識することができません。ですから、自分のことから離れよう、自分のことは問題にしないようにしようと考えるのではなく、実生活のことを一生懸命にやっていれば自己意識の方はどうということもなくなってしまうのです。
 古来、仏教のいろいろな宗派では阿弥陀あみださんの世界をいっぱい飾り立て、極楽という世界を描いていますが、禅の方から見ると浄土じょうどは何もないのです。かつて、禅の大家、鈴木大拙先生は「浄土は空っぽですよ」とおっしゃったそうです。このことはまさに森田療法でも言えることで、心の中のことは普通の論理をもって解決することはできない、と森田先生が初めからびしっとおっしゃっています。ただ多くの後継者がそのことに気づかず、だんだん治るものだと思っているのです。禅では漸悟ぜんごということはあり得ず、すべてその場その場での瞬間の頓悟とんごあるのみということをあらためて申し上げておきます。
 これが答えだというものをつかもうとしてはいけません。本物の森田療法というのは言葉にするわけにはいきませんので、学会のように森田理論、学説について研究し合っているところからは決して出てきません。「あるがままとは」と論じると少しもあるがままではなく、説明に終わってしまいます。
 本当は皆さん方ご自身がすべて森田療法の全治者でいらっしゃって、どんどんこれからの生活に進んでいらっしゃるというそれだけで良いのです。ですから、自分を考えに置き換えないメンタルヘルスという本物の森田療法を会社にも取り入れてくださればよろしいと思います。

   2019.9.8


宇佐晋一先生 講話

聞かれても答えない

 本日は皆様方の日頃の精進ぶりの実際をお聞かせいただきましてありがとうございました。こういう内容は他の森田療法の集まりでは見られない、この会の特色でございます。その特色とは真実をきわめるという大きな目標があることです。しかしこの会では心の真実を言葉に置き換えることはいたしません。置き換えるとさっそく脱線するのが明らかで、そこのところが他の会とは異なるところです。ですから、森田先生がこうおっしゃいました、ということにさえもとらわれることのない皆さま方は全治し、十分な真実の姿でお帰りになることができるのです。ただし一秒でも二秒でもそれを論じて時間をかけますと、さっそく脱線してしまいます。

 理論学習に熱心な場合、それを勉強だけにしておけばよろしいのです。ですから、治すことに役立てようとしてうまくいかないという人達にはそれを早く教えてあげたい、と皆さん方は思われているだろうと私は推察します。

 NHKのテレビで「あの人に会いたい」という番組があります。そこにもう亡くなって十年になりますが、文化庁長官だった河合隼雄先生の元気な頃の姿が描かれていました。この方は元は数学者でしたが、臨床心理学へ転向し、その研究を行い論文を書かれたのが三聖病院での私どもとの仕事でした。その番組の中で河合先生は臨床心理学の先生らしく、アドバイスを求めに来た人の言うことを聞くということが何よりも大事だと繰り返しおっしゃっていました。でも、もし皆さん方がそういう立場にあった時はそれに対して決してお答えになってはいけないのです。前の院長は聞くということさえもしませんでした。聞かれても答えないというはっきりしたところを皆さん方がお見せになれば、心理学者よりも早く治ります。そして治った瞬間にその治療者と患者との関係が消えるのです。三省会では皆さん方と見学会に行きますが、まったく患者さんと医師との関係がありません。そういうところもこの会の特色でございます。

 では会場からのご質問です。

 十年ほど前に三聖病院に入院されていた方からです。「退院の時に短冊たんざくに、吾が心は秋月に似たり、という言葉を書いていただきました。先生はどのような思いを込めて書かれたのかお教えください」というご質問です。

 実は前の院長がちょうど戦争が終わる頃に、天龍寺の管長をしていらっしゃった方が書かれた「吾が心は秋月に似たり」の掛け軸を掛けておりました。唐の時代に寒山かんざんという名の、本物の禅僧ではなくいわば風来坊のような人がいて、お寺から離れた山奥に住み、そこから出てきては寺の食事をもらったりしており、上手に詩を書いていた、という伝説上の人物がいます。寒山と拾得じっとくの二人がいたように伝えられていますが、実は同一人物で、寒山詩というものがまとめて本になって残っていて、そしてあとから見つかった詩を拾い集めて次の詩集にまとめ上げたというものを、拾い得たる詩集、拾得集としたために、寒山の詩集と拾得の詩集という二人の人物がいたように思われたからだという説があります。
 「私の心は秋の月のようだ、こんなに澄み切っている、これを何にたとえたらいいだろうか、とてもたとえようがない」と現代語訳される詩ですが、宋の時代に入りますと、「比べることができないと言っていながら、自分の心は秋の月に似ているというのは矛盾しているのではないか」とさっそく反論が出たというほどの詩なのです。本当のことを言いますと、たとえ話をしてはいけないわけで、反論の方がもっともなことなのです。何かお役に立つかもしれないと思いお話申し上げました。

 次はパニック障害の方からです。パニック障害のせいで電車やバスに乗ることができません。薬を飲んで少しずつ乗れるようにして行くのがいいのでしょうか、というご質問です。

 前の院長の口ぶりをまねて申しますと「こわごわ乗りなさい」です。仕事とかでどうしても名古屋とか東京に行かなければならないなら、冷や汗をかく思いで乗って行くわけです。ところがここに森田理論を持ち込んで、とやかく心の在り方を良い状態にしてから乗ろうというのはやめるべきです。

 次は「今日はAさんの発表を聞いて、私も頑張ろうと刺激を受けました」という感想です。

 このような感想は本当にありがたいです。外へ向かってさっさとやろう、というふうに刺激を受けたことが全治そのものです。つまり、それについて論評をしたりされたりというところでは治らないのです。
 私は昨年の森田療法学会に出席した際に理論学習の会の方々が体験談を発表されるのを聞きましたが、こういうふうに考えて治りましたというふうに、どうしても意味づけをされているのです。考えで治そうとされているのです。ところが考えは必要ではなく、その言葉を出す前のところで治っているのです。
 皆さん方はご自身が主体なのですが、ご自分の心や症状を考えて客体化しますと、主と客に分かれてしまいます。ところが実際は主と客に分かれる前のところで治るのです。これを主客未分しゅきゃくみぶんという言葉で表現することができます。つまり、自分はこうだ、ああだ、という前のところで実生活上のやるべきことをやることです。それがどんなに困難なことでもどんなに嫌なことであってもです。

 次の方は、世間一般的には、人は思春期になると自我じがが目覚める、あるいは自我が育ってくるなどと言いますが、この場合の自我とは自分で見た自分、すなわち偽物なのでしょうか、というご質問です。

 目覚めたと思っている自我じがは、私どもからすれば、自分を概念化する、真実ではない、つまり森田療法的に言えば、治らないことの始まりです。

 次は、以前私が講話の中で、社会の中でAという意見とBという意見に分かれてしまった時は、その対立はそのままにして、今お互いにすべきことに向かえばよろしいという趣旨のことを言っていたが、それは本当でしょうか、というご質問です。

 実際に意見は様々で一致しないことが常のことですが、とりあえず他の方にお役に立つ事へ向かっての十分な働きが大事です。それは問題解決、あるいはその場の状況を読み取る学習です。常に外のことを相手にし苦心している状態で、自分のことについては言葉を使わない時はもう早速さっそく全治が訪れます。皆さん方は昨日ずっと治っていらっしゃって今日ここでまた全治するのかと思われるでしょうが、全治というのは常にその場、その場のことですから、皆さん方は間違いなく全治してお帰りになります。

   2019.7.14

宇佐晋一先生 講話

おのずから

 本日発表されたBさんは三聖病院に入院されて治ったのですが、どこがどう作用して治られたかと言いますと、入院中のまったく言葉のない環境で言われた通りのことを実行なさったという、そこが大きなきっかけになったわけです。ここのところが他の療法にはない宗教性です。

 会場から大阪のお寺の住職さんが結構なお話をされ、自然即時入必定(じねんそくじにゅうひつじょう)という、正信偈の中の一句をお話くださいました。この自然じねんというその「おのずから」という働きが宗教性なのです。森田療法の中にそれが脈々と流れておりまして、いつでもどこでも皆さん方が全治なさるのはこの自然じねんということからなのです。 森田療法のみならず日本の精神医学としては非常に大事な宝物だということです。  

 思い出すのは、その住職さんが入院された昭和三十三、四年頃でしょうか、たいへん良い体験をされましたので、私からお願いして、体験談を詳しく書いていただいて、私は私なりに文章を書きまして、二人で三省会報の臨時特別号を出させていただきました。私はその時、「悩みをきわめるもの」という題名で書かせてもらいました。この悩みをどう解決するかではなく、悩みに徹底し、その苦しみの真っ只中にいるということを書きました。  

 これが森田療法の中に流れる宗教性そのものであります。今この瞬間、その不安、気になること、あるいはどうにかならないかと悩んでいる事柄全部をひっくるめて持ったまま、今すべき仕事をなさり、他の方への奉仕活動をなさり、そして世間からの恩恵に対して十分感謝なさるなら、その瞬間が全治で、森田療法ほど早く治る精神療法はないのです。  

 薬など、神経症性障害の治療としてはまったく見当違いそのものでありますから、どうか効果のある新薬の出現を願われるのではなく、まさに症状を薬として飲んで、どんどん実生活に励まれることをお勧めします。  

 「症状が薬」というふうに申し上げましたが、実を言うと、これも不徹底でありまして、薬というものを媒体ばいたいにして治るのではなく、症状そのものが全治なのです。「症状が薬」と申しましたのは便宜上森田療法らしく表現しただけで、症状も何もかもすべて持ったままが皆さん方の間違いない、ただ今の全治であります。  

 では会場からのご質問にお答えします。
 昭和五十七年と平成二年に診察を受けられた方からですが、「少しも心が成長していませんが、どうすれば成長するのでしょうか」というご質問です。

 心は成長しなければならないかと言いますと、決してそうではありません。皆さん方の意識としては、どういうふうに成長して行くかではなく、今、ぶっつけにこの通りというだけで十分なのです。ご自分の状態を言葉を使って描き出したり、他人が自分をどう見ているかということを言葉で描き出しますと、神経症性障害の領域になります。心の中に言葉を持ち込みさえしなければ、実に簡単にこの場で見事に全治なさるのです。段階的に治るのではなく、皆さん方が社会生活上、一歩一歩、周囲の状況に応じて着実に歩んで行かれること自体が見事な全治なのです。
 森田先生が、君はもっとハラハラしたまえ、とおっしゃったというのは、まさにこのことを上手に表現されたもので、周囲に対して緊張を高めてドキドキしながら、さあ、今、何をしなければならないかを常に考えているということで十分なのです。
 心の成長というのは皆さん方の工夫や研究によるものではなく、心が成長しようが、しまいがまったくほったらかしで、実際のお仕事、勉強に欲張っていただければ結構なのです。

 次は「森田理論を学習してそれを実践して行く方法は間違っているのでしょうか」というご質問です。

 私は昨年秋に東京で開催された森田療法学会に出席しましたが、多くの演者が治し方に熱心な発表をされていました。私は森田理論を学ぶことはいけないとか、本来の森田療法から外れているとは決して言ってはおりません。ただ、もっと良くなられます、あるいは理論を学習しているだけで治らないと言っている方がもっと良くなられます、と発表ごとに助言させていただきました。
 皆さん方も森田理論を学問として勉強することは大いに結構なことです。精神医学全般も勉強なさればなおよろしいかと思います。しかし、それだけでは森田療法の核心が抜けてしまいます。つまりその宗教性が抜けてしまいます。自然(じねん)、おのずからというところで実は森田療法がとても生きて来るのです。おのずからという意識で、即座に皆さん方は治っていらっしゃるのです。ですから、昨今、世間で薬物療法が標準的な治療と見なされていることはまったく恥ずべきことと思います。

 本日は遠方からもたくさんの方が出席してくださり、その中に精神科の専門の先生もいらっしゃって大変うれしいことでございます。精神科の医師として、患者さんに、この神経症が主観的障害であることを見抜いてあげるということは、他の人にはできないことです。つまり、病気ではないにも関わらず自分が気になって、これではいけないと思い込み、治そうとして病感が増しているだけのことを見抜いてあげるというサービスをなさり、あとは実生活上の指導を次々になされば良いのです。

 一般の人にとって神経症は本当の病気に思えて仕方がありません。あらゆる病気に似た症状が次々に起こりますから、もう片っ端から治したい、あるいは予防したいということで一生懸命になられています。ですから精神科の先生が、それはまったく主観的な症状で、本当の病気ではないことをはっきり示してあげ、薬やその他の何らかの方法で症状がなくなりますよ、と言うのではなく、実生活にどんどん追い詰めてあげていただきたいのです。

 せっぱつまった、というのは治療としてはまったくすごいものです。自分のことはほったらかしのまま仕方なしに進んで行くという、森田療法の極意を皆さん方がおつかみになり、もう自分のことは自然じねんにほったらかしで、四方八方に気配りをして他の人のために骨折るという、社会性に富んだ生活ぶりをどんどん推し進めて行っていただきたいと願うばかりです。

   2019.5.12


宇佐晋一先生 講話

絶言絶慮

 本日は良いお話を実にたくさんおうかがいしまして、皆さん方のご精進のほどがよく分かりました。では会場からのご質問にお答えします。
 まず、すばるクリニックの伊丹先生からです。

 末期のがん患者さんが担当医から死が近いと告知され、恐怖にさいなまれていますが、どのように対処すればよいでしょうか、というご質問です。

 私は昨年の秋に日本森田療法学会に出席し、そこで十数名のがん患者さんを治療した森田療法専門の方の発表を聞きました。その方はがん患者さんに、がんと仲良くするという治療を森田療法として行っている、と発表されたのです。私はそこで手を挙げて次のように申しました。その本人ががんと仲良くするというのは、対峙たいじした間柄ができることになるわけで、それは森田療法ではまったくあり得ないことです。全治には間柄というものはないのです。それは一見賢い治療の持って行き方のように思えますが、実は森田療法からすればおかしいのです。
 がんによって死が近いと告知されましたら、ぶっつけの不安のまま、それ以上何か言葉で心の持ち方を変える必要はまったくないということを話しました。

 次のご質問です。 
 私は対人恐怖があり、人と話をした後に、きっと嫌われてしまった、あんな話をしなければ良かったと後悔し、そのことが頭から離れなくなります。頭から離れないまま仕事に取り組んでもまた頭から離れなくなります。どうすれば良いでしょうか、というものです。

 これについては、その一瞬に治ることが間違いないのです。頭から離さないでおくわけです。要するに自分にとって賢いと思われる対処を一切しないことです。自分あるいは心、症状は放ったまま、外の状況の変化に敏感に対処していらっしゃる、そのままで満点です。森田療法は時間をかけていてはいけません。一秒でも二秒でもかけていては脱線します。あるがままとは何かと考える時間だけでもいけません。   

 次のご質問です。
 不安は放っておくというのは分かりましたが、現実的に対応しなければならない不安が含まれていたらと思うと、すべての不安を放っておいて良いのでしょうか、というものです。 

 外の問題つまり生活上、学問上の問題について質問を受けた場合は的確に回答しなければなりません。しかし、先ほどから問題にしているのは神経症や心の問題ですから、それに対して賢そうな答えを絶対持ち出そうとなさらないことです。はっきり言いますと、心はどうでも良いという事です。ご家庭のこと、お仕事上のこと、それを緻密ちみつにいろいろ考えながら対処して研究的に進められたらよろしいわけです。
 外向きの仕事というのは大きく二つに分けますと、一つは外向きに次々と問題に取り組んで対処して行くこと、つまり問題解決への取り組み、知的作業です。もう一つは外の問題を次々吸収する、勉強する、ニュースを聞く、そして人がしていることに対する協力です。自分なりに研究し協力することです。
 外のことを対象にした問題については、学問や今までに得た知識を大いに発揮して解決に進まれれば良いわけです。ところが森田療法で問題になりますのは、常に自己意識、つまり自分で見た自分という意識、あるいは他人が自分についてどう見ているか、という意識です。そこには絶対、自分の方から言葉や論理を持ち込んではいけません。
 禅の言葉で「絶言絶慮ぜつごんぜつりょ 処として通ぜざる無し」というものがあります。禅宗の三祖、鑑智禅師が信心に関する究極の言葉として信心銘に残したものです。これは前の院長がしていたことに通じるものです。
 つまり皆さん方は今すぐ、健康人として、あるいは健康人のふりをして、今しなければならない事柄を、大事な方から順にどんどん取り組んでいらっしゃるという、それだけでその時の全治が、治そうとしないまま立派に実現するのです。

   2019.3.10


宇佐晋一先生 講話

いきなり治る

 今日はBさんの大変結構なお話を始めとして、皆さんの日頃のご精進の実際をお知らせくださったことに対して、大変すばらしくうれしく存じます。
 Bさんが詩をお作りになって読んでくださったのは大変ありがたいことでした。Bさんは詩集を出されていて、普通の言い方をすれば詩人でいらっしゃいますが、詩人という職業があるわけではありません。歌人とか俳人とか申しまして、いかにもそういう職業の人であると思えるのですが、実際はBさんのように、しっかりと実際のお仕事を持って社会に尽くしておられ、それに加えて詩をお作りになるということは、生活、生きることの進展した状態でありまして、その作品はBさんのお人柄のさらに大きく発展した結構な状態と申し上げてよろしいです。

 では会場からのご質問にお答えいたします。

 私が言っております不問療法の不問とはどういうことですか、というご質問です。

 不問とはまさに宗教性そのものでありまして、言葉で自ら問うということがありません。言い換えますと、自分について、そして人が自分をどう考えているかについて、そこに考えによる答えを一切出さないというあり方です。
 神経症の範囲、つまり神経症がどういったところで成り立っているかということを厳密に見た場合、今日も皆さん方がお使いになっている自己意識というものが大変行き届いた表現であります。自分で見た自分だけでなく、他人が自分のことをどう見ているかというこの自己意識が神経症の範囲であることは間違いありません。それ以外のものは外、人、世間のことですから、他者意識ということです。
 ですから森田療法についても、その他者意識でいくら学習なさってもかまわないのですが、それを治療に使おうとしますと、自己意識の中をいじくることになりますので、大脱線です。そこのところに多くの方が気づいておられなくて非常に残念に存じております。そこで先程申しましたように、自己意識の範囲の中に言葉を絶対持ち込まないことが不問なのです。
 他人に対して緊張する、人から嫌われるのではないかという心配、不安が起こって来るというのは、言葉になる前のそういう感情的なものとしては、いくらでもあり得るわけです。ところがそれを明確に言葉で概念化、つまり考えに組み立て直すところから引っかかるわけです。「あるがまま」というのは自己概念というものをまったく組み立てない状態でありまして、これが宗教性に通じる独特のものなのです。

 次のご質問は、お孫さんが今十六歳で、中学二年生の頃から不登校気味であるとのことです。その理由は、お孫さんが、周りの人からどう思われているかが気になって仕方がないことだそうです。親御さん達はその症状を治そうといろいろ工夫しておられ、本人さんも気にしないでおこう、あるいは平気になろうなどと随分ずいぶん苦心しているようですが、答えは非常にはっきりしていて、気になることは気になりっぱなしということです。気になって辛くてとても耐えられないと感じながら、次の勉強へすばやく取りかかるように指導なされば、すぐその場で治ってしまわれます。
 治すという手間をはぶいて治すことができるのがこの療法の大きな強みです。つまり、次の実行、次の生活、仕事、勉強に手をつけること自体が治った瞬間なのです。前の院長、宇佐玄雄は、すぐ健康人のふりをしなさいと言いました。それが治った状態そのもので、世間では神経症はだんだん治ると考えられていますが、それはまったく当たってはいないのです。あくまでもいきなり治るのです。日常生活を進めて行くその姿が全治ですから、心の内容の良し悪しは一切問わないのです。

 次のご質問は、神経症におちいった原因は、気持ちの良い快楽を求めたことによるのでしょうか、というものです。

 楽な感じ、あるいは幸福感を求めるということは神経症のさっそくの成立を招くことになるのです。快楽というのは、沸き起こる感情として、たとえば、うまく行ったなあという思いを感じましたら、そういう感情を結果的に味わっていらっしゃるだけでよろしいのです。求めてそれを得ようとやり繰りするといけないのです。治ることを求めることもだめです。自信を得ようとするのはなおさらいけません。自分に関することで、もっと付け足そう、もっと豊かにしようと求めることは、脱線するもとになります。
 では、森田療法で快楽の問題をどのように解決すれば良いかと申しますと、これが自分だというふうに言葉を自分に持ち込まないことです。つまり、快楽とは限らない、日常で必要な事柄にただ取り組むことです。即座にそれをなさることです。
 森田正馬先生は、道が二つあった場合、困難な方を選びなさいと言われ、前院長の宇佐玄雄は鉛筆が倒れた方を選びなさいと申しました。肝心なのは、とりあえずすぐやるということです。かつて大学の法学部の教授が三聖病院に入院されていて、先生が部屋でじっと考え込んでおられた時に、前院長がそれを見かけて、足ででもよろしいからちょっと布団のゆが んでいるのを直しなさい、と言ったところ、その先生はハッと気づかれたということです。足で布団を直すのは行儀が悪いですが、ちょっと何かすぐ用事をすること自体が大事なのです。

 次のご質問は、宗教が存在しないと自分にだまされると私が申しましたが、それはどういう意味でしょうか、とらわれるということでしょうか、というものです。

 まさにそうなんですが 宗教がその場を見事に解決する、役に立つのは概念で決めない。つまり肝心な中心は決められないということです。それを「知らなさ、分からなさ」と表現してもよろしいのです。心の問題に関しては一切言葉で決めないことです。自分で考えた自分のことを本当だと決めないことです。思いっぱなしで外の状況に応じた肝心なことをして行くという、それでもうとらわれから見事に離れることができます。宗教がないとどうしても自分の考えに答えを出してしまいます。自分の考えを確かなものと思ってしまいます。そこにとらわれが生じます。自分の心の中を言葉で組み立てず、どんどん必要な仕事をされれば良いわけです。

   2019.1.13


宇佐晋一先生 講話

分からなさ

 今日は皆さん方のたいへん良い体験を聞かせていただき、ありがとうございました。症状があれば治るのは絶対間違いありません。しかしそこに人間が介在かいざいしますと、たとえば私ですが、そうしますと、治し方を聞きたくなり、私が何かお返事しますと、それがお役に立つような感じになりますから、非常に具合が悪いのです。介在するのが人間ではなく阿弥陀あみださんでしたら、阿弥陀あみださんがどうお考えになっておられるかが分かりませんから、さっそく治ってしまう、救われてしまうのです。それが宗教の見事さなのです。

 その素晴らしい治り方を今日、ここで皆さん方が体験したいと思われるのでしたら、私を間にはさまずに実際のこの場の他の皆様にお役に立ついろいろなことを工夫していかれる、そして発言されれば、それで立派な全治が現れるわけです。ぶっつけに今この瞬間にどなたもが治った人としての行動をお始めになるというそこに、見事な本物の全治が現れるということです。

 昭和二十五、六年のことですが、京都大学では毎年、哲学者の西田幾多郎博士をしのぶ会を開いておりました。そこへ禅の大家、鈴木大拙先生が来られて、「西田君と私」という講演をされました。難解な西田哲学を鈴木先生がどう説明されるのか、これは絶対に聞き逃せないと思い私は耳を澄ませておりますと、「西田君の哲学はこの頃流行らないそうだが」と前置きされ、「あの絶対矛盾的自己同一というのは、お経のようにゼッタイムジュンテキジコドウイツと唱えるべきなのです」とおっしゃいました。これにはあっけにとられましたが、今にして考えますとすばらしい名言でありまして、それは西田哲学のあの難解なものが全部解けると言っていいほどのものなのです。

 これは森田療法でも同じことで、前の院長、宇佐玄雄が「理屈抜きですよ」とはっきり言っておりました。それは言葉もなく、論理もなく、何かがあるのではないということです。それでどんどん仕事しなさいと言っているだけのことなのです。

 では会場からのご質問にお答えします。

 「不安になった時に目の前の仕事を探して掃除や片付けをすると、そちらに意識が向き、気がついたら不安を忘れていることがあります。これで全治なのでしょうか」というご質問です。

 人間の意識というものは二つのことを同時に意識できないという決定的な事実がありますので、皆さん方がご自分の症状を問題にしていらっしゃる時は外のことが考えられないのです。逆に外のことに手を出して何とか工夫してやり始めましたら、途端に今度はご自分の長く苦しまれた症状が消えているのです。これが見事な意識の転換で、これは本当に立派な治り方なのです。自分の症状をどう持って行けば治るかという、症状対策、工夫というものはすべて具合が悪いのです。

 次は「日常の生活や仕事に没頭して生きる姿は多くの世間一般の人にあてはまりますが、そういう人と、悟っている人とは違いがあるのでしょうか」というご質問です。

 仕事に没頭しておれば立派なものですが、自分というものを考え出しますと、例えば心について論じたり、スポーツ選手がインタビューで「自信がつきました、強い心を持って頑張らなければ」と答えるのを聞きますと、気の毒なくらい心の問題をうまく卒業できていないのだなと思います。ところが悟った人である皆さん方は、もう今日以降ご自分のこと、心の問題について何もおっしゃる必要がありません。それは大変な違いです。その悟りというのは、自分というものを描かない、自分をどうするこうするという工夫がまったくない状態です。
 昭和三十六年に東京で日米精神医学会議が開かれた時に、鈴木大拙先生が特別講演で「悩みというものは人間が自分を概念化するところから起こる」ということをはっきりとおっしゃっていました。まったくその通りで、概念を組み立てる言葉や論理というものを自分に持ち込まなければ、もう絶対に悩みは起こりませんし、神経症はたちどころに治ってしまいます。

 次は「私にはパニック障害があり、薬をお守りとして常に持たなければパニック発作が恐ろしくてならないですが」というご質問です。

 パニック発作は非常に怖いものです。その恐ろしさは他人には理解してもらえません。それがどのように治るかと言いますと、ご自分が安心を求めること、つまり困った状態から早く抜け出ようとする、その治す工夫というものを抜きにして、実際その場でしなければならないことに調子を合わせていくのです。ですから、電車の中でパニック発作が起こった場合は、その場で周りの人に迷惑をかけないよう、ただじっとしているというだけのことです。

 次は「選択に迷ったら困難な方を選びなさいという指針は森田療法上どのような効果が期待できますか」というご質問です。

 このことは本には載っていないのですが、森田先生の次の教授でした高良武久先生が、福岡で国際森田療法学会があった時の懇親会の席で「今回はよほど出席をやめておこうかと思いましたが、道が二つあった場合は困難な方を選びなさいという師の教えにそむくことができませんでした」とおっしゃったのです。このことにはどういう良いことがあるかと言いますと、必要な実生活にすぐ着手することができるということです。言い換えますと、その瞬間に全治しているということです。困難な場面を皆さん方の全治の場所とされれば間違いないのです。

 次は「あるがままとは自分で認識する前のもの、自分で自分を見る前のもの、というのは真実ですか」というご質問です。

 まさにその通りです。西田幾多郎博士の著書、「善の研究」の序文に、純粋経験をもとにして哲学を組み立てよう、という趣旨が書かれてあります。言葉で自分を説明した途端に自己意識がはっきり組み立てられてしまいますから具合が悪いのです。純粋経験というのは、皆さん方がまだ赤ん坊の時のような、言葉を習得する前の意識であります。

 次は「私は強迫性障害なのですが、十年ほど前に三聖病院にしばらく通院していて、宇佐先生がよく、知らなさ、分からなさ、決められなさ、と言われていましたが、そのことがよく分かりません」というご質問です。

 これは「よく分かりません」というのをやめましたらすぐに治ります。何かご助言いただければとおっしゃって、私が何か分かるお話をしますと治りません。全治というのは常にぶっつけでいきなりなものですから、最初は分かりにくいと思われるのです。

   2018.11.11


宇佐晋一先生 講話

非伝達性

 それでは皆さん方にはお礼を申し上げるとともに、気がついたいろいろなことを全般にわたってお答えしたいと存じます。

 まず、伊丹仁朗先生には、日本森田療法学会の理事として、先般高知市に出向かれ、森田先生の没後八十年墓前祭にてご講演をいただきまして、誠にありがとうございました。その詳細を本日聞かせていただき、感謝に堪えません。感謝と申しましたが、これは伊丹先生に対する感謝であると同時に、集まられた皆さん方の森田先生への報恩、感謝の念の表われでもありまして、私の気持ちもそこにつながるわけです。

 先日東京で開催されました第三十六回日本森田療法学会に私も出席いたしましたが、今回の学会の会長さんは女性の先生で、女性患者さん達の苦悩や回復過程を視点においた研究をされて来られ、学会のテーマとして「やわらかに生きる」とされました。それはそれで結構だったのですが、会長講演の中で「自分らしい生き方の探索」という言葉を使われました。この「自分らしく」というのは自己意識を概念化していますから、それでは治らないのです。

 「あるがまま」というのは、言葉によって規制されない意識ですから、簡単に言えば言葉を使わなければすぐに実現できます。実に簡単であるだけでなく、それは瞬間的で、たとえば今日皆さん方とお話しているこの場で成り立ちます。皆さん方がどこにいらっしゃってもその場で成り立つのです。あるがままというその自己意識内容はご自分ではまったく分からない、知ったことではないというふうに、放ったままなのです。非連続的で、そして言葉で人に伝えることができない非伝達性を持っているのです。伝達不可能なのです。ですから森田理論学習では神経症を治すことはできないのです。自己意識内容を外からの言葉で変えることはできないからです。学会で発表を聞かせていただいて、そのことを分かっておられない方が実に多いと感じました。

 では会場からのご質問にお答えします。

 強迫性障害の方が何回も確認しないと気が済まない状態を、確認する回数を決めておけばうまく行くのでは、というご質問です。

 心の問題、精神内界、自己意識内に数字を持ち込みますと必ず失敗します。確認回数を決めればうまく行きそうなものですが、数字を自己意識内に持ち込まずに、ただひたすら他者意識、つまり外向きの意識に人間の知性を使って行くということです。
 自分の中に向けて知的な能力を発揮しようとすると、それはことごとく虚構きょこうに終わってしまい、森田先生はこれをよく屁理屈と批評されたものです。外への仕事、精神作業としての様々な勉強をすることは良いことです。例えば、森田理論を学習するのは結構で、森田療法学会で論争することも、それ自体は良いわけですが、それを自己意識内へ持ち込んで、自分の説明、自分の生活規範にしようとするともういけません。
 それで、強迫障害の方、森田神経質の方にとって確認回数を決めるなどの対策をとらないでいるというのは、自己意識内は中途半端で不完全な状態が残るのですが、そういう中途半端な感じのまま、すぐ仕事上の事柄に取り組むということです。ですからいつも不安、確かでない感じのまま、外の事柄への取り組みから始めて行き、他の皆さん方に十分役立つような仕事をするわけです。言い換えますと、自己意識を完全に放置しますから自己犠牲のきわみであります。
 自己意識の中で森田療法を働かせようとすると途端に失敗します。努力の対象は必ず外向きであって、さっと、精神作業、勉強すればそれは治った状態であるわけです。その、すぐ治った状態であることを多くの方には分からないのです。ですから、だんだん長い時間がかかって治るものとばかり思っておられます。現在の多くの治療者もすぐ治るはずがないと思っておられます。しかし森田先生はこれは病気ではないと言われ、病気ではないということは、すぐに健康人としての生活を始めるのが一番賢明なわけです。ですから、先ほどの強迫性障害の方は自分の気持ちは中途半端で納得しないまま、まだまだ不安なまま仕事なり、勉強なり、人のためになる、目的が外に向いたその場のことをとりあえず始めたところがもう全治なのです。

 では次のご質問です。 

 仕事上、論理的、概念的な表現を要する発表、企画をしなければならない時、内向きに、心に向いている思考をどのように外向きに切り替えれば良いのでしょうか、というご質問です。

 これについては、その場その場が立派な全治でありますから、内向きの思考からの切り替えは一切必要がありません。内向きの思考は完全に放ったまま、自分の知ったことではないというのが、あるがままの表われです。切り替えという工夫はまったく要りません。次に何をするか、どう発表するか、困ったな、という、もうそれで治っているということです。

   2018.9.9


宇佐晋一先生 講話

人間にはなぜ宗教が必要なのか

 本日はどなた様も日常でのすばらしい精進の姿をご披露くださいまして、誠にありがとうございました。三省会にこうして参加してくださること自体が、飛躍的な真実への申し分のない徹底ということがこの場で実現します。

 皆さん方の中から「人間にはなぜ宗教が必要なのでしょうか」という非常に重要な点をお尋ねいただきましたので、これについてお話いたします。これは、宗教がなかったならどんなに困ったことが起こるかというふうにご質問を置き換えてもよろしいわけです。

 宗教がないと、自分というものについての考えを最初から信じてしまう傾向があります。言い換えますと、自分にだまされるというようなことです。そこからいろいろな気分の良くなることだけを求めて嫌なものを避けるという、選り好みが始まります。ここからは、その先どう考えを持って解決しようとしても、そこにはいろんな自分本位の考え、結論が出て、その方法探しに明け暮れすることになります。そこからは森田療法の本当の全治は出て来ないのです。

 では、どういうことで皆さん方がうまく治っていらっしゃるのかと言いますと、自己意識(自分で見た自分、あるいは他人が自分をどう見ているかという意識)に対してのみ森田療法のあるがままをしっかり生かして行かれれば、それでよろしいわけです。すなわち、自分、心というものは完全に放ったまま、心はどうであろうとまったく自由で良し悪しがないのです。ですから、心の持ち方というものはもともとありません。自分を言葉で決める必要がありません。

 これが宗教の現われでありまして、宗教がないと脱線してしまい、自分の考えにとらわれ、その良し悪しを思案してひっかかってしまうのです。結局は安心を求め、治そうとする神経症の状態におちいってしまうのです。

 先日、皆さん方も熱狂されたロシアでのサッカーワールドカップの試合におきまして、テレビで批評家がいろいろコメントする内容に、精神面に話が行ってしまうということがよくありました。日本ではそういうことがありがちですが、その代表的な一つが、いかに平常心を保つかというものです。そういう心の安定が試合を左右するように言っている人がたくさんおりますが、これは大きな誤解です。平常心というのは、どんな心でもすべてありきたり、あるいはその場にあり合わせの状態を言いますので、特定の安定した心という意味ではありません。

 森田療法から申しますと、心の持ち方というものはありませんし、良し悪しもありません。どんな心でもそのままで、心の状態に関係なしに試合に一生懸命になって進めば、それで満点であったわけです。つまり心が決められていない、どうでもよろしいということが宗教の現われであり、皆さん方が生きる上で宗教が不可欠であることそのものであります。それはもう一切、自分、心などに言葉を使わなければ、この場でいきなり成り立ちます。

 一方、他者意識の方では、あれかこれかと必死になって考え、悩みながら、他の方々に少しでも役立つ事、あるいは世の中に幸せをもたらす事柄に向かって骨を折るということが精進でありまして、それは決して心がけの問題ではありません。どんどん実生活に取り組んで行くという簡単なことで、この療法の趣旨である「あるがまま」が自己意識の中に自ずと生きて来るわけです。

 そこの所を間違って「あるがまま」を求めないことです。自分についてはどうなろうと知ったことではない、自分の方からは何も求めて行かない、自分というものはこうだということを持ち出さないということです。

 浄土宗や浄土真宗では阿弥陀如来にすっかりお任せします。「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」の意味を解釈する必要はまったくありません。他者意識のことだけに気を配って、他の方々のために努力なさるということで満点です。自分にだまされることなく、自分が言わば主人公になってその場、その場の状況を判断して物事に対処していくことです。物事の選択に迷った時には、前の院長は、立てた鉛筆が倒れた方に進みなさいと言ったぐらいで、迷った所でもたもたせずにどんどんさっと目の前のものにとりあえず手を出して行くというところが、全治のいつわらない見事な姿であるわけです。

 いきなり実生活での状況、その場、その場の複雑な環境の変化にすぐに応じて行くのです。それはつまり自分を客体化しないということです。自分で自分を治す対象にしないことです。考える対象は心ではなく、いつも外に、目の前にあるのです。

 森田療法というのはもちろん宗教ではなく、森田神経質の方に対する特殊療法ですが、他の治療法にはない、自分を決めない、自分を知ろうとしないというあるがままの特色は、まさに宗教そのもの、あるいは禅の現われと言ってよろしいのです。

 本物の森田療法を日常でいつも実現しようとしましたら、前の院長が申しておりましたが、机の上を見渡して行って、目についたものや手に触ったものが、皆さん方にとってなくてはならないもの、たとえばお茶碗にしろボールペンにしろ紙にしても、よくもこれほど便利なものを発明し作ってくれたものだと感謝することです。

   2018.7.8


宇佐晋一先生 講話

絶学

 本日は大勢の方々から素晴らしい体験談、ご意見をうかがうことができ大変うれしく存じます。

 皆さん方は他の方の体験談を聞いていらっしゃるというこの瞬間、瞬間が全治そのものでありまして、改めて心がどうあるべきかということを論じないで進んでいるというだけで、非の打ち所のない全治の状態がいつも成り立っているのです。

 現代の宗教家が「しっかり自分を見つめなさい」とよく言いますが、江戸時代より古い宗教書の中でそういう言葉をいまだに見たことがありません。おそらく明治以降に言い出した人がいてそれが広がったのかもしれません。しかし自分というものをいくらうまくとらえようとしても、それはすべて脱線です。世間では自己意識の内容、つまり心、精神、自分について、言葉を使って概念化する傾向が強いですが、皆さん方はこれからはそれを言葉を使って表現することをやめて放っておくことで、見事に森田療法の神髄が現れて、これ以上のことはありません。

 それは「心に準備なし」とも言います。不安、恐怖などに対するとらわれ、つまり神経症のどうにもならない苦しさというのは、いわば自分自身に対する用心というところから発するもので、それが熱心に治そうという努力になっているわけです。その自己意識のところを言葉を使わず放っておいたままでいると、その良し悪しや自分がどうなってしまうのかについて何も答えを出さないでいるわけです。そうすると一挙に自分の問題、心の問題が解決してしまって、あとは日常生活上の他の皆さんへの十分な配慮のもとに、それこそ森田先生が「君はもっとハラハラしたまえ」とおっしゃったように、緊張したまま外への取り組みに熱心であれば、申し分のない全治の姿でいらっしゃると言ってよろしいのです。

 そして全治というのは瞬間的なもので経過がありません。こうすればこうなるということがありません。森田理論があろうがなかろうがそれとは無関係に今の骨折りで十分立派に成り立つというところです。これは非常に大事なことです。

 では会場からのご質問にお答えします。

 鈴木大拙先生に関してのご質問です。先生は三聖病院によくいらっしゃいました。昭和二十七年にニューヨークの精神分析研究所の有力な所員でありましたカレイ・ホーナイという先生を連れて日本にやって来られ、その時に京都の都ホテルで大勢の学者を集めて、森田療法の実際を前の院長が講義するのを聞いてくださったのです。その翌年には三聖病院に来られました。それをきっかけに精神療法に興味を持たれ、その年アメリカに行かれて「禅と精神療法」という講演をニューヨークの精神分析研究所でしておられます。その後、メキシコでエーリッヒフロムという精神分析の大家、そして鈴木先生の弟子の一人であるデ・マルティーノという禅の心理学に造詣ぞうけいの深い方との三名で禅と精神分析についての長時間にわたる座談会を行い、それが日本でも本になっております。
 その時に thing-as-it-is-ness を「あるがまま」の英訳として使っておられます。ただそれは長すぎるので、is-ness 、そしてさらにもっと平たく such-ness という言葉を使っておられます。
 私が大谷大学で「鈴木大拙と精神療法」という記念講演をする機会がありました。アメリカ在住の先生のところに十七歳の時からずっと秘書としてよく尽くされた岡村美穂子さんという方がおられ、現在は金沢市の鈴木大拙館の名誉館長をしていらっしゃいますが、その方も講演に来てくださっていて、私のその英訳の話に関して特に間違っているとはおっしゃってはいませんでした。

 次のご質問は「純な心は森田先生があらゆるとらわれから離れた状態として示されたもので、それに対して、とらわれた考えを悪智と呼んでおられました。誰しも森田先生の本を読まれたら、心の良い状態が純な心で、悪智は悪いものであるととらえられます。ですから悪智というものを気にすると、結局心をやりくりしているように感じますが、これについてはどう考えたら良いでしょうか」というものです。

 おっしゃるとおり悪智というものは自己意識内容に自分の考えをつぎ込んで良い心にしようという、つまり治そうとする努力を続けることそのものです。しかし、その場にふさわしい必要なことをどんどん緊張して進んでいらっしゃる状態は心の内容を問いません。自己意識内容がどうであろうと問いませんので、悪智も純な心もすべて区別なくその時の心はそれこそ真実、純な心なのです。そうしますと悪智と純な心を分けることがなくなってしまいますし、自分について自分で評価する必要がなくなるというわけです。

 次のご質問です。「自分を情報化してはいけないと教わったのですが、客観視と自分を見ることの違いが分かりません」というものです。

 これについてご説明いたします。客観視も自分を見るということもどちらも自己意識を対象にした考えでありますから、森田理論を勉強会のように学習しているという段階に留まりますと、熱心に自分を見るという脱線をどこまでも続けてしまい、いつまでも治らないのです。
 森田療法について、他の療法との違いなどをよく理解されることはそれなりに良いことなのですが、治るということの実際は、学習にまったく関係がありません。前の院長は大徳寺の僧堂に入る時に出身大学名を聞かれ、「早稲田大学を出て参りました」と返事するやいなや「その学校を捨てて来い」と言われ、それを実践しておりました。
 大徳寺の塔頭の一つである聚光院じゅこういんに利休のお墓があります。その隣が僧堂で、その間がつながっていて、修行僧は聚光院でお経を読んでから毎朝そこで食事をしていたようです。入門の時にその学校を捨てて来いと言われたのですが、これはもうとても大事なことで、自己意識内容を学問的に工夫することが一番おろかな脱線の始まりなのです。客観視も自分を見るということもどちらも自分を対象にしたやり繰りですから、今すぐおやめになって、外に対する緊張、ハラハラした応対、生活の仕方の方に重点を置いて進まれたら申し分ありません。

   2018.5.13


宇佐晋一先生 講話

治癒像

 本日は皆さん方の日頃の実際の生活面を中心とした、大変結構なお話をおうかがいしてうれしく存じます。

 まず、治っている姿、医学的には治癒像と言いますが、それをはっきりさせたいと思います。

 心の問題としての症状へのとらわれは、基づくものがご自分の感覚や感情でありましょうとも、すべて知的な葛藤そのものなのです。知的にどう扱って行くかという皆さん方のご苦心は、今日のお話の中でたびたび出てきました「結論」という言葉で現れておりました。ところが治癒像というのは論理のまったくないものですから、「結論」という言葉を少しでも使いますと、それはもう本物ではありません。

 その論理を「別種の論理」という方もおられまして、みんなが分かる形で論じ合っている、それではない。ということを示そうとされるのですけれども、私も若い頃はその「別種の論理」という論理があるのかと勘違いしまして、大変困ったことがあります。

 「別種の論理」というのは、普通の論理がまったく出てこない領域、言い換えますと、普通の論理を離れた領域を指しておりますので、別の考えという意味ではありません。このことを前の院長は簡単に、「それは理屈抜きです」というふうに申したわけで、筋の通らない妙なわけの分からないものでもあるわけです。

 それを鈴木大拙先生は、私が花園会館でうかがった「東洋の心」という講演の中で「分かる分からなさ、分からぬ分かるさ」という巧みな表現でその理屈抜きの世界を表されました。また、かつてメキシコで禅と精神分析についての座談会が開催され、その内容の日本語訳が「禅と精神分析」という題名の本になって出ておりますが、そこで「宇宙的無意識」という言葉を鈴木先生が使われ、耳新しく感心させられたものです。そこで先生は、宇宙的無意識は精神分析で言うところの無意識とはまったく異なる種類の無意識であることをはっきり言われ、cosmic unconsciousness と英語で表現されました。つまり、分かることと分からないことが同時に存在しているのです。誰もが分かる姿に整えようと一生懸命筋を通そうとすることをやめて、ぶっつけに、まだ考えもまとまらない、筋の通らない状態の分からなさのままでいる、あるいは一部分かった状態でいるということなのです。

 治癒像とは、これはこうだという「結論」のない状態ですから、それとそれでないものが対立することがありません。例えば、不安と申しますと、すぐ対立概念として安心ということを思い浮かべ、どっちが良いかと言えば、それは安心の方が良いに決まっているということで、そこにとらわれてしまうのです。安心と不安が明確な形をとりますと、恐怖の対象がよりはっきり怖いものに見えてくるということは皆さん方がご経験の通りだと思います。その他、好きと嫌い、そして外の現象では、天気が良いのと悪いのとのように、何かを決めるとそれにすぐとらわれるのは、世間では対立概念という形で物事がとらえられるのが常だからです。

 治癒像は、どのようにも決められないということで、前の院長は「神経症にもなることもでき、治ることもできるのが本治りですよ」と表現しておりました。ということは、決めていない、決められていないということです。ただ、「神経症になる」という表現は「神経症になっている」と言ったほうが好ましいものです。「いる」とか「ある」でしたら、どなたもが満点で、どっちが本当だとか、どっちに向けて努力するべきだというようなことがありません。

 前の院長は 心のありかたについて、まったく目標を示すことがありませんでしたので、それで治るということは極めて早いわけです。今、何をしなければならないかということを考えて取り掛かるところに、もう早速さっそく全治が現れるという、これほど早いものはないというほどの治り方を示しておりました。

 もう少し心が軽くなればとか、この症状がなくなれば、というような気持ちはあるでしょうが、それには手をつけないまま、実生活での仕事に取り掛かって行くというところが非常に肝心で、今日の治癒像の中心になっているものです。「あっ、分かった」とか「この要領だ、ピンときた」というふうにこの問題が解決したと思われたら、いつも答はそれではないというふうにお考えいただければ良いのです。いつもそれではない、あれでもない、それなら何かと探すこともないということです。どこまでも分からなさの中に入っている、入り込んだままでいるということで、難しいことは何もなく、非常に簡単です。

 では、会場からのご質問にお答えします。

 自分の選択がはたして正しかったのだろうかなどと、将来に不安を感じた時にはどうすれば良いのかというご質問です。

 森田先生がかつて弟子の高良武久先生に「道が二つに分かれた時は困難な方を選べ」とおっしゃったそうです。前の院長は「鉛筆を立てて倒れた方に進みなさい」と申しました。つまり、自分の考えや意志の入らない決め方でその方向をはっきりさせるということを勧めておりました。もうお分かりのように、とにかく答えを出そうと努力するよりも、やり始めてしまうことが大事だからです。
 不安に思える環境には踏み出しにくいものです。そこで安心する道をつい考えることになるのですが、前の院長はこわごわ、びくびくしてやりなさいと申しました。昔、殿様の前で家来が「恐れながら」と言って話をしました。そのまさに恐れながらやって行くということです。

 次のご質問は、心身ともに健康になるためにはどうしたらよろしいか、というものです。

 これには面白いエピソードがあります。1961年に日米合同精神医学会議というものが東京ホテルオークラで開かれた時に、特別講演に招かれた鈴木大拙先生が講演されました。先生は明治の頃からアメリカでの生活が長く、流暢りゅうちょうな英語で講演されました。その講演の中で、アメリカ人の聴衆がどっと笑ったのです。というのは、学会前にアメリカの知人から手紙が来て「今回は何とか東京へ行きたいと思ったけれど、心はそちらへ飛んでいるが、体が言うことを聞かないので行けない」というふうに書かれていたと先生が話されたからです。完全に心と体が分かれてしまっています。そんなことを話されて聴衆が笑ったのです。それから先生は、自分とか心とかを考えに置き換えることのない意識、概念化されない意識というものがあることを明確に述べられたのです。それは「禅と精神医学」という題でお話になりまして、悩みは概念化から起こる、考えに置き換えたところから起こるというふうにはっきりとおっしゃったのです。

   2018.3.11


宇佐晋一先生 講話

迅速根治

 広く世間に森田療法を理解してもらうために、あるいは学問的に明確に規定するために、かつて森田先生がいろいろ説明をされました。それは理論としてはもちろん必要なことでしたが、治療の実際から申しますと、その概念的に決めた事柄はことごとく治療の障害になります。

 そのため、前の院長、宇佐玄雄の講話と日頃の指導は、森田理論、学説を説明して理解してもらおうとするものではありませんでした。むしろまったく理屈抜きに、すぐその場に必要な事柄をとりあえず、いやいや手を出してやりなさい、ということに尽きるものでありました。ですから、他の森田療法の施設で行われていた森田療法との非常にはっきりした違いは、方法や理論的な説明というものが一切ないところであると、今では申し上げることができます。

 そうしますと、宙ぶらりんで頼りなく、元になる根拠がないというふうに思われるでしょうが、組み立てがない、あるいは理論的構成が前もってないという状態が究極のあるがままそのものでありますから、かえって治りが早いのです。

 私がまだ若い頃は、長年悩み苦しんだ神経症はやはりそれなりに時間、年月がかかるだろうと考えておりました。ところがそれは大きな間違いで、前の院長によりますと、まさに治るのは迅速じんそくかつ根治的だというのです。その頃の私にはとてもおかしな説明に思えました。ところが、その後、これはもう間違いなくその通りであって、これほど早く見事にきれいに治る治療法はないことを確信しました。

 「これが自分だ」というものはすべて本物ではなく、「これが自分だ」というところからすでに脱線なのです。考えた自分、考えた心、生きるということなど、それを最初から論じると、そこで止まってしまって、決して治ることがない、あるいは悟ることがない、という目のつけ所が前の院長の見方であったわけです。したがって説明を上手にすればするほど脱線してしまう、長くかかる、ということです。迅速根治じんそくこんちというのは何かと申しますと、そのいきなりの、ぶっつけの、やにわにこうであるという状況をおいて他にありません。

 精神全体の見方からすれば、人間の知性というものは本来心の外側の仕組みであって、「知性は精神の外部機構」という表現も心理学の教科書にもしっかり記載されており、心の問題をとやかく言うのは脱線です。

 心のことを言う前に、あるいは「これが自分だ」という前にいきなり実際の生活をするということです。森田先生もパッと石を投げてくる人がいたら、サッとそれを上手に避けるというようなことを例として挙げておっしゃっていましたが、自分というものをどう対処するか、と考えるより先に全治の状態がその場で現れているのです。ですから、森田先生が、外へ向けて君はもっとハラハラしたまえ、とよくおっしゃったと聞きますが、それでもう満点なのです。落ち着こうとか、ゆったり構えようとか、気にしないでおこうとか、世間の人が考える心の落ち着いた状態というのは間違いなのです。とにかく外界のこと、外のことに対して敏感に次はどう対応するか、ということを野生動物のように常に構えているという、そこのところでもうすでに全治であるわけです。

 先ほど会場から、症状のことを忘れてしまったというお話が出ましたが、忘れようにも忘れられない、あるいは忘れたくても忘れられないという症状、悩み、自分のことなどは、一種のこだわりで、その事柄に止まってしまっているわけです。忘れてしまえればそれでいいですけれど、そのこだわった状態をどうするか、私が前の院長に質問したところ、こだわったまま行くと申しておりました。

 忘れられない問題を抱えながら悩みながらそのまま行くという、そこのところに、あるがままの意識を持ち込まないという素晴らしさがあるのです。あるがままは言葉にする前の状態ですから、嫌だなあ、何とかしたいなあ、という感情が出て来ても、その段階ですぐ外へ向かっての緊張を高めた行動があるばかりなのです。心に向かって、これを森田療法でどう治したらいいのかというような工夫は一切要りません。かえって脱線します。ですから、こだわったまますぐ次のことをするという瞬間的な生活ぶりが見事な全治であります。

 すべての答えが間違い、あるいはそれでない、あれでもない、これでもない、こうかと言うとそれでもない、とこうなって来ますから、どうしたらいいかとお考えになる必要がもうまったくないわけです。方法を考えたらすべてだめで、あれでもない、これでもないと言っているその事柄からも離れているのです。禅ではこういうもろもろの事柄を否定することを百の否定、百非ひゃっぴと申します。例えば坐禅でしたら、その場で坐るというのが仕事ですから、いろいろ気になりながら、ハラハラしながら坐っているということになるのです。

   2018.1.14



宇佐晋一先生 講話

突然治る

 本日は貴重なお話をAさんから聞かせていただきました。大変結構なのは、全治が、こういうふうにしてというのではなく、突然のことだったと言われたことです。全治というのは、皆さん方のお考え、人の言葉、説明などによるものではなく、その時、その時の外への取り組みが突然の全治を実現させるのです。したがって外に向かっての、ハラハラというほどの緊張は、もうそれだけで全治の意識であると言ってよろしいのです。

 前院長は、秋の虫が長い触角を動かしている状態とか、眠っているように見える犬が寝そべっていても、耳だけは周囲の音に敏感に反応しているという見事な対応ぶりが、いきなりの間違いのない全治だと申しておりました。そして人間では自分の状態について、これで良いとか悪いとか、満足できるかどうかとか、自分のことについての考えをさしはさみがちだが、それはまったく無駄である、と続けて言っておりました。実は今年は前院長が亡くなって六十年に当たりますので、少しそういう思い出話をさせていただきました。

 前院長は患者に症状のことを決して言わせませんでした。「生活、仕事、勉強、人のお世話、何でもさっと、どんどんやりなさい」というところが生き生きとしておりまして、治す手間をはぶくのです。治ったらするというのではないのです。私が病院を引き継いだ時に、三省会で皆さん方に、ご自分の症状の説明をしている間は治りませんよ、と言いましたところ、皆さん方は黙ってしまって会が進みませんでした。そこで、私がまだ小学生の頃に入院されていて、三省会の役員をされていた方が、私たちは自分のことを聞いてもらいたくて来ているのですよ、やはり言わしてもらわないとね、と助言されたのです。そこで、三省会の席上だけはご自分の症状をお話になっても良いということにして、それが今日までずっと引き継がれているのです。

 前院長の治療の風格と言いますのは、学問を断絶する「絶学」と言えばよろしいのです。そのいきさつを申しますと、大正十一年に大徳寺の専門道場に入門いたしまして、初めてそこの指導者である川島昭隠老師にご挨拶したところ、老師から「どこの学校を出てきた」と尋ねられたので、前院長が「早稲田大学を出て参りました」と返事するやいなや、「その学校を捨てて来い」と、変わった指示を与えられたのです。これが「絶学」でありまして、前院長はそこから禅の修行を始めたわけです。つまり、より良い判断、解釈をすること、あるいは結論を出すことがまったく要らないのです。

 皆さん方は、今日は良い話を聞いたと思われたら、いつもそれでないというところから出発されれば、全治は間違いありません。いつもそれでないというのは、経験的な判断や結論の出し方をする前に実際の生活をすぐ始めて行くということです。

 皆さん方は自分のあり方、心の問題というのは、これからはまったく取り上げなくてよろしいわけで、これが自分だ、心だというような自己像というものはすべて主観的な虚構きょこうに過ぎないのです。ご自分では自己像を絶対確信的にお持ちになっていらっしゃるでしょうが、それをあてにして良い確かなものではありませんので、「これが自分だ」と言っていること自体が脱線なのです。さっそく外の実際の問題に皆さん方が手を出していらっしゃれば、もう全治はそこで十分成り立ちますので、それは突然、意識がパッと外に明るくなるということで、どなたにも始まると言ってよろしいのです。

 では会場からご質問が来ていますので、お答えします。

 質問:森田先生のお話の中に、「感じから始まる」といったお話があったように思いますが、それはどういう意味ですか。

 お答:人間の自己意識には、痛いとか痒いとかの感覚が発生し、また、いろいろな感情も沸き起こります。これらはもうその通りでありまして、どうするというわけには行きません。それで次にすぐ、知性が働いて、その現象をまとめにかかったり、意味づけをする、あるいは価値判断をする、などというふうに組み立てて行くところからが脱線です。
 「感じから始める」と森田先生がおっしゃったのは、実に上手に言っておられます。その感覚から、次はもう実際の仕事での工夫をしていらっしゃれば、他の皆さんのために役立つことがたくさんできます。他人から欲張りな人と言われるのでしたら、そういう他の皆さんのためになることをどんどんなされば、その欲張りは見事なものです。

 質問:絵画作品を見て様々に感じることと、その作品の作者や来歴を知ることとは違いがあるのでしょうか。

 お答:絵というものは、視覚芸術ですから、色と形を見ること以外はあり得ないのです。美というのはそういう感覚的なものでしかあり得ませんので、由来の解釈、価値的な判断、真贋しんがんの問題などというものは美とは関係がありません。色と形を皆さん方がご覧になるというところに、その美が自ずから成り立っているということがあるだけなのです。それとは別に美術史として、作品の学問的な取り扱いはもちろんあるわけで、それがいろいろ興味のある事柄として人々の注意をくことはまったく別の問題なのです。

   2017.11.12


宇佐晋一先生 講話

精神作業

 本日は高いレベルのお話をたくさんしていただきありがとうございました。森田療法のすばらしいところは、あらゆるとらわれから離れた生活がこの瞬間から始まるということです。そのあらゆるとらわれから離れているというのは、まさに森田先生の「あるがまま」なのです。

 皆さん方はそのあるがままを求めたくなりますが、私たちはこうしている瞬間にも、間違いなくすでにそのあるがままの中にひたっているのです。それがどうして長い間治らなかったのかというと、修養熱心であることがあだになり、ご自分の方に修養の努力を向けて来たというその長い歴史によるわけです。

 ですから、他の人にどのようにしてあげたらお役に立つかという、精神作業に重点がかかれば、それは途端にあるがままに他ならないのです。さっそく精神作業、あるいは実際の人助けに着手すればよろしいわけで、心を立て直すとか、ストレスを解消するとか、もっと良い気分になってからとかいう、ご自分の方に良いように努力を少しでも向けますと、もうさっぱりあるがままではなくなってしまうのです。

 そうしますと、他のあらゆる心理療法、精神療法とは異なって、森田療法はあるがままから始まっていると言えるのです。あるがままは決して結果ではありません。いくつもの手段を経てその結果として出て来るものではなく、いつもぶっつけのものですから、もうすでに治っているという全治の状態から皆さん方の生活が今この瞬間から始まると言ってよろしいのです。

 人間の意識というのは同時に二つのことを明るくすることはありません。つまり、皆さん方が何とか治らないだろうかと悩んでいらっしゃる時は、実生活のことには意識が十分行きません。反対に実生活のことに努力していらっしゃる時にはご自分の問題は立ち消えになっているのです。森田先生が「君はもっとハラハラしたまえ」とおっしゃったのは、実生活上しなければならない仕事に対していつも緊張していなさいということで、外のことに対して意識が明るくなっているわけです。

 それでは自分の症状や悩みの解決はできないのではないかと思われるでしょうが、人間の持っている知的能力というものは、まったく外向きの仕組みですので、自分のために役立てようという努力のことごとくがとらわれになってしまいます。皆さん方はこれまでは、自分で描いた自己像を元にして生活をなさって来たかもしれませんが、そういう、頭で考えた自分というものが本物ではないということがはっきりしますと、より良い自分というものを求めることが必要なく、しんどいまま、悩ましいまま、憂鬱ゆううつなまま、さっそく現実の問題解決に進まれればもうそれが申し分のない立派な全治に他ならないのです。

 では、会場からのご質問にお答えします。

 質問:会社で上司から頻繁ひんぱんに叱責され、うつ状態になり、不安で仕事がほとんど手につきません。生活を前進させられるようアドバイスをください。

 お答:質問の方は何をやっても間違っているのではないかというふうに思えて不安で仕事が手につかないとおっしゃっているわけですね。よく世間では、自分を否定的にとらえるネガティブな考え方をやめて、ポジティブな考え方で行きましょうと言われますが、そういう、自己像、自己イメージを明るくするとか強くするというふうなことはまったく要りません。私どもはいつでもビクビクで足りるのです。あるがままというのは、その時のまったくぶっつけの意識ですから、先に自分を中から変えてしまおうというのはおかしいのです。
 前の院長が、犬がべたーっと座って休んでいるように見えても、耳だけがパッと動くということをめておりました。つまり一見ゆったりと落ち着いた状態に見えても実はそうではないのです。いつもビクビクで精神作業として緊張しているというところが前の院長の治療上の表現であったわけです。
 皆さん方は森田療法を受けても意識としては何も変わってはいないのですが、いつも気を病んでいるというほどビクビクしていて、そしてここぞとというすきがあればパッと必要なことに手を出すという、それくらいいつも外のことに狙いを定めているというふうには変わっています。この油断なく周囲に気を配っているというそれがもう立派な精神作業で、しかもさっそくの今の全治に他なりません。
 そういうことですから、怒られて、何をやっても間違っているのではないかと心の中ではビクビクしながら、その気分を治そう、明るい気持ちにしよう、あるいは間違っていない、大丈夫だと自分に言い聞かせようとすることは治療の本筋からはずれた、自己意識の中の無駄なやり繰りです。ご自分を分かる形、つまり言葉でとらえるということはやめて、それはそのままほったらかしで、ぶっつけのあるがままで今の困難な状況に対処していらっしゃればよろしいのです。

   2017.9.10


宇佐晋一先生 講話

実際の生活に骨折って

 森田療法はご存じのように、経験より前、あるいは人から聞いたり人に伝えたりする前のところで全治が成り立ちますので、Aさんの理論を中心としたお話の後、会場からそういう点をご指摘になったというふうに私には思えました。この、人から聞いたということとまったく関係なく全治が成り立っているというのは、そのままがあるがままであり、いきなり実際の今の生活をお始めになれば、もう満点です。それが本物の全治、真実の姿であって、考えた自分、見つめた自分、分かった自分というのは、すべて自己意識であり、それをご自分であつかおうとする限り脱線するしかないというのがこの療法の趣旨です。

 森田療法関連雑誌の七月号の中に、治るとはどういうことかというテーマで、ほとんど一冊様々な方が文章を書かれています。しかし、治るというのは事柄ではないのです。ですから、治るとはこういうことだと言った途端に脱線してしまって、本当のものが体得できないのです。つまり、こういうことだという分かり方の前のところに本物の皆さん方の今日の見事な全治があるのです。すなわち皆さん方は治らずにはいられないのです。

 それでは会場からいくつかご質問が来ていますので、それぞれに対してお答えします。

 質問:日々の生活では症状をそのままにして目の前のことに取り組んでいますが、しばらくするとまた脱線し、症状にとらわれてしまって困っています。何か脱線しない方法をアドバイスしていただけないでしょうか。

 お答:脱線したらしたまま、次の今大事なことを始めてしまうということでよろしいわけです。では、症状にとらわれたらどうしたらいいかと言いますと、そのとらわれた心をとらわれない状態にしたいという気持ちが沸いて出て来るままに、今のとりあえずの仕事をどんどんやって行くのです。それで心の状況がどのようであったにしても、全治は確実に成り立つのです。
 よく世間では、特に宗教家が「心を整える」という言い方をしますが、それはまったく見当はずれなことです。もう少し落ち着くようにしようとか、もっと良い心の在り方に変えようとすることはまったく必要ありません。前の院長が「どんどんやりなさい」と申しましたが、このどんどんというところが値打ちものなのです。とらわれたらとらわれたまま、どんどんやって行くということです。

 質問:お釈迦しゃか様の悟りの内容はどういうものだったのでしょうか。

 お答:それは言葉に表す前の皆さん方の今の状態そのものなのです。三聖病院の洗面所の上に長らく「如々真にょにょしん」という額が掛けてありました。これは入院されていた方が、前の院長の講話を聞かれて、その言葉を達筆な字で板に彫刻され、退院の時に置いて行かれたものを掛けてあったものです。この「如々にょにょ」は「そのまま、そのまま」という意味で、これをおいて他に真実というものはないというのが、お釈迦様の悟りなのです。つまり「こういうものが悟りだ」というような、言葉で伝えられるような、あるいは考えに置き換えられるものではなく、このとおりという、まさに「如々にょにょ」そのものなのです。
 会場から「自分らしく生きる」という話をされましたが、考えた自分、これが自分だ、というのは明らかに脱線で、それはどうでもいいことなのです。ですから、自分らしく生きるというのは、お釈迦様の悟りにはまったく関係ないということです。

 質問:今通訳ガイドを目指して実習を受けていますが、外国人観光客に禅について説明する機会が多く、素人の私にそれを説明する資格があるでしょうか。  

 お答:禅はこのとおりという、先程の如々真にょにょしん、お釈迦様の悟りそのものですから、皆さん方が禅の僧堂で修行をなさらないからと言って、真実に生きることができないかというと、まったくそうではなく、どなたも真実の真っ只中にいらっしゃるのです。そのままあるがまま、実際の生活に骨折って、他の皆さんに役立つたくさんのことを欲張って計画されるところに禅本来の大事な点があるわけですから、この方が外国人観光客に禅について説明なさる時は、言葉を使うことなしに、そういう姿そのものをお見せするのが良いかと思います。また、禅のお坊さんのような修行もしないで悟りが開けるものですかと聞かれましたら、言葉で心の変化を説明しがちですが、そうではなく、いきなり生活面に努力されればその場で悟られると答えるのが良いわけです。
 皆さん方がご存じの江戸時代前期のお坊さん、白隠禅師は「衆生しゅじょう本来仏なり」という素晴らしい言葉を残してくださっているのです。それも外国の方々に、言葉を使わない真実のあり方を、それをやむを得ず言葉を使って説明してくだされば結構です。
 全治は経験以前にあるものです。そして人から伝達を受ける以前のところで成り立っているのです。ですから、治るとはどういうことか、という議論からは決して治って来ないわけです。皆さん方におかれましては、寝ても覚めてもいきなりその場で、しっかりとあるがままの真実が成り立っている、ということを改めて申し上げておきます。

   2017.7.9


宇佐晋一先生 講話

大自然

 今日は大変高級なお話をBさんのご体験からおうかがいすることができました。あるがままという森田療法の究極のものは思想ではありません。何らかの経験に基づいた考えでもありません。まさにこの通り、という言葉のない世界における事実そのものです。これが森田先生が一番はっきり治療の本質として示されたものです。

 これで良いのだという肯定とか、これではまだいけないという否定とか、皆さんのお考えに対する批評というものは何もありません。即刻、私どもが今直面している現実世界での皆さん方のやり繰りをおいて他にはありません。それを心の問題として取り上げますと、むしろ脱線で、例えば皆さん方が今日この三省会においでいただいてお話を聞いていらっしゃる、この瞬間、瞬間がどなたにおかれましてもまぎれもない全治でいらっしゃるのです。

 三聖病院が閉院になる時に、京都新聞がそれを取り上げて記事にしてくれました。そこに京都大学の新宮一成教授が談話として、精神療法が宗教と関係があることを示す病院であった、という評価を書いておられました。まさにその通りでありまして、三聖病院の森田療法は宗教も踏まえておりまして、それがなかったなら早速の全治ということはあり得ないわけです。自分についての考え、それをこだわりと言ってよろしいのですが、その中に悩みというものをくみ上げ、組み立てられるわけですが、何か理由がある、あるいは根拠があるというあるがままではなく、いきなりのぶっつけのあるがままが究極の状態であるわけです。ですから、ご自分でこの病気をどうしたらいいかと考えていらっしゃった方々にとりましては拍子抜けしてしまうような感じでしょうが、そういう、今まで宗教として考えられてきたものも十分、この森田療法の中に含まれているわけです。

 では、会場からのご質問にお答えします。

 質問:最近集中して仕事をうまくこなすことができません。上司から休職を勧められましたが、どうすればよいでしょうか。

 お答:ご自分の調子の悪さを中から何とかしようという、自分対自分の努力をさっそくおやめになることです。とりあえず仕方なしにやるべき仕事をやって行くこと、そしてそのやり方の工夫に全力を傾けて行くということです。前院長も、仕方なしに行きなさい、と何とも情けないようなことを申しましたが、これは非常に的確な指導なのです。前院長はまた、全治というものを段階的に考える必要はない、落ちているごみをちょっと拾うこと自体が全治そのもの、と申しておりました。そして精神作業のことをやかましく言っておりました。精神作業とは何かと言いますと、たとえば私がここでこうしてお茶をいただいて感謝をいたしますが、皆さん方も周りを見回して片っ端から感謝することで全治なのです。精神作業で外向きに頭を使っていらっしゃるのはすべてその場で全治でありまして、皆さん方は治らずにはいられないのです。ですから、ご質問の方は仕方なしにやるべき仕事を工夫しながらお勤めになるということで治っているということですから、どうぞそのままお続けください。

 質問:将来のことが不安でたまりません。たとえばもし自分に子供ができたら、その子が神経症になるのではないかという不安があります。

 お答:いろいろああでもない、こうでもないと不安だらけというのは、本当の森田療法では良し悪しがないのです。いつもその時の心でもう充分、ということなのです。子供が神経症になるのではないかという不安があって、そういうことはその時になってみなくては分かりません、という答えを出してはいけません。 前院長は本当の怖がりでいなさい、と申しておりました。不安のままでいなさいということです。同じような苦しみを子供には味あわせたくないというお気持ちを持っておられるのは、親の立場としてはごもっともなことですが、自分あるいは自分の子供に関する内側の問題につきまして、楽観視するべきかあるいは悲観的にとらえるべきかというような、論理的な解釈は一切加えないことです。
 内面の事柄に対して言葉を使わないことです。内側の世界は心理学的に言えば感覚と感情の湧き出るままです。つまり、人間が最も人間らしい、考えを組み立てるという能力は常に外側の事柄が相手で、内側は感覚と感情だけの世界にしておくということです。そこにあるがままの素晴らしさが開けているわけです。大自然というのは一般的には外のことについて使われますが、内側の内発的、自発的に出てくるものもまさに大自然の現われで、禅の大家である鈴木大拙先生の晩年の言葉を使えば「宇宙的無意識」です。
 私は前院長から心の持ち方とか、良い心のあり方とか、心理学的にこれが良いというようなことは一切教えてもらっておりません。つまり心には用事がなかったのです。

   2017.5.14


宇佐晋一先生 講話

いったいなにが主題なのであるか

 本日の例会では宇佐先生は講話として、会場の出席者からの質問に一つずつ答えられるという形で進められました。

 質問:三聖病院の作業室に「忍耐」という言葉が掛けてあったと思うのですが、これは世間的な意味ではなく、何か仏教的な教えを意味するものですか。

 お答:このことについては前の院長が、最初は辛抱だ、我慢だと言いますが、実はそうではなく、症状や気になることに対して何もしない、そのままです、と申しておりました。それはただの「あるがまま」ということに他ならないことを申し上げておきます。

 質問:宗教は必要でしょうか。

 お答:宗教がなかったら自分をどうしていいか分からなくなるのです。神経症の症状がまさにそれの最たるものでして、自分のあつかい、あるいは心をどうしたらいいかということについて、あらゆる手を尽くしてもうまくいかなくて困り果ててしまうのです。ところが宗教はその答えをまったく必要としない状況で、一瞬にして解決する働きがあるのです。実際の生活ぶりそのものが信仰であります。宗教と言うと世間では、何宗であるとか、何派であるとか、それぞれ説教の内容が違うというように、頭で考えた世界ととらえられがちですが、実際は考えに関係なしの心の状態、変化のままの姿ですから、これはもう一瞬にして言葉なしで解決してしまうのです。

 質問:先輩方のアドバイス通りに実生活をしていく必要のあることは分かっているのですが、いざ行動に移すことができずに困っております。

 お答:これは不安神経症の方ならまさにその通りだと思いますが、今日発表されたAさんのように、大勢の皆さん方から見られている、ということで十分であります。それはまるでテレビドラマに出演して非常な緊張を伴って役をこなしている状況です。それであるがままはひとりでに勝手にできてしまいます。心をどうのこうのと取り上げる必要はまったく要りません。

 質問:私は強迫神経症のせいで気になって字が書けません。誰かとしゃべっていても自分の発言の中身が気になり、内心もやもやでいっぱいになります。そしてそのようなことが不安となって積み重なって眠れなくなります。

 お答:これについては私自身が皆さん方にお話しする時は内心もやもやで、筋を通して話をする余裕もないです。ですから、まったく出たとこ勝負、肝心な表現だけを工夫しながら皆さん方に分かっていただけるように申し上げるということです。内心というのは、心が整っているとか、落ち着いているとか、不安がないとかということを目指す必要はありません。
 また、心の問題では積み重ねというようなことを何もお考えになる必要はありません。雪が降り続いて屋根やひさしがつぶれる危険性を考えるのと同じように、不安が積み重なって心が潰れないだろうかと思われがちですが、そういうことは決して起こらず、まったく放っておいたらいいのです。

 質問:メールで送った文字が間違っていないか、送った内容で相手を傷つけたりしないか気になって仕方がないのです。

 お答:私自身も依頼原稿の発送を月一回行っていますが、見直し、書き直し、あとからの追加、変更を何度も繰り返しています。これは読む相手がある場合は特に十分気をつけなければなりません。ですからどんどん文章を書いていらっしゃって、そこに表現の仕方の工夫をさらに加えながら、そこで悩んでいらっしゃればよろしいのです。それを自分の心の中の悩みを解決する方向へ持ち込んではいけません。自己意識の中というのは言葉はまったく無力で守備範囲を超えております。つまり心の中、自分の中に言葉でしっかりしたものを作り上げるという受け止め方をする必要はありません。

 質問:なかなかやる気が起きず困っています。環境を変えた方が良いこともあるのでしょうか。それとも森田療法ではモチベーションさえ要らないということでしょうか。

 お答:この方が今おかれた立場で、最も急がれ、最も必要なこととされている社会的な役割、骨折りをどんどんおやりになることです。その瞬間から、モチベーションがどうのこうのというような問題ではなく、社会的な難問に真剣に取り組んでいらっしゃる姿が他ならない全治の状態ですので、やる気というものを準備する必要はまったくありません。やる気が起こっているかどうか、あるかないかと振り返った瞬間に脱線します。
 前の院長は森田療法の極意として具体的な話をしなかったのですが、ただ一つ、長野市にある善光寺の本堂の床下に「戒壇かいだんめぐり」という真っ暗な曲がりくねった道が作ってありまして、そこに入ったら神経症はいっぺんに治ります、あるいは極意ですと言っておりました。私もそこへ入ってみましたが、一曲り二曲りしたら本当の真っ暗でした。手探り足探りで進むしかありません。つまり賢い見当づけというもののまったくなしに、ただその状況を打開する骨折りがあるばかりなのです。

   2017.3.12


宇佐晋一先生 講話

おめでたい日

 本日は新年の例会にふさわしく、皆さん方は非常に重要な事柄について言葉を工夫し、角度を変え取り上げていただき、大変うれしく思っております。皆さん方は今日どなたもが治らずに帰ることはできないことを申し上げる次第です。

 森田療法は説明を聞いて「分かりました」では本物とは言えません。なぜなら「分かる」という言葉は、「分からない」に相対し、そっちの考えよりこっちの考えの方が良い、というような議論がどうしてもつきまとってしまうからです。自己意識内(自分についてどう思うか、または他人が自分をどう見ているかという事柄)が、言葉という、自分を表現するのにはまったく不向きな手段を使って議論されると、自分の姿というものはことごとく虚構きょこうに過ぎなくなります。つまり自分で見た自分というものはまったく本物ではないということです。知性というものはあくまでも外向きに役立つ仕組みであって、自分を説明するということは、言葉の本来の働きからは脱線しているのです。

 ですから、言葉を外の事柄について使うことは大いに結構ですが、自分自身について、分かったとか分からないとか、これが自分だとか、違うとかいうような、言葉によるやり繰りはまったく無意味で、全治とは関係なく、きっぱりやめてしまってもいいものです。全治はどのようなものにも関係のないあり方で、ぶっつけに突然、今、このままにある状態をおいて他にはありません。どなたもがあるがままの外に出るということはできません。いつもあるがままの真っただ中にいらっしゃって、言葉を使って説明なさるより先にあるがままでいらっしゃるのです。これが全治の瞬間的な成立の特徴であります。

 今日のBさんのお話を聞きまして、いろんなお仕事に取り組まれると、こんなにたくさんのことをなさる方に変われるのかというぐらいに活動的でいらっしゃいます。大変重い責任を負いながらどんどん前進して行かれる姿は、それまでとはまったく目のつけ所が変わって、ことごとく自己意識ではなく、他者意識(外向きの意識)の中に目が開けて仕事を追いかけて行かれるというものです。これはかつての「治したい」という欲張りが大きく変化したものと言うこともできます。

 森田先生の「努力即幸福」という言葉がありますが、Bさんは、努力すれば幸福になるというのではなく努力しているその瞬間、瞬間が幸福なのだというお話をしてくださいました。私が瞬間的全治という話をいたしますが、これがいかにも奇をてらうようで突飛とっぴな話のように聞こえますが、森田先生の「努力即幸福」は瞬間的な幸福の成立を言っておられるので、同じことなのです。ですから、世間の人が、だんだん治って行くというような段階的な治り方を想定していらっしゃるのは、自己意識の内容を人間の知性で情報化して、こうすればこうなって行くに違いないという知的な心の探求ですので、森田療法からすると大きな間違いで、その情報のやり繰りで良い結末を招くことはあり得ません。

 世間では自分を情報化する材料として、外の情報を仕入れて来ていろいろ勉強される方が多いです。勉強というものは外向きの、例えば、仕事上、学問上でされるのは良いことですが、ご自分にとってという形でそれを応用しよう、自分に役立てようとなさると、その情報はまったく役立たないばかりかご自分を抜き差しならない状態へ導いてしまいます。勉強しただけ苦しみが増すというようなものであって、これが自分だ、これが心だ、これが症状だという種類の、内面的に組み立て構造化し、論理化して確かなものを作り上げようとすることは今日以降なさる必要はありません。

 会場から「恐怖突入」と「そのまま前進」は同じような意味ですかというご質問がありました。「恐怖突入」という言葉は森田先生の論文の中に「(恐怖症に)悩んでいる人を恐怖に突入せしめて」という文章がありまして、森田療法の理論学習で治すという立場の人たちがそれを大きく取り上げて、金科玉条きんかぎょくじょうのように使ったのです。ところが、森田先生から直接指導を受けられた鈴木知準先生がこれは森田先生の間違いであると、学会ではっきり発表され大きな反響を呼びました。つまり「恐怖突入」という言葉は使うべきものではなく、突入するのはその恐怖を起こさせる仕事の方なのです。恐怖を対象にして自分の怖さに突入するというように、怖さを引き起こす状態に突入するのが大事だとお思いでしたら、大間違いで、これは三聖病院ではまったく使わなかった言葉です。前の院長は「こわごわ、恐る恐る、ビクビクしながらやって行きなさい。本当の怖がりでいなさい」と言っておりました。

 「そのまま前進」は自分についてまったく概念化しない、恐怖という言葉も使わない、つまり考えに置き換えない具体的な行動をするということです。目の前のしなければならない、人に役立つ仕事に手を出した瞬間が全治そのものなのです。

   2017.1.8


宇佐晋一先生 講話

経験を超える

 肝心な事柄は、皆さん方がなるほどそうかと了解されることが実は邪魔になっていることです。本物というのは、こうしたからこうなるというようなことから離れて、まったく論理、理屈のない、概念化されない、自分を振り返ることのない、今この瞬間の現実生活に対処している姿そのものなのです。そのことが皆さん方のお話の中によくうかがわれたことが大いにうれしく存じます。

 前の院長、宇佐玄雄が自慢にしていたのは、森田療法を受けられた人の方が、禅の修行僧よりもちゃんとした本物が身につくということです。森田療法の方が十分大事なものが身につくことを保証しておりました。それは何かと言いますと、ただ “理屈抜き”ということです。

 つまり、これが自分の症状だとか、これが自分の状態だとか、自分を対象にして、考える自分と考えられる自分という二分した描き方、これは昨今の心理療法や精神療法によくあるものですが、それらはことごとく具合の悪いもので、皆さん方はご自分を対象化する前のところですでに立派に治っていらっしゃるのですと、前の院長はよく言っておりました。

 それから今日是非とも申し上げたいことですですが、この前の9月の例会で体験発表されたBさんと、今日発表されたAさんとで全治の状態で違いがあるかと言いますと、まったく同じなのです。日常経験という点では、もちろん年上のBさんの方が長いかもしれませんが、森田療法では経験の長い短い、多い少ない、浅い深いとかにまったく関係なくどなたもが同じでいらっしゃるということです。

 一般の人は、一人一人の人間が同じ意識でいるということは、絶対にあり得ないと考えます。それはあくまでも物事に対する考えのことで、それは当然のことなのですが、それとはまったく別にどなたもが異なることのないものが、分かる前の意識です。それが働いて、今日初めて森田療法のことを聞く方もBさんと同様に全治なさるわけです。その質、内容に良し悪しがあるわけではまったくありません。

 分かる前の意識というものは、経験を超える、あるいは体験を超える、言い換えればさらに歴史を超えるというふうに申してもよろしいことです。ところが、このようにしてやっとこの境地に到達したというのは、まだまだ不十分なのです。世間一般では目標として到達すべき境地というものがあるように思われていますが、実はそれをきわめて行こうという段階的な努力よりも前に、ぶっつけに今のこの状態で、もうそれは立派にどなたにも現れているのです。治す前に全治の状態がいつもそこに現れていますので、森田療法ほど早いよい治り方をする治療はありません。

 経験を超えるというのは、今に始まったことではありません。鎌倉時代の終わり頃、京都の大徳寺の開山である大燈国師というお坊さんが「不伝ふでん妙道みょうどう」という言葉を残しています。不伝の妙道とは、伝わらない、あるいは伝えられないものを伝えることについて、理解することのまったくない、「無理会むりえのところに向かってきわめ来たりきわめ去るべし」と言い残しているのです。

 私は最初は受け取り方が間違っておりまして、分からないからそれが分かるまでしっかり努力せよと言っているのかと思っておりました。しかしそうではなく、初めから分からなさに向かってどこまでも突っ込んで行きなさいということなのです。皆さん方にはおなじみの「知らなさ、分からなさ、決められなさ」です。説明もできない、つかむこともできない、伝えることもできない、そのままどこまでも分からないままです。この分からなさの真っ只中がいつも全治でありまして、森田先生が「僕の療法は不問療法だ」と言われて、今日の森田療法のようなああいう詳しい説明をまったくされなかったのです。「僕の言うことは信じなくてよろしい。ただ言われたことを実行しなさい」とおっしゃったのは実にすばらしいことで、分かってから実行しなさい、ではないのです。

 会場から「症状やその他気になっていることをそのままにしていると、脳の中で何かがつぶれていく感覚が起こるのですが、これは私だけに起こる特殊なものでしょうか」という質問がありました。この自分で見た自分というのは、まったくお一人お一人違っておりまして、これをそのまま味わうということで瞬間的に治ります。「私だけでしょうか」と尋ねられるということは、一般的にはどうなのかということを気にしておられ、器質的な病気と同じように考えておられるわけで、これを治療しようとすると結局だめになってしまいます。神経症というのは病気ではないのです。自分にとってはこれほど辛い、苦しいものはないとお考えでしょうが、まったく虚構きょこうのものなのです。 

 つまり、自分の中に引き起こされた状態を、考えた理想的な自分というものの方向へ向かって熱心に努力するという、まじめで良心的な人間的素質をお持ちになった方々だけに起こる架空の、病気のような状態に過ぎないのです。ですからこれを一般化なさらずに、それぞれの方の独特な感じを味わわれ、とにかく症状には負けていくのです。どこまでも精神内界の事実に無条件降伏なのです。

   2016.11.13


宇佐晋一先生 講話

瞬間的に治る

 本日は大変良い体験発表を聞かせていただきありがとうございました。Aさんは様々な苦しみを持っていながら、治るということは今日の生活の一瞬のこととおっしゃったことが一番大事なところです。

 Aさんが皆さん方のお役に立てるよう、いろいろ苦心して周到に準備をされて発表されたということは、まったく他のかたへの行為ですから、全治また全治の繰り返しで、本治りの状態が他の方へのサービスで続いて行くということです。それは瞬間、瞬間の連続でありまして継続というものではないのです。すなわち全治は必ず瞬間的なものばかりですので、せっかく治ったのにまたすぐ再発して治すのに随分ずいぶんまた苦労しないといけない、というような普通の病気にありがちなことは、神経症には当てはまりません。  

 世間ではよく心の病気と言いますが、これは自分で見た自分の感想をもとにした、治す努力に重点のかかった状態です。ですから、森田神経質の方の神経症の特色は必ず精神的な葛藤かっとうがあるのです。どうしたら解決できるかというその熱心さが特徴です。病気ではないのですが、治そうとすることで病気の状態ができあがっているのです。そうすると、自分自身が不満足であるという自己不全感があればあるまま、そこからすぐ今の皆さん方の大事な生活に進まれるその瞬間が見事な全治でありまして、継続という考えではなくその場、その時に現れている状態が見事な全治であるわけです。  

 世間では神経症というのはなかなか治りにくいと思われていて、瞬間的に治ると主張している私のようなものがいるのが不思議に思えるのです。ところが神経症というのは本当に瞬間的に成り立っていて、しかも瞬間的に治るのです。多くの方は神経症が小学校の頃から続いていますとか、ひと月ずっと悩み抜いてますとかおっしゃいますが、この場で瞬間的に成り立っているのです。たとえば夜中に眠っていらっしゃる時には、神経症は消えているのです。

 仏教の世界でいうところの悟りですが、世間では大変むずかしい高度な意識だと思われていますが、実は自己意識内を概念化しない、考えに置き換えないというだけのことです。これが自分だ、これが心だというふうに話を組み立てないというのが悟りでありまして、お坊さんですと、人を救うことの方に重点がかかりまして、自己意識の方は真っ暗になっているわけです。

 会場から「会社で仕事上の結果を求められていますが、ずっと良い結果が出ず困っています。その困っている状況から何とか解放されたいと思っていますが、それは脱線だとは分かっております」というご質問がありました。 会社でお仕事上のことで良い結果が求められていることは社会生活の常でありまして、もう朝から晩までそれを心配しているという状況がこの方としてはお困りなのでしょうが、それは特に悪いことでも何でもありません。森田先生も思い通りにできなくて、一日の終わりに残念、残念と何度もおっしゃったそうです。この残念というのはいわば仕事上、生活上の欲張りなのです。森田先生はその自己不全感、つまり自分が完全ではない感じというものをしみじみと味わっておられたということです。

 森田先生のお弟子の高良武久先生が、国際森田療法学会が福岡で開催された時「今回はよっぽど東京から行くのをやめておこうかと思ったけれど、森田先生から、道が二つあってどちらに行くか迷う時は困難な方を選べと常々言われていたので、そのお言葉にそむくことはできませんでした」とおっしゃっていたのが印象的でした。

 ですから、ますますお仕事に対して工夫、苦心を重ねて一生懸命やって行くということを実際の生活となさることです。心のほうからしっかりして行こう、心から楽になっていく方法を考えようということではなく、その困難な仕事にますますしがみついて取り組んで、いろいろ工夫していらっしゃるというのが道としてはもう間違いのないところです。

   2016.7.10 


宇佐晋一先生 講話

まったくどういうものでもない

 本日はBさんに日頃の神経症についての、治療者としての実践ぶり、ならびに会場の皆さん方からのご質問に対する的確なご回答を頂いて、大変参考になりありがたいことでございました。

 Bさんが神経症は精神疾患とは一線をかくするという表現をされたように、両者は程度の差というようなひと続きではないのです。神経症の人は森田先生流に言いますと「生の欲望」が強い人なのですが、自分というものを取り上げて、良い生き方をしたい、良い人柄、良い社会人でありたい、という非常に強い気持ちをお持ちです。

 ところがその努力にも関わらず、少しでもその目標に達していない部分があると、強い不安感、恐怖感にさいなまれます。これが森田先生以来の森田神経質の説明です。

 森田神経質の人にとってその不安感や恐怖感などは邪魔でつらく、なければいいと思う感情ですから、それを無くそうとなさることに非常にご熱心です。しかしいくら治そうとしても治ってこないので、これはもう病気に違いないとご自分で判断される人もいらっしゃいますし、外来で、これは治しにくい病気だと診断されることもあります。

 しかしこれを病気と見なして治そうとしても全く治ってこないのは、普通の病気とはまったく一線を画する別のものであるからです。その証拠に、神経症の人には精神のずれ、ひずみあるいはまとまりのなさなどの症状が一切ありません。

 前の院長が大正十五年に作家の倉田百三氏を診察した時に、あなたは今でも偉い人ですが、治ればもっと立派な仕事をする人になりますと申し上げた、と私に言っておりました。森田先生の「神経質優秀論」というものがありまして、病気の人、普通の人、そしてそれよりも上に神経質の人が来るわけです。自己批判の強い、向上を目指す努力ゆえにとらわれた方は優秀であるというものです。

 思い通りの良い状態の自分、つまり不安がなく悩みの状態が解決できる自分というものになりたいという、別の自分へ向上するための努力が、自分の心の問題の努力になってしまうため、そのはからい、言葉によるとらわれから抜け切ることができなくなってしまいます。

 これが自分だという自己像、自己イメージというものにもとづいたやりくり、工夫というものは世間的には立派な、正当化された努力と見なされておりますのでますます一生懸命にやります。そして森田療法を実践しても少しもあるがままになれないという結果が失敗感として感じられるわけです。

 ところが正当化されたかに見えるその自己像、つまり自分が自分を問題にするという、主と客に分かれたそのあり方というものは完全に無効であります。すなわち自分を描く脱線、自分を知る脱線、自分を決める脱線です。

 あるがままというのは言葉で表せるものではなく、森田療法を受ければそれが分かるようになるというようなものでもありません。まったくどういうものでもないのです。前の院長はこの状態を自分についての理屈抜きと申しておりました。森田先生は端的にそれを問わない、つまり「不問」というふうに打ち出されて、僕の治療は不問療法だと言っておられました。したがって私達からしますと「不答」なのです。こちらとしてもこうだ、ああだという議論をするような問答ができないのがあるがままなのです。

 そうしますと、皆さん方は自己意識をやりくりするという用事がなくなって、外向きの、つまり他者意識の中の、より細やかな気の利いた早速の取り組みのみとなります。その時の感情はそのままで、仮に嫌だという感情でしたら、その嫌なままとなります。自己意識の中は嫌なままで、外については必要なことをして行くということです。それで森田療法における全治がどなた様にもインスタントにその場で成り立つのです。

 悩みが瞬間的に解けるというようなことは起こり得ないというわけで、このことは世間一般では受け入れにくいものです。しかし瞬間的にしか治ることがないのです。治らないでいらっしゃることはできないのです。皆さん方が、治らないなあ、とお思いになるのは、だんだん治るものと思っていらっしゃるからなのです。

 これは非常にはっきりした事柄で、前の院長は、健康人としてやりなさい、と言っておりました。つまり、治った人としてやって行く、あるいは、まったく何も決めずにそのまま今のままやって行くということです。

 二つの状態を同時に意識することはできません。これは森田療法だけで言っているわけではなく、一般的な心理現象として起こることです。つまり今対象とされているご苦労が意識の明るい中心になりますと、心の問題はどんどん暗くなります。

 外の問題の解決に苦心し骨折っていただく努力が今の課題です。それは皆さん方が良い社会人になられます修養ということに他ならないわけなのです。

   2016.5.8


宇佐晋一先生 講話

役に立つ薬

 私が今日、会場に到着しました時にちょうどビデオ映像で禅のお坊さんが話されているのが写っておりました。そのお坊さんが「心を空っぽにする」ということをおっしゃっていて、大変気になりました。昔は偉いお坊さんのおっしゃることを傾聴してうかがっておりましたが、この頃はお坊さんが何と言われようとも事実だけが本物と言わざるを得ません。ですから、心はそんなに無になるものでもなければ、空っぽにならないといけないものでもありません。ビデオ映像に登場されたお坊さんは「」というのを、有る無しの、無い方に意味づけしておっしゃっていることは明らかです。私どもとしては、そのままだけですから、あればあるまま、なければないままなのです。つまり、苦痛があればあるまま、不安があればあるままです。  

 そうしますと、特別に目標とされる良い心の状態、あるいは進歩、向上、発展、治るということを想定することすらおかしいことなのです。禅の話の中には心という言葉は使われてはおりますが、心ということを取り上げる必要はありません。自己意識、あるいは自己像、自分のイメージから離れてただ日常生活をどんどん発展的に向上させていらっしゃるということですべて尽きるわけです。

 き上がってくる感情については十分に味わい、そして知性を働かせたり言葉に置き換えたりするのは心の外の実際の生活上のみになさればいいのです。お釈迦様が悟りを開くまでの六年間を縮めるということではなく、もう今早速さっそく、お釈迦様が明けの明星をご覧になって悟りを開かれたこととまったく同じ意識が現れるのです。 

 体得と言いますと、何かをつかむということが必要なように思われるでしょうが、私どもとしてはそれは意識でありまして、森田療法における全治の状態というのは、人間がれることができない意識のおのずからの変化であります。ですから実生活の真っ只中におれば、十分にどなたもが全治そのものなのです。

 会場から、私が講話で白隠禅師の話をするのを聞いたことがありませんがそれはなぜでしょうか、という質問がありました。これはまったく偶然にこの方のご入院中に白隠禅師の話をしなかっただけのことです。

 白隠禅師は江戸時代初めの偉い禅のお坊さんで、現在の禅宗の各流派とも白隠禅師の流れをんでいるといっても過言ではありません。日本的な表現で禅の極意を体得させることを上手に工夫された方です。坐禅和讃という有名な詩がありまして、その最初は「衆生しゅじょう本来仏なり」という言葉で始まるのです。平たく申しますと、皆さん方は一人残らず仏あるいは悟りを開いた真実に生きる人なのです、ということです。もっと良い心を目指す、まだ不十分、未熟な自分だと思っている人にとっては拍子抜けしてしまうわけですが、これは今日会場に来られている方にとって一番のお土産として大事な意識なのです。治っているか治っていないかはまったく問わないで、答えを出さないまま、大事な必要な仕事を多くの皆さん方に役立つように工夫してなさることが間違いのない全治の姿であります。

 会場から「症状を薬とする」とはどういう意味か教えてください、という質問がありました。これはもうぶっつけに、今気になる、例えば強迫観念などを持ったままという状況を、その場ですぐ役立つ薬と申しただけでありまして、森田先生の「苦痛を苦痛し、喜悦を喜悦す これを苦楽超然といふ」とおっしゃったのとまったく同じことです。

 したがって症状以外のものを薬としてお飲みになるというのはただちに脱線です。そういう点で皆さん方は妙薬を自前でちゃんと初めからお持ちになっていらっしゃるので、飲むか飲まないか、つまりあるがままでいらっしゃるかどうかだけの話です。あるがままでいるということは外へ向かっての働きがあって初めてあるがままの意識がそこに出ますので、それを作ろう、手に入れようというような構えはまったく要りません。

   2016.3.13


宇佐晋一先生 講話

コスモス

 あとで、どのように理解なさろうと、それより先に治ることのほうが実現しますので、馬鹿を見るのは自分についての考えですね。皆さんが、私ってこういう人間だというふうに思っていらっしゃることです。

 今、ある方の手記をカルテに写しておりましたのですが、自分のことばっかり書いてある。自分の思い、自分の気持ち、こうだったああだったという、自分のことばっかり書いて、ここは自分のことを書いたら治らなくなると、繰り返し申し上げていますが、そういうことはピンとこないんでしょうかねえ。

 感心な皆さん方は、この日記に、見たものとしたことだけに限られたこの内容を、けっして自分の心の問題にわたって書き込まないことを、よく第二期のはじめに申し上げておりますのを、毎日よく守ってくださって、それが立派に治っていらっしゃることの始まりですが、ついうっかりすると、自分のことがわかってもらえないんではないかと、そう思われるのかもしれませんですねえ。自分のことがわかってもらえないで、どうして治るだろうと、そう思われるのかもしれませんです。

 自分のことを離れて、はじめて立派な、真実に生きる皆さん方が、即座に、その場で、ここで誕生されるという、すばらしいことが、今日、今晩、ここで起ころうとしておりますが、どなたも考えた自分の、筋の通ったありかたの方を重要視されまして、思い通りの自分の状態が、ここで実現しなければ、自分が生きているということそのものが、無意味なもののように思ってしまわれるんですね。

 もっとも、人生は意味ではありませんから、意味があるとか、ないとかいっていること自体が大きな脱線で、どうでもよい。意味ではない。じゃあ幸福も意味。不幸も意味ですねえ。

 そういうことで、何がどう決まるものではないので、簡単に申しましたら、悩み、神経症、神経症性障害ですねえ。あるいは気分的な困った状態。自分について悲観してらっしゃるというその内容、ことごとく意味でありますから、あっさり今、意味に関係ない生活が、ただちに皆さん方の作業という姿で始まるところに、もう普通、世間の人なんかとても気がつかない、すごいことが起こっているのですが、それを皆さん方が、納得なさらないと、うまくいった感じがしない。つまりよくわかる。納得する。そうだと全面的に肯定される。そういうことが治った状態だと思っておられますから、いつまでたっても治らないわけです。

 治るっていうことは、自分についてのことが納得がいく、つまり意味としてとらえられることと、まったく関係がないんですね。

 非常にきれいにあっさり申しますと、治るということも意味ではないのですから、ただ一重に、実際の生活上の、皆さん方の並々ならないご苦心の、どこまでもその場の必要さに応じてやむをえずそれをやって、その目的を果たしていらしゃることそのものですね。

 森田先生も最後に「ただ働くだけです」といわれたといういい伝えがあります。ごもっともでありまして、実に見事ですね。なにか森田先生が、独特のお考え、思想というものをお持ちになって、それをみんなに分からせようとされたかのごとく思われているのは、大きな間違いでありまして、森田療法というのは思想でもなんでもないのです。

 知ること、分かること、抽象的論理的思考、そういったものから離れて具体的に実際の生活の真っ只中に、皆さんの全治はいつもかも、つまりこの講話をお聴きになっていらっしゃる瞬間にも成り立ちうるものですが、それについて理解、自分の状態を分かるという形に、抽象的論理的に置き換えた途端に治らなくなるんですね。 

 ですから、抽象的論理的思考というのは意味であるためにうまくいかない。今日はそういう説明をしておりますけれども、そんな説明はなくても、実際に働いている姿、生活している姿、勉強している姿、それことごとく全治です。というこの事実は毎回の講話を通じて、少しも変わっていないですね。

 ただ、森田先生の口癖かもしれないですけれども「誰々君分かったかね」と、時々いっておられるんですね。座談会でも「分かりましたか」といっておられます。

 分かるも分からないも、それはどうでもよいのでして、実際のところは、分かったから治るということはあり得ない。まったく関係ない。分かろうが分かるまいが、 皆さん方が今のお仕事に骨折っていらっしゃる。あるいは写経ならその新しい字をお書きになる、その苦心があればもう立派な全治ですね。その他、芸術家としての骨折り、鶴を今まで何度も折っている。何羽も折ったというそれとまったく無関係に、つまり、過去の経験に関係なく今の鶴を折っていらっしゃるという、それが全治でありまして、なにも過去の経験に関係がないのです。

 どうしても、どういうことなのかと、分かろうとされる。それは皆さんの外の世界です。今ここで問題になっているのは内側の世界ですね。それが精神内界ですから、分かることとは無関係です。

 ギリシャ人でしたら、外の世界を大宇宙というのに対して心を小宇宙と、こう見たんですねえ。ミクロコスモス (microcosm)と、こういう。ミクロっていうのは、マイクロバスのマイクロと同じ語源です。ギリシャ語ですね。で、コスモスというのは花の名前だろうと、そう思われるでしょうけれど、もとは宇宙ということです。それが花の名前についたんですね。もっと広い世界のことでありました。

 で、この小宇宙というほど、この心の世界は皆さん方の思いのはて、どこからどこまで、というようなことが決まってないように、広やかではありますが、外のマクロコスモス(macrocosm)大宇宙と同じ論理ではありませんのです。

 外の論理をそのまま、ミクロコスモスの方に持ち込みましたら、何一つ通用しませんのです。それを、自分の心だからなんでもない。昔の言葉でいいますと、組し易し。取り組み易い。とばかりに常識的に自分の心をあつかいますと、さあ大変、うまくいってるようで、わけが分かってるようで全部脱線しますから、解けなくなるんですね。

 ですから自分の心を、どうかしようということは、世間では当たり前でありますが、それが悩みの起こってくる根源。一番の理由であるというところまでは、 世間では気がつかない。という気の毒なことがありまして、皆さん方は今晩それを、はっきり、ここでお分かりになるんですねえ。

 そうしますと、自分のことをいったり、心の問題を取り上げたり、こういうふうにして生きてるんだという、その姿を論じたりされることは、片っ端から、筋の通らない別の論理に引っかかってしまうのが落ちで、それから先、治る気づかいはないですね。

 ですから泥沼に足を滑らせて、はまりこんだようなものですね。あるいは虫の世界では蟻地獄みたいなもので、自分について、あるいは心について、生きるっていうことについて、ひとたびそれに触ったら、なんとかしようとされますと、そこから出られなくなる。這い上がれなくなるんですねえ。

 そういうのを、あたかも病気の苦しさに似ているものですから、病気になぞらえて、神経症性障害と呼ぶわけですね。けれども病気ではありません。これは人間なら誰しも、人間ならっていうのは、チンパンジーはならない。というわけですね。日本猿でもならない。人間が抽象的論理的思考という、言葉と文法を使って、自分を分かったように、自分のことは自分が一番よく知ってます。と、うそぶいて、人がせっかく親切にいってくれても、そういうことには耳を貸されないんですねえ。これ非常に惜しいことであるのです。

 自分のことを自分が分かっている。ということから離れて今晩生活なされば、即座に全治します。真実に生きること間違いなしですね。

 前の院長、宇佐玄雄が書き残した字を、私が昭和三十三年の一周忌に、それをしおりにしまして五枚、お参りに来てくださった方々に、お配りしたんですね。

 その中の一枚に「自然即時入必定」(じねんそくじにゅうひつじょう)というのがありまして、親鸞聖人の「教行信証きょうぎょうしんしょう」 という一番大きな著作、中心をなす、論述されたもので、大部たいぶのものです。四部からなり、教のまき、行の巻、信の巻、証の巻、とありまして、音読みにすると、 教かん、行巻、信巻、証巻といいます。その二番目の行巻ぎょうかんの終わりに、はなはだリズミカルな詞的な構成による「正信偈」 という、浄土真宗の、あるいは仏教の真髄しんずいを述べられたものが付いておりまして、それだけが切り離されて、門徒、つまり浄土真宗の方々のおうちで朝な夕な唱えられている、というものですねえ。

 その中にこの「自然即時入必定」という一句があります。この自然じねんは、皆さん方なら自然しぜんとお読みになる。意味もそれでよろしい。

 皆さん、しかし困ったことに不自然という、自然でないものを反対側に考えていらっしゃるんですね。自然と言ったら反対側に不自然というものを当然お考えになる、これを対立概念という。

 あるといったらない。お天気といったら雨とか、高いといったら低いとかですねえ。反対の言葉で表されるものを対立概念というんですねえ。したがって、皆さん不安で困りますとおっしゃるのは、対立概念である安心を求めていらっしゃる。ということでもあるんですね。

 森田療法では、たまたま、このいい言葉が出ましたので、はっきり申し上げておきますが、対立概念のない状態。これが全治です。

 今晩でも、言葉という言葉、文法という文法を、こと自分に関する限り、あるいは小宇宙、あるいはミクロコスモス、あるいは自己意識ですね。その中に使うことを一切おやめになる。その時はもう対立概念がなくなりますから、皆さんが安心を求められることがなくなってしまう。

 とにかくね、いやなものをきらってなくそうとする。もっとあったらいいと思うものを実際以上に求めようとされるんですねえ。それは、ここにいらっしゃる方々ことごとく共通した心理です。簡単に言えば、良いものをもっと欲しい。悪いものは捨てたい。なくしたい。それが神経症のもとでありまして、外の世界ならなんとかなるんですけれども、心というのは論理の異なる、どうにも普通の考えでは通用しない別の世界ですから、そこへ対立概念を持ち込んで、良いものをたくさん増やしたい。嫌なものを少しでも減らしたい。 なくしたい。そうやっていたら、もうとたんに神経症といわないまでも、悩みがすぐ生じますね。

 誰しも生きるってことを願い、死ぬということを嫌って、これはもう万人共通のり好みです。

 もうおわかりのように神経症というのは、自分の好きなものを増やそう。嫌いなものを減らそうという、その選り好みにあるんですね。したがって、対立概念といいましたけれど、もとはといえばむしろ好き嫌いに関係あるんです。

 好き嫌いっていうことが、人間の感覚に伴う感情として、皆さんご自身で、起こらないようにすることはできません。つまり感覚的なもの、熱いとか痛いとか、つらいとか、辛いというと感情的なものが入りますが、そこに感覚的な純粋に、例えば、なにかにぶつかって痛い。あるいは歯が痛い。お腹が苦しい。といったような、体の外も中もですね、その感覚の起こってくる場所でありうるんですね。 あるいは頭の中で考えるだけでも心が痛むというぐらいですね。そういうようなのが感覚ですが、そこに次は感情が沸き起こります。で、この段階まではとても早いです。

 痛いと思ったら、あっ嫌だなあ。とこう、なんとかしたくなる。で、なんとかしようというのは考えですから、知的なものですね。知能に関係があります。その知能に関係あるところまで、皆さんの頭の中で処理しようとしたらもう失敗するわけです。

 ですから、今までお話してきましたのは、感覚と感情。そこまではもうとても早く来ますから、その次に、なんとかしようというよりも先に、実際の生活に取り組んで、今しなければならない大事な事柄に、手をつけていらっしゃるという、そこで全治するわけですね。

 ですから、自分の頭の中で、どうしようと考え、あるいは言葉と論理を使って自分なりの工夫をする。これ一番神経症のまずい始まりになるんですね。

 そういうふうになるまでの、感覚と感情というのはまさに自然(じねん)、自然(しぜん)であるんですね。もう対立概念も何もない。好き嫌いってことになれば対立概念ですね。そこに、なんとかしよう。楽な方を目指し、あるいは嫌な方を減らす。苦しい方をなくそうと。そのような考えに基づく感情の処理が起こってきたら、もうそこからは治らないです。

 ですからその感覚と感情までのところが、この黒板に書きました自然じねんでありまして、それをそのままで、辛い場合を申し上げれば、嫌だなあ。とかね、 困ったなあ。と、そこまで。これはたまらないとか、いたたまれないとか、そういうもの、これは感情です。そこまでですね、これが自然じねんであります。そしてあとは、すべて実際の大事な生活の方に、進んで行っていただく。そうしますと、 心の問題は、その嫌だなあ。という感覚の次の感情で宙ぶらりんになるんですね。で、その時、宙ぶらりんのまま、これが 入必定にゅうひつじょうです。必ずその、宗教的に究極の状態に入っています。

 必ず、じょう、その定まった決定的な真実そのものに入っています。仏教的にはじょうっていうのは、もう真実です。きわまるということですから。あるいは救われていること。あるいは禅でしたら悟りが現れていること、ですね。それが、なんとインスタントなんですねえ。即時である。この正信偈の素晴らしい時間の表現が、私にですね、森田療法がだんだん治るのではない。と、はっきりいわしめるもとになったんですねえ。

 治られるのは、インスタントである。 このことは他の精神療法の、どれを見渡しても、そんなすぐ治るはずがない。とこういう。

 この間、東京から、わざわざ、マインドフルネス、認知療法の先生が京都へ来られて研修会がありまして、聴きに行きました。それはそれは、何十日もかかってですね、少なくても八セッション。一回の話し合いが一セッション。それを順番に繰り返して行くという、たいへんな操作について説明がありました。

 こっちはインスタントで、皆さん今晩もう治っていただくという以外ありえない。これは「自然即時入必定」という、 これに刺激を受けて私が、治療はもうこうであるほかはない。皆さん方は病気でいらっしゃれば治すのに手間取りますけれども、病気の感じだけで困っておられるんですね。それは、自己意識の中で、考えが皆さんを、自分自身を救おうとして組み立てられていくということの失敗です。

 ですから自然じねんというのは感覚と感情ですね、そこまでです。その次の段階の考えは外に使うもので、皆さん方の取り組まれるお仕事や勉強、生活の上に十分に発揮していらっしゃれば、もう立派なものです。これありがたいですねえ。自然即時入必定じねんそくじにゅうひつじょう

 このインスタントさっていうものは、科学者で心理学者でいる人達は、とても分からないです。ところが宗教っていうのは、よくそこまで思いついたというほど、このインスタントさをよく見極めて人を救うんですねえ。

 自分をどうしたら良いかということに、答えを出すことのない状況をつくったら、もう皆さんは全治なんですからね。

 長野市、信州長野の善光寺、ご存じの。 これは今でいう大阪湾。昔の難波なにわで、阿弥陀如来と両脇の観音、勢至菩薩(せいしぼさつ)。立っている姿だと伝えられる。それが引き上げられまして、それを本田善光という人がもらい受けて、そして今の長野県まで持ち帰ったんですねえ。そこにお寺を建てたのが始まりで、本田善光の名前をとって善光寺というのです。

 善光寺の本堂の床下に「戒壇かいだん巡り」という真っ暗な曲がりくねった道が作ってありまして、私もそこへ入ってみましたが、右に左に曲がっているんですね。もうほんとに真の闇でありまして、次々、 トントントントンと段を降りて床下へ行くわけですが、人が続いていますからね、 他の人の後に続いて行くわけで、それだけは心強いです。けれどもあれが一番最初であったり、一人だけだったら、ずいぶん心細いだろうと思うんですね。右手で触っていくわけです。左がどのぐらい幅があるかわからない。で、曲がりくねっておりましてですね、中ほどまで行きますと、みんなが、ガチャガチャガチャと音を立てているんですね。このマイクロフォンぐらいの大きさのものが、壁についている。真っ暗なのでわかりませんけどね。こう歩いていくとしますとね、ここに、私の感じでは壁についている。皆これ、ガチャガチャとやって音を立てているので、ははあ、そういうものがあるのかと、こう思うんですね。

 で、前の院長、宇佐玄雄が、あれは神経症を治す極意ですと。私が何度も聴いた講話では、唯一それのみが、前の院長が極意といいました。不思議なことをいうもんだと思いましたですね。

 それで昭和三十二年の秋に、もう前の院長がその年に亡くなったんですけれど、その長野の善光寺で、日本精神病理精神療法学会が開かれまして、今は、なんとか会館とか、なんとかホテルで開かれるのが通例です。例えば国際会議場とかね。ところが、その昔は善光寺の宿坊しゅくぼう、つまりそこへ、その信者の人、檀家の人がお参りに来て泊まるための宿泊施設があるんですね。そういうところを借りて、医学の学会を開いていたんです。昭和三十年代の初めというのはそういうものでした。

 それで、学会が済んでから、それは夕方で、あくる日、これだけは是非行っておかないといけないと思いまして、そこへお参りに行ったんです。

 そうしますと、ここに、こう降りていく階段があって、それで、こう曲がってるんです。私の見たところ、中へ入った感じでは、坂はありませんでした。真っ平ら。そういうふうにして、皆目何もわからないところを行くということは、考えが役に立たないということですね。常識が何にもならない。まさに前の院長、宇佐玄雄のいおうとしたのも、考えてうまくいくものではない。ということです。ただ、右手と両足が頼りですね。つまり、実際の生活なんですね。

 皆さん方の治療、あるいはご自分についての治療、あつかい、というものは、もうことごとく考えによって、やっておられるんですねえ。それで失敗する。考えを離れて、生活を純粋になされば、もう今晩、全治疑いなし。間違いないですね。それが親鸞聖人の自然じねんなんですね。

 ですから、全部一通り歩かなくても、一歩進めれば、それで全治なんですね。本当いえば。

 最後の二つ曲がるところの、一つ曲って、ちょっと行くと、ポーっと、薄明かりが見えてくるんですね。それはもう、ホッとしますですね。そこからトントントントンと段を上がって外へ出るんです。

 それで、私が講話で、たいへん良かった。これはもう神経症を治す極意である。というふうに申しましたらですね、奈良県の王子町、大阪府との境になります、法隆寺から南西ですが、そこから山に登りまして、朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)。こんな長い名前の寺は他にありませんですね。そのお寺は、信貴山という山の上に立っているんですね。世間一般では、朝護孫子寺というお寺の名前より、信貴山というほうがお寺の意味でいわれています。

 で、三省会でそこへ行くことになったんですねえ。どうしてかといいますと、そこにありますというニュースが入ったんです。それなら行きましょうということで行きました。行ったのは良かったんですけど、まるで違うんです。長野の善光寺は皆目わからない。真っ暗。信貴山は蛍光灯がついてるんです。足元にね。全部、曲がりくねった廊下が、足元を照らされてるんですねえ。これでは前の院長がいった、神経症を治す極意とは到底ならないですね。分かってしまうんです。

 それから、私は知りませんが、なにか近畿地方で、またもう一箇所、そういうもののあるお寺があるということを聞かせてもらいましたが、もう、その、ポーっと明るいような装置があるようなところではもう、皆さんにお勧めするほどのものではないんです。

 で、こうして、肝心なことは、自分、 心、あるいは生きる、というこの姿に 皆さんのお考えが引っ付かないように。 これはこういうことなんだなあ。つまり 「こと」として皆さんがおつかみにならないように。心とか、自分、生きる姿は 「こと」ではない。さっきは意味ではないと申しましたようにね。

 ですから、どんな説明をしても、皆「こと」になりますので「分かりました」というのは、すべて治ったことにならないのです。

 それに反して、皆さんが今晩、一生懸命、作業なさった。これは見事に「こと」 を離れている。「考えた生きること」を離れた実生活ですね。実際の仕事ぶりですから、これはよっぽど上等です。ですから、分かることを先にしようとすることほど、馬鹿げたことはないのですね。

 マインドフルネス(Mindfulness)というのは、意図的にですね、つまり、わざと皆さんが、この瞬間、意味付けをなさらない。わざと意味付けをしないで、 この瞬間にこうであるという状態。それを指して、マインドフルネスとこう呼んでいるんですね。そこへ認知療法が引っ付いてきたんだそうです。認知療法があって、その中にマインドフルネスというものができてくるのを目指すのではない。と、この間、東京の先生が一生懸命いっておられました。

 意図的にですから、私にとっては「考えが働くなあ。だからだめだなあ」と思って聴いてたんですけどね。ここ(三聖病院)のは皆さん方の考えによって、こうだああだという工夫が、心に行われたらもう治らない。ですから皆さんが作業に骨折っておられる瞬間、瞬間というのは、ご自分の方に工夫が向かないんですね。ただその仕事に 一途に骨折ってらっしゃる。世間ではそれを 集中といいますが、集中という言葉は使わない方がよろしいですね。集中というのは考えになってしまう。どうしてもなかなか集中ができない、というような。

 考え、集中はどうでもいいのでして、 いろいろ気になることがあるままで、今の、とりあえず目の前の仕事に骨折って進んでいらっしゃる姿。それでここは全治なんですね。マインドフルネスというようなものが、あろうがなかろうがどうでもよいのです。

 森田療法では、意図的にということが何もないですね。あるがままは、これからあるがままにしましょうというような、皆さんにお誘いすることがない。意図的に、こうしましょうというのではないんですね。そこが大きく違います。いわば、手間ひまのかからない、ただの放ったらかし。が、あるがままです。言葉のない、文法のない状態が「あるがまま」ですね。したがって、世界のどの精神療法も、これに追いつくことはありません。

 言葉のない、文法のない精神療法というのは、今まで、一度も聞いたことがないです。精神療法というのは、もう三百もあるという、世界に。人によっては四百もあるという。ま、それは色々な治し方が、工夫一つで生まれてくるんですねえ。その治そうとする工夫がいけないのです。

 こうしたらいい。自分の悩み、考えなどを風呂敷に包んで、ぽいと、川に投げ捨てる。という、皆さんお笑いになるかもしれませんが、そんなことまで大真面目に心理学の学会ではいわれていて、ある年の学会で、三つや四つ新しい治療が出てくるのが普通だそうです。みんな考えるんですね。ところが、どれもこれも考えによる治療ですから、私どもの事実による治療と違う。ここのは事実による治療でありまして、考えというものが引っ付きません。考えは皆さんの外に使う。

 今日お話してますこと、さっきお話したことを絵にしますと、感覚、そしてやがて、というよりすぐ感情、好き嫌いですね。そういうふうに、パッと変わるんです。痛いといっただけで、すぐ感情が起こるんですね。その次に、思考、つまりこれがこうだからこうしたらよい。あるいはどうしたらよいか。という、当たり前のように思っておられますけれども、論理の異なる自己意識の世界でこれをやったらもう、脱線するのに決まってるので、ここで止めなければいけないですね。この自己意識の思考はだめで、思考は皆さんが、外の他者意識の世界へ、十分、いいお考えで仕事に取り組まれる。あるいは勉強なさる。生活なさる。それが全治なんです。これ非常に簡単でしょう。

 感覚と感情はもう、そのまま放ったらかし。良いも悪いもないです。その次に、どうしようという時に、すかさず、外の今の生活を始めてしまわれれば、もう全治なんですね。これが インスタント、 即時入必定ですね。自然じねんというのは、まさにこれが自然じねんなんですね。しかもほかならぬ「あるがまま」なのです。

 皆さんに、はっきり申し上げておかないといけません。いや、多くの心理学者にもいっておかないといけませんが、人間の知能というものは、外向きの仕組みであるんですね。これが、よく知られた事実であるにも関わらず、心理療法、精神療法では、ころっと、みんな忘れてしまって、一生懸命、心の問題を、人間の言葉、考えで解決しようとするんですね。これ大きな間違いです。

 ですから、精神にはいろんな働きがありますが、精神の外部機構っていうのは外向きの仕組みである、ということです。これは、人間の知性、あるいは知能、知的な働き、知ること、分かること、納得することなど、知的な働きを、自分、心、生きることに使うということは、使い間違いであるんですね。私だけがいってるのではなくて、ちゃんと心理学の教科書に書いてあるんですね。みんな忘れてるだけです。で、馬鹿なことをしているんですね。

 精神療法というと、カウンセリングかしらとお考えになるかもしれません。カウンセリングというと、一つの心理療法のあり方でありまして、一生懸命、悩みを聴いてくれるカウンセラーという人がいて、べらべらしゃべらせている。それが傾聴だという。その人の悩みが大事だから解決するっていうのは、良いことのように聞こえますけれども、その人の知能を自分のために使ってるわけですね。自分の説明ばっかりするのに使ってる。治すためにやってるのかもしれませんけれども、治らないことを決定的にしている。という馬鹿げた行為であることは皆さんお分かりのとうりですね。

 こういう説明をしたら、なんと世の中で馬鹿げたことを推奨すいしょうしてるなあと、お分かりになりますね。心理療法と称して、心の悩みを聴いてあげますというのは、なんという不親切なことでありましょうか。

 そういうことです。今日は、このへんで講話を終わります。

   2013.9.13


宇佐晋一先生 講話

願ワクハ婆子 永ク苦海ニ沈マンコトヲ 



 たぶん参考になることを聴く機会だろうと。講話を聴いて、それをヒントにして上手に治していけば、治るということも競争で、早かったり遅かったりするだろうと。それ全部間違いでありまして、第一ヒントではないんです。講話は学校とか塾とか講演会の会場のように見えますから授業ということを考えたり、今まで知らなかったことを勉強したりというふうなことを雰囲気から感じてしまわれるでしょうけれども、それが一切ないというところにここの講話の大きな特色があります。

 それは一番最初から申し上げておけば、きっとお役に立つことは、わかって治るということがない。ということで、もっとほんとのことをもうしますと、治そうとする前に治っている。治そうとしたばっかりに治らなかった。という、このへんのところを、なかなかのみこみにくく思われるでしょうけれども、自分に関わったらいけないんですね。自分の考えが自分をなんとかしようという、いちばん助けたい自分のこの不安を解決したいという願い。これは共通してどなたもお持ちになっていらっしゃるわけですから、つい手が出るんですねえ。ところがそれを最初にするともういけませんので、まず生活を先にする。それはみなさんのお食事が生活ですね。顔を洗うこともそうですね。

 夜の10時、木の板を上手に叩いていただいておりますですねえ。お一人お一人叩き方がこう、リズムも変わっていて、それ自体独特の趣きがあります。独特というのはその方なりの趣きがあります。

 昔はね、午後9時に東福寺の僧堂で同じように木の板を叩いておりまして、それはあそこは早いのでここは10時ですけど9時に消灯なんですね。それを枕を開くと書きまして開枕かいちんというんですね。その音が私が窓を開けておりますと聞こえたものなんですねえ。このごろほんとに世の中が変わりまして、本当の話と思われないでしょう。もっと不思議なのは、みなさん夜の何時かに、ゴーンと鐘が鳴るのを聞いておられるでしょうか。とくに不眠の方なんかお困りであろうと。常識はずれですね、真夜中に鳴らす。しかも一回や二回ではないですからね。不眠の方によくその鐘の音を聞きなさい。数えなさい。何時から何分から何分までか、それもよく調べなさい。といってますと、いっこうそれにお返事がない。つまり、そんなの聞いておられないんですねえ。不眠で困っておられるぐらいなら、そんなのはなんでもないと私は思いますけども、まともに答えた人はない。

 あれなんかどう考えてもおかしいですね。なぜかといいますと、この東福寺の開山 聖一国師、聖徳太子の聖と数字の一、二、三の一を書きます。日本で一番最初に国師という号を皇室からいただいた人です。

 その聖一国師が、それより先にみなさん教科書でお習いになった栄西、栄えるという字と西と書きまして、栄西禅師が臨済宗を中国の僧から伝えましてですね、建仁寺というお寺を開きました。ところが建仁寺、栄西禅師のあとを継ぐ人が一時途絶えた、いなかった。それで聖一国師が東福寺から応援しておられたんですね。東福寺のお弟子の雲水の人たちを指導して、そのあとここから出発してですね、約3.5キロあります。真北ですけどね、そこへ歩いていかれたんです。その今から出発されるという合図を東福寺のお弟子のお坊さんが建仁寺に知らせるために、ゴーンと撞いたんですね。ほんとによくそんなばかばかしいことをよくやってるなあと、今眠ってる人の目を覚まさせるようなことですからねえ。やめてもいいと考えますけれども、伝統を守っているんですね。そんなことしているお寺はほかにありませんです。たいへんばかばかしい伝統でありまして。で、たぶん真夜中になりますから建仁寺で泊ってあくる日帰ってこられたんだろうと思うんですね。そういう二つの僧堂をかけもちしておられた聖一国師の出発の合図であるというふうに伝えられています。

 で、ある時、あまりにやかましいので、ここに入院している人が、もうちょっとなんとか静かにいていただけませんでしょうか。といって、ちょっとお菓子持ってたのみにいかれたそうです。不眠で悩んでおりましてですねえ、せっかく入院したら真夜中にゴーンと鐘を撞かれて困っております。で、今晩こそたのみに行ったので静かに小さく撞いてくれるだろうと、こう思ってましたらですねえ、かえっていつもより大きくゴーンと撞いたんですね。まあ笑い話なんですけれども、その人は期待が大きい、今日こそはたのみに行ったから小さく撞いてくれるだろうと思っていますね、そこに刺激は同じ刺激であってもきつくこたえるんですね。

 ですから皆さんがこうしたら治るだろう。こういうふうにもっていったら早く治るだろうと、そういうふうに症状に対して期待しておられるということは、その反対の結果を敏感に強く感じるという逆のことになるんですねえ。ですからそういうことはむしろもう期待をなさらずにほうっておくと。ここで今申し上げているのは森田療法がうまく効くかどうかですね。半信半疑で、こんなんで治るだろうかと思っておられるんですね。

 三省会の方がですねえ、もうとうてい長生きできない。治るとは思っておられなかったんですねえ。ですから私がいくらお話しても、こんなもんで治るだろうかと思ってたそうです。それがなんと入院して10日たつかたたないかで今までところっと変わってしまって、おうちの人が面会にみえてびっくりされた。

 それぐらい人間の意識、これ意識に関係のある問題ですからね。どこかが故障しているような本当の意味での障害といわれる状態ではありませんのです。強いていえば主観的障害ですね。他の方からは元気に見えて、皆さん方だけがこんなに悪い。こんなにつらいと言っておられるようなものです。ですから自分で見た自分というものをもとにすえて、そこから割り出した治し方は全部失敗に終わります。じゃあ客観的にはどうかといいますと、まったくどこも悪くないんですね。 

 ということで、治すという言葉がもうそもそも当てはまらない。普通の病気なみに全治とか完治とか治るという言葉を使いますけれども、これは不健康な状態が健康な状態に変わるという意味のものとしてお受け取りになると、まるであてが外れますですね。もっと正確に言えば、いまのは考えた人生、考えた心、考えた自分、なんです。それは世間の人ほんとに気がつかないですね。

 みなさんこれマイクロフォンと思っておられる。マイクロフォンでないものが見えない。「これマイクロフォンじゃないですか」と、こうなるんですね。ですからマイクロフォンでないものが見えたらもう今晩見事に全治なんです。

 そいうふうに人間は今まで憶えたものの名前、それから機能を考えでとらえていますから、それを離れたらもう分からないようになってしまう。言葉をとってしまったら、なにがなにやらわからないようになってしまう。ところがこれははじめから言葉がないものなんですね。

 今とにかく、これはマイクロフォンだという認識ですね。簡単に言えば、そのように分かるということから離れてこれをご覧になることはいともやさしい。

 私は真実に生きるというのを言葉としては治るというよりもよいと見てます。ただ真実というのは言葉であらわしたものではないんです。ぶっつけの、これ。つまりマイクロフォンでないものが真実なんです。しかし皆さんはマイクロフォンという言葉でこれを見、これを知ってしまわれる。それで治りにくいんですね。ですからいっぺん言葉を外して生活なされば、この神経症、悩みの問題はいち早く簡単に解決します。

 東京の週刊誌の人が、昨年森田療法について聞きたいと言って長い時間一生懸命書いて帰られた。それで、待てど暮らせど9月に見えて、いくら待ってもその週刊誌を送ってこないのでどうだろうと思いましたらね、昨日電話がかかってきて、どうしてもうまいこと書けませんでした。ということで、もうこれで9カ月たちますねえ。それでもういっぺん補足的に聞かせてもらって書きたいですと。まっ、熱心なことは大変結構で、待ってるわけですが、その間に勉強したんだそうです。森田先生がいらっしゃった慈恵医大の森田療法センターに行っていろいろ教わってきました。つまり教わるといろんなことでまた書き方が変わってくるんですね。ここだけでしたら非常にまとめやすいはずですけれども、ちよっとその、皆さんが本をお読みになった森田療法と違いますわねえ。森田先生の本来はっきりさせようと思われた事柄が、今は分かる形に置き換えられて、その意味では勉強しやすい。森田療法が分かりやすいんですけども、治す上には大変妨げになる。これをマイクロフォンといって解決しようとしているような、かえって難しくしてしまうものがあるんですね。

 外の問題は名前がないと区別しにくい。それをどうするこうするという問題も、共通の呼び名としてこれはマイクロフォン、とこういうことで話がうまく進むわけですね。けれども、それと同じことが自分の問題、心の問題ともなりますと、その名前を決めたことで動きがとれなくなる。

 よくお話をする平常心、お坊さんが「びょうじょうしん」と言われますが、そいうものがあると思ってしまうんですねえ。非常に辛い、イライラして落ち着かない。これは平常心を取り戻さないといけないとか、なにか平常心というような心があるように思えてしまう。それは言葉で決めたからです。平常心というもの、特定のものがあるのではないんですねえ。その時ありあわせの心、今ある皆さんの講話を聞いてくださっているその心が平常心でありまして、決して平常心と非常心、まっ、そんなこと言う人はいないんですけどね。普段の心と非常、つまり普段でない心、普段どうりでない特殊な状況における心というものが別々にあるのではないんですねえ。ですから心はなるとうり、変化のまま、ただほっとくというだけの話であるんですね。

 長い日本の伝統で心が大事であるというふうに言われ続けてきたもんですから、皆さんこそ迷惑しておられるんであろうと思うんですねえ。心なんかどうでも良いといったら世間では常識のない人である。不埒な人間である。心を綺麗にして磨くぐらいにしないといけないのに、どうでもよろしいというのは困った人間だというようなもんですねえ。ところがここはそれを承知で心は蜘蛛の巣が張っててもよろしい。埃が1ミリメートルも たまっててもよろしい。よろしいというのは良し悪しがないという意味です。心は関係ないんですねえ。

 心というのは自分で見た自分の状態、あるいは人がこう見ているだろうと、これ自己意識と呼んでおりますが、その内容は決して向上させるべきものではない。ただ一切手出しをしない。その成り行きのままに手を引いておく。あるいは負けておく。成り行きのままのときが真実に生きる見事な状態で言葉が引っつくともうだめなんですね。

 今日入院された方が第一期、半日入院してから横になってやっておられて、自分は犬を飼ってますと、で、犬が繋がれて何もなかったら寝ている。ということを思い出した、というんですね。第一期療法で寝てばかりいたら辛い、退屈なことに違いないですけど、犬を連想されたというのは面白いですねえ。

 そうなんです。犬は言葉を知らない。ただそういうふうにこうしなさいとやっている。で、犬を人間は思い通りに命令してそうさせようとします。お座りとかお手とかなんとか。それからお預けとかいって美味しそうな食べ物を目の前においてよだれ流しながら待ってる。というような、感心な犬だ。飼い主のいうことをよくきく。とほめたりして犬も辛いことですが、テレビでお預けといってからぱっと飼い主が部屋を出る、そこをテレビで写している。という実験を見ましたが、やっぱり犬も主人がいると守りやすい、ですね。守ってるんです実際。ところが主人が部屋から出て、言われたことを忠実に守って食べないでいるという犬は少ない。やっぱりその、時間が経てば初めは守ってるんですけど時間がたつと食べてしまう。そういう非常に参考になる実験をテレビで見たことがあります。別に犬が悪い訳でもなんでもない。

 で、その、皆さんにしてみればしたいことをしない、ですね。したいことをしないということはお預け的であるんですね。第二次大戦後の日本で流行ったアメリカ流の心理学の言葉に、フラストレーションという言葉があって、これは欲求不満と訳された。いかにも手に入りそうに見えていて、あるいは他の人は持っている一般的なものであるのに自分には手に入らない。で、それは品物と見てもいいですけれども、心というふうに見て私らの先生は、みんなが戦後にだんだん物質的に戦争中のようなことがなくなって、こう豊かに手に入るようになってきて楽しんでいる、ところが自分は不安が強くてどうも楽しめない。そういう形で神経症が起こるというようなことを考えておられて、まっ、私はそう考えていないんですけどね。それも一つの理由、戦後に神経症、今のうつ状態が大変増えてきていることが憂慮されていますように、第二次大戦後はその神経症をドイツ語でいって、「ノイローゼ」が増えたと。それは非常に心配されたことであって、この私の先生の教授は手に入りそうだけれども入らない。欲しいけれども手に入らない。そういう欲求不満で起こると、こういういうアメリカ流の心理学を使って説明をされたものです。

 ところがですね、どうしたら治るかということばっかり考えてその治療の責任のある実践者として、私はしたいことをしない稽古をここでしてもらってたんですね、それできれいに治られた。

 今は薬があれもこれもいっぱい皆さんのお役に立つような顔をして出てくる。しかもそれを抗不安剤、抗不安薬。どっちでもいいんですけど人によって呼び名が統一されていません。そうすると不安が消えればいいと、こう思ってしまってそっちの方に流れる。治療の主流がそっちにいくんですねえ、楽になればいいと。これでは本格的な治療にはなりませんのです。で、ここは抗不安薬ができる前から、昔いい薬なかったんですよ。それで、ちょっとましな薬が出てきたのが昭和28年、9年といったあたりですね、でも一般的ではなかったんです。そういう昔は精神安定剤といっていた、そういうものを健康保険で使うというのはそれなりの理由がないといけなかったんですねえ。今はもうなんということもなしにどんどん使っていますし、いくら薬を使っても抑うつ状態、うつ病や、気が沈む状態の人が治ってくれたほうがいいと、薬をいくら使ってもいいから治ってほしいと。

 ちょっと自殺の傾向が減った。この上半期ですけど、6月いっぱいまででちょっと減ってきたのは大変結構なんですね。けれども減ったといいましてもその2倍、つまり1年に置き換えますと、やっぱり3万人を超えているのには変わりがないんです。ほんとにこれは心配なことですねえ。

 で、その、本当は薬がその人を楽にする。ということが悪いんだと言いたいのですけれどもねえ。つまりね、人間は楽になると、その反対がものすごくこたえる。薬で不安が消える、楽になる。といっている間はいいんですけども、そうでない状態に対して敏感になる。不安に対して敏感になる。恐怖に対してますます怖くなる。

 ところが森田療法はどうでしょうか。もう皆さんお分かりのように安心と不安を同時に解決するんです。これ東京から取材に来てくれるという週刊誌の人に今度はよくいっておかないといけないんですが、今ここでは安心と不安、不安対安心ですねえ。ところがこれ世間でいえば生と死の問題。

 今、自殺のことを申しました。生と死というその死ぬ。ということ何が何でも防がないといけないと、こうなるんですねえ。そしたら生。生きていくということについての、まあ私からいわせたら解決ができてない。皆さんについて申しますと、不安をなんとか薬でなくすということができても、安心についての解決ができていない。というふうなことが申し上げたいんですねえ。

 なんでうつ状態が増えるのかというのは、薬に責任があるかもしれない。と密かに思っているんです。つまり楽になるから、ですね。もうはっきり私の主張を申し上げれば、皆さん方ももっと苦しまねばならない。といえば神経症は絶対成り立たないんです。

 もうちょっとでよろしいから苦しんでくださいと、まっ、誰かがいう。いう人はいないんですけど、まっ、私がいうとして、ですねえ、明日は今日よりもうちょっとでよろしいし、苦しい状態になってくださいと。そうしますともう神経症自体成り立たない。どう治すかどころか、あれっ、神経症なくなった。というようなもんで、これが生と死を同時に解決するやり方、ですね。つまりね、楽になるということだけを目指すと、安心も不安も非常に際立った違いとして、要するに安心と不安との比較がこたえるわけです。それを片方の不安だけをきれいに無くそうということになりますと、かえって安心がうまくいっただけに不安がひどく目立ってくるんですね。楽になることばっかりがうまくいくんです、ということになりますと、うまくいかないとき、苦しい状態、辛い状態というものが非常にこたえる。そうしますと、もう生きてるのが辛い、と。それはそうなりますわね。今本当にそれがわかってくれる人が、皆さん方はここでよくわかってくださいますが、少ないですね。

 これだけ皆さんに一生懸命お話し、聞いてくださってありがたいんですが、退院される方が日記に「まだ不安がすっかり消えたわけではありませんが」と書いてある。この程度なんですねえ。人のことをいって悪いんですけども私にしてみたらがっかりですねえ。まだ不安は完全に消えたとはいえませんが、というような、何をいっておられるんですかねえ。

 おとといは月曜日ですか、その前の日曜日に、「苦痛を苦痛し、喜悦を喜悦す、これを苦楽超然という」という森田先生の掛軸、書かれたものを持ってきてご覧いただいたんですねえ。そのあとの日記にそう書いてある、なんということでしょうねえ。まっ、言い換えたら不安が消えたら退院しようと思っておられるんですねえ。

 で、そういう考え方は世間一般にあるわけです。ですから抗不安薬、抗不安剤で不安をとりあえず楽になくしてしまうと。不安をなくしてしまったらそれでいいと。世間の人は非常に短絡的にそう思うわけですねえ。ところがここは、そのようなことをいいませんでしょう。不安を消しましょう。不安を薬飲んでもいいから楽になくしましょう。不安を目の敵にしてなくそうとする、というようなことはここはないですね。

 それでそういう考え方。つまり、不安を薬を使わずに上手に消せないのでまだ完全に消えたわけではありませんが退院します。というのは本当にもうかないませんですねえ。森田療法を受けましたとはとてもいえませんですねえ。

 中国の唐の時代といいますと、618年から907年までですねえ。その終わりの頃に趙州禅師という人が出て、これは普通読むときは、ちょうですね。ですけどこの人の呼び名だけは、じょうと読む。趙州観音院というお寺に住んでいた偉い禅の先生で指導がうまい。この講話でも一番よくその話が出てくるかと思いますがねえ。一般の人とのやりとりが話として残っている。

 鎌倉の松ヶ岡文庫。鎌倉の円覚寺の門より前に東慶、東という字と慶応大学の慶を書きまして、東慶寺という駆け込み寺で有名な所があります。

 前の院長が医者になったものの貧しい僧侶でありましてですね、どうしたものかと困って鎌倉円覚寺の管長でした釈宗円老師がインフルエンザで大正9年、8年に猛威をふるったインフルエンザ、9年まで続いていたんですねえ。東慶寺という円覚寺から離れたところで静養しておられたんですね。そこへお伺いしてどうしましょうといいましたら寺を出なさい、といわれた。それでこの病院ができることになったんですね。お寺で細々と診療所でもやってたらとてもうまくいかないんですけど、まっ、大本山東福寺のたいへんな後押しがあるということはもう感謝にたえませんですね。

 その東慶寺で松ヶ岡文庫という鈴木大拙先生が禅関係の書籍を多く集めておられましてですね、東慶寺の側に住んでおられたんです。そこに趙州禅師語録というのがあって、うらやましくてしかたがなかったんですね。その鈴木大拙先生の口語、つまり日本語でも読める形にして出版されたんですね、たいへんうれしく思いましたものです。ですからあんまりよく読んだら和綴じの本でね、紐で綴じてあるんです。その紐が切れてばらばらになりかけている。まっ、一番よく読んだからですね。

 そこにどのくらい年取ってるか知らないんですけれども、お婆さんと書いてある。その女性が趙州禅師のところへ訪ねてきて、男の人に比べて女性は五つのハンディキャップがあります。生まれながらに人生的に負担が多いということですね。五障、障害の障ですねえ、生まれながらにこういう差し障りが五つあります。つらいことです。どうしたもんでしょう。と、趙州禅師に尋ねたんですね。

 こういう話は趙州禅師語録、非常に特徴的でしてねえ、とっても参考になるんです。他の禅の偉いお坊さんの語録というのはそういう一般人との関わりがまず少ない、書いてあるのが、ですね。

 そしたら趙州禅師が、願わくはお婆さん、どうかお婆さん、永久に苦しい海に沈んでいてほしいものです。と、えらいことをいったんですね。
 「願ワクハ婆子、永ク苦海二沈マンコトヲ」と。
 「五障ノ身、如何二シテマヌガルルヲ得ンヤ」と。どうしたら逃れることができますかと、こういってるんですね。そしたら趙州禅師が、「願ワクハ婆子」 婆子っていうのはお婆さんと、呼びかけているんですねえ「永ク苦海二沈マンコトヲ」と。

 これは絶対神経症が成り立たないんです。さっきお話したことですねえ、どうしたらこの辛い状態をまぬがれることができるでしょうか。と、やってる間が神経症あるいは悩みであるんですねえ。趙州禅師のほうはもっと苦しまねばならない。ということをいっているんですねえ、そうしたら悩みも出てこない。神経症も成り立たない。治すことが問題ではなくなるんですね。

    2010.7.7


宇佐晋一先生 講話

自己像が脱線のはじまり 



 今晩、この講話が終わるまでに本物を体得されますのにお役に立つ大事なことを申し上げます。

 毎回、大事なことをお話しているのですけれども、どうもその見当違いの話のように思われて、もっと具体的に何がどう楽になるのかという、その話をご期待になる皆さん方からすれば抽象的に思われるかもしれないですね。

 私の話は抽象的なものでない。という点で、もうなによりも抽象的でない。つまり事実を指して申し上げておりますだけで、この抽象的、つまり皆さんが「あっそうか」というふうに納得される、そのピンとくるとかですね、「今日やっとわかった」というふうな種類のものは皆、抽象的である。あるいは学校の授業はもう小学校の1年生からして抽象的であるんですねえ。

 そういうものがないのが特徴でありますから、皆さんが抽象的でないものとしてお考えになる具体的なものですね、そういう何かの事実を示せといわれたにしても、私からすればそれは呼び名、あるいは状況の細かな説明とか、これがこうなっているでしょうという、その解説ですね、そういうような皆さんが期待されるようなものさえも、私どもからすれば実際から離れた抽象的な事柄であるというふうにみるわけですね。

 ですから言葉を使って説明している限り、それはこの講話では置き換えで、事実のままではないんですね。

 言葉、この場合日本語ですけど、日本語にいくら英語やフランス語などの外国語を織り交ぜて皆さんがお使いになったとしても、それはその言葉で説明する段階で事実から離れてしまっておりますので、もう抽象的だとこちらからはいわなければならないですね。

 森田療法っていうのは、非常に、結果的に皆さんこんな簡単なものかと。前の院長の言い方ですと「ああ、なんと楽なもんだなあ」とこうなりますと。それは皆さん今、考えて一生懸命この講話の内容を、肝心なところを見極めようと待ち構えておられますから、いわばご自分から抽象的に結論を上手につかもうとかですねえ、あれはきっと何かヒントを分からせようとしているんだろうというふうにおとりになったりして、それを要領よく、ぱっとつかもうとか、こう思っていらっしゃるんですね、そういうのはことごとく事実ではありませんです。

 ですから、森田先生がこうおっしゃいましたという形の講話は無難ではありますけれども、ことごとくそれは日本語に置き換えた、肝心なものからはずれた事柄で、それでいわば森田療法の本を一冊読めば治るだろうと、たかをくくっていらっしゃる、それが絶対そうはいかないんですねえ。

 森田療法の本なら良い。ほかの療法の本はお勧めしません。と、私がいってると思われるかもしれませんけれども、ここで一冊も森田療法の本、ことに私の関係しました本など、一切 皆さん方におわかちしないですねえ。

 とても心配されまして、この近所にここから300メートルほど北に本屋がありますけど、そこにわざわざ注文して私の本をお読み下さった。という方がおられましたが、私が皆さんに読んでいただかないようにしているのは、特別の考えがあってしていると思われたのかもしれませんが、考えというものに関係のない治り方が本物なんですね。ですから、私の本なら読んでいただいたら結構です、というようなことはないわけです。

 結局のところ、どの本も皆同じことで、そういうのを抽象的論理的思考といいますが、言葉に当てはまらない説明はないわけでして、これがだめ。といっているんですから、どこのどなたが上手に説明されたにしましても、それはここで全治の太鼓判を押すわけにはいかないんですね。

 極端なほうが早くお分かりいただけるでしょうから、短くはっきり申しますと「治りました」ということは抽象的論理的思考によるわけです。じゃあ「治りません」はどうですかと言われるならば、これも抽象的論理的思考にあてはまるんですね。じゃあどっちがどうなのかというと、どっちもだめっていうことです。

 これで、だいぶ本物に近いんですけれども、いかんせん、この私の講話が日本語あるいは言葉を使っておりましてですね、この講話をお聴きになる限り、皆さん方の優れた大脳の作用は、抽象的論理的に事柄を受け取ってしまわれる。

 そういうふうに、もう皆さんが小学校へ行かれる前から、幼稚園とか保育園とか行かれる前から、もう出来上がっているわけですね。で、それを今更 改めていただくというわけではなくて、それはほっとくわけです、この森田療法では使わない。で、新しい何かをしなさいと申し上げたら、皆さんも困られるでしょうけれども、ほっとくぐらいのことはどなたでもお出来になる。何もしないという、自分に対して言葉を使わない。文法を使わない。なんにも自分を言葉で決めることがないんですねえ。

 で、そうしておいても頭というところは、次々と考えを一人勝手にいろんなことを次々考えてしまうところでありまして、そういう出てくるものを、これを防止することはできないんですね。医学的にいえば予防という形にもっていくわけにはいかないんですね。したがって皆さんの頭、大脳の働きに責任ある。ということはないんです。そこでこればかりは全くのご自由でありまして、こういうことを考えるのは好ましくない。と、ご自身が思われましょうとも、こちらからは何をどうお考えになろうと良し悪しがない。これが徹底した頭の働きの扱い方ですね。そうしますと、新しく言葉を見いだし付け足して、一つの皆さんの治療に役立つお考えというものが出来上がってくるのを助けることはないですね。これが申し上げたいところで、皆さん方のお考えを側から助けているということはないんですね。

 むしろ、どのようなヒントめいた、キラリと光るお考えも採用することがないですね。「あっ、これだ」というその決め手がない。あるいは、あったら脱線。

 そこまで申し上げて、これからは言葉のない精神生活と皆さん方に治療の第1日、第1期療法の説明でお話した、そのことがらを改めて思い起こしていただきたいですね。思い起こしていただくのは、なるほど考えを思い出していただくことではありますけれど、そこに手段、方法、治し方といったものがまったくない、ということを申し上げているんですね。

 昭和25年というのは1950年でありますが、新しく大本山東福寺、正式には臨済宗東福寺派大本山東福寺なんですね。そこで長らく空席になってました新しい管長職ですね、花園の妙心寺。あの日本で一番大きな禅宗のお寺ですが、そこの僧堂の指導者、お師家しけさんといいますが、恵鏡老師。その字は恵みの恵、それから鏡と書きます、その方が管長としていらっしゃった。

 ついでながら、この昔からありそうな菅長という言葉は明治政府がつくったもので江戸時代まではありませんでした、江戸時代まではただ住職です。

 それで、それまでと違って日曜日に講話を一般の人を対象に始められたんですねえ、今晩のこういう講話みたいに。それで聞かせていただきに参りましたら、袂をこういうふうにまくりあげて、黒板が置いてあります、それに「一法の助くるなし」と、こういわれた。何か心の問題で助けになる方法があるのではない。と、ほんと、びっくりしましてですねえ、こうしたらうまく悩みが解けます。というふうな話かと思ったら全然そうでなかったんです。そんな変なものかなあと、こう皆さんも改めて思われるでしょうが、心の問題の解決にどのような言葉も実は役立たないんですねえ。絶対そこへ言葉を持ち込んではいけませんので、それを、きわめてはっきりと表現されたものですね。よっぽど不思議な、難しい、特殊な訓練を経て、そういう意識のもとに生活ができるようになるのかと、誰しもそう考えてしまいますねえ。何年も難行苦行してお坊さんになった方であって、はじめて到達できる心境か、けっしてそういうものではありませんのです。

 ごくごく普通の、そして今晩この場の皆さんの、この意識で十分でありまして、ただ言葉を使わないんですね。このとき簡単に神経症問題のみならず、心の難しい悩みの様々なものが一挙に解決いたします。

 前の院長は、元 禅の僧侶で三重県上野市にあります山渓寺という、伊賀の上野というのは伊勢の津の、皆さんは藤堂高虎という江戸時代初めの人をご存知でしょうが、その大名の支藩といいまして支店の支ですね、津藩の支藩、一種のブランチですが、その上野の城がありまして、やはり藤堂高虎が築城、城を造るのがうまくて、そこも造ったんですが、その高虎が今の愛媛県の大洲から連れてきた禅の僧侶が初代の住職で、それが宇佐といいました。で、代々のその大名の関係者がそのお寺に葬られている、そういう菩提寺なんです。

 で、そこで心を健康にするのにお寺の説教だけでは到底うまく指導できない。ということに気がついて、それから医学の勉強をすることになるんですね。東京で昔内務省という省庁があったわけですが、そこが主催した人間の様々な性質のあり方についての学者の、たぶん心理学の人の説明があったんですね。それを聞いて痛切にお寺の説教ではうまく救えないと感じて、それから医学の道に進んだんですね。

 そして、幸い今の慈恵医大、当時は医学専門学校と称しておりましたが、そこの精神科の教授が森田正馬先生でありまして、卒業の年1919年(大正8年)が、精神医学では一般に森田療法完成の年と認められているんですね。ですから、ちょうど森田先生がこの治療を編み出して創り上げていかれる途中にお世話になって、それ以来ずっと、卒業以後ですね、この森田療法の最初の病院として、ここに東福寺 のお寺の援助を得まして、空いている二つのお寺を借りて、この病院のもとになる三聖医院というものを開きました。ちょっと解説が長くなりましたが1922年のことでありました。

 それでこの、前の院長は「正法しょうぼうに不思議なし」と、こういう。それを申し上げるためにえらく回り道しましたが、こんなに摩訶不思議な、世間並みの考えを離れた、難しい宗教的な話があるように思えても、実際はなにもそのなかに世間並みでない、妙な理屈をこね回している、変な意識を説いている。ということはなくて、ごくごく日常的な普通の意識で十分なのだ、ということですね。

 ところが、お聞きになる皆さん方が、どう考えても理屈に合わない。ということを、ここの、この森田療法についてでしたらば、症状をほんの少しも治そうとしない、ということについて思われるであろうとお察しいたします。で、わざわざ「正法に不思議なし」といわなければならないのは、宗教の中に、心の問題を扱って普通の理屈と違うことをいってるからですね。あるいは普通の理屈の通らないことを述べているからですね。そうしますと、ますますお聞きになって混乱をきたされるかもしれませんが、わざわざ「正法に不思議なし」といわなければならないのは、その心の問題で理屈に合わない変なことと思える内容の話をするのは、実は心の方は、まったく意識のありかたが違う、筋の通った事柄が逆に脱線であるからなんですねえ。そこのところを抜きにして宗教の話しをお聞きになりますと、もう初めから終わりまでおかしなものです。

 今日お話してますのは、それを精神医学的に、まともにお話の正面にすえて、遠回しでなしに、あからさまに申し上げていますので、この説明のわかるようでわからない感じの部分は、ことごとく自分で見た自分、簡単にいえば心のありかたについて、それがけっして普通の理屈通りでない、論理っていうものを持たないんですね。論理が異なるといういい方、あるいは別種の論理に従うといういい方などがあるのですけれども、そういう AとBという二種類の論理があるわけではなくて、理屈がない、まったくそこに論理性がない、ということをお話しているんですね。けっして特殊な考え方のなにかがあるのではありませんのです。理屈がない、論理性がない。という、それが「正法」であることをいっているのが「正法に不思議なし」ですね。

 おかしいなあと、早く気がついていただいて、普通の世間的な一般の、皆さんが学校で勉強してこられ、あるいはもう日常、普段お使いになっている筋書き通りの、この論理というものは必ず外の世界、皆さんの外にある環境ですね。世間、社会、そういうところにある普通の論理を心の中には持ち込めません、ということです。簡単にいえばそういうことです。そこは、はじめから論理というもののない、身体の高級な発達をとげた一部であるんですね。

 1日24時間、これは正確に地球が回転しますので、太陽は動かない。地球がこう回っている、自転しているわけですねえ。その時間は間違いないんですけども、身体の時間は25時間というリズムで動いておりますことはお聞きになってるかもしれません。だいたいの1日という意味で「概日がいじつ」という言葉を使いまして、医学的にはこういう言葉で25時間を身体のリズムの中に皆さんの日常があるんですね。

 頭と違う。頭の方は24時間に合わせて生活していらっしゃる、時計がそうですから。けれども身体は、そういうふうに1時間ずれたかっこうにリズムがなっているんですね。ずれたというのは24時間のほうを正しいと考えた表現です。けれど事実が事実ですから、これ一つでも身体というものが、外の理屈に合わないものであると。で、そこから生まれてきます心という精神現象ですね、これはもう理屈に合わんわけですねえ。で、外の状況、社会に合わすために、やや無理に自分というものを合わそうとして、中に、これが自分だという自分のイメージを組み立てていらっしゃる、これを自己像というんですねえ。

 そうして無理なく社会生活が、外の状態に合わせてできるように工夫しておられる。そうとうこれ、しんどいのがわかりますね。

 マイセルフというそのセルフ(self)、セルフイメージ(self-image)ですね。そういうものを、あたりまえのことのように作っておられますけれど、これは作られたものでありまして、もう今晩からおやめになってもよい。これが自分だ。これが心だ。これが生きているということだ。という、それは早速おやめになってよろしい。もって作って無理して合わす必要は全然ないですね。

 じゃあどうしたらいいかと申しますと、中の、皆さんのお身体に向かっての方向、もっと具体的にいいますと、皆さんのお考えが脳に対して、この頭の働きに対して、もっとこうなってほしいと思われたにしても、いうことをきかないということですねえ。身体のほうは、変化は、まったく外の状況と食い違った形で進んでおりますから、もうそれはそうしておくほかありませんのです。そうしますと、すぐれた皆さん方のいいお考えは、ことごとく外向きでありまして、外の社会生活上の必要な事柄を次々と処理して進んでいらっしゃるだけでよろしくて、ご自分の心を良い、思い通りの気持ちの良いものにしようというのは土台無理である。ということをあからさまに申し上げているのがこの講話ですねえ。つまり、どうすることも余計な手出しでありまして、したがって、なにか心を練り鍛える。難行苦行して心がしっかりする。というようなことを目指す努力はことごとく失敗に終わるんですね。

 前の院長は、さっきのようなことから大本山であります東福寺の僧堂に入るべきであったんですけれども、そのお師家さんが年をとっておられて、もう弟子は引き受けない。といわれたので同じ臨済宗の大徳寺ですね、皆さんは一休さんがしばらく住職をされたことでご存じの通り、その大徳寺で修行しました、僧堂に入っておりました。ですから、その修行に比べて精神医学的なここでの皆さんの修養生活というもの、本来同じ趣旨であることがよくわかってまして、そして手前味噌みたいですけど、ここのほうが早く真実に目覚める。と、そう私に申しておりました。僧 堂で何年も修行しているよりも、ここのほうが早く悟りが開ける。と、そういう種類のことをいっておりました。

 皆さん方が40日というのは長いと思われるかもしれませんけれど、たいへん短い早い悟り方でここでお治りになるというのは、悟りを開くということですから、絶対そうでなかったら治るわけないので、なにか悟りは、お釈迦さんでも6年かかったというので、たいへん難しいものとお考えになりがちですけど、そうではなくて、お釈迦さんが悟りを開こうとしたことによる、自分に目的をもった失敗で、開けなかったのでありまして、悟りを開こうとする、自分の方に目的をもったやりくりを失敗に終わってからやめた。途端に悟りが開けたんですねえ。それに6年かかってしまったと、こういうわけでありまして、皆さん方は、わずかに40日間でそれを成し遂げられるんですねえ。

 それは一生懸命なされば、その努力はご自分の方へ向いている間は上手くいかないんですねえ。外、人、事柄のほうに目的をもって、そこは皆さんがたいへんご熱心な方々ですから一生懸命なされば、もう今晩この講話が終わるまでに真実に目覚めていただくことが十分、可能です。

 一般には、お釈迦さんでも6年かかるのなら、自分は10年かかるだろうぐらいに謙遜してお考えになりますけど、それは間違いで、真実に生きるのは瞬間的であるよりほかはないんですね。

 常に瞬間、瞬間、皆さん方がありとあらゆる比較、比べることを、例えば治るのと治らないのとの比較をやめて、その事実のままに生活を進められる、この状況を最も純粋な真実の姿と認めてよろしいんですね。ですから、考えが先に整うという必要がまったくありませんから、考えという考え、言葉という言葉、一切をやめにして、そして外のことにだけ言葉を使って、心の問題は何がどうという筋を通したとらえ方、わかり方、知り方、決め方をやめてしまわれるんですねえ。この瞬間をもって真実に生きていらっしゃる、ということができるんですねえ。その脳の働きは、あたかもチンパンジーが自分を、言葉を知りませんから、言葉を使わずに感じているのと同じと見てよろしい、ちょっとわかりやすいかもしれませんですね。

 「これが自分だ」という、セルフイメージを描くことができる人間であってはじめて悩みが生じてくるのでして、それをまた人間ですから上手に解決しようとして、もういっそうまた引っかかるんですねえ。

 とらわれるのも人間らしいことですし、こだわるのも人間らしいことです。どこまでも解決を目指すという、その熱心さは、皆さん方におかれましては、ひと一倍努力家でいらっしゃるんですね、ご自分の解決に完全を目指される。これは一般的な傾向ですが、世間の人は非常に呑気でありまして、思った通りにいかないものだなあ。ということぐらいのことで、簡単にいえば自分の心の問題は、うやむやのうちにあきらめてるみたいなところがあります。ところが、そういうのを世間で「あっ、上手くいってる」と思う、それは間違いであって、ですね、ほんとはどのような考えもそこに持ち込んではだめなのだというところまで、よく見極めておいていただかないといけないですね。いい加減な考えで上手くいくということを、時として世間の人は、そんなに真面目にしなくてもいい。60パーセントぐらいできていれば、まあそれでよいとしなさい。と、そういうふうになぐさめ半分でいう場合がありますけれども、実際には心の問題は、ぴしっと、どのように抽象的に言葉を使ってわかる形にしても、それは本物でない。という、そのへんの徹底した言葉によらない精神生活が、今晩はっきり、ここで講話をお聞きになる最中に言葉から離れるんですねえ、言葉離れ。あるいは一種の離れ業でありますが、それは単に使わないというだけのことで、新しい別の考えを特に必要といたしません。

 で、それで今までのことを自己意識、自分の中で見た自分の姿ですね。あるいは他人がこう見ているだろうと、そういう想像ですね。それを含めて自己意識と申しますが、その中は完全にどうでもよろしいんです。つまり、ちょっとでも決めたら逆に脱線で、何をしてるかわからない。つまりその努力は無駄骨折りであるんですね。ですから自分というものを決めることを、心を磨くといったり、しっかりするといったりですね、世間では大事なことのようにいっているわけですが、それを今晩からおやめになりますと、もう立ちどころに皆さん方の悩みは雲散霧消してですね、悩もうと思えばできますですね。つまり解決しよう、自分の心を良くしようとすれば、悩みとして成り立ちますが、心に言葉を持ち込むことがなかったら、もうその瞬間に神経症の症状、安心、不安の問題、気になる事柄の回答、どれをどうしたらよいかという、人間の知的な論理にもとづく抽象的論理的な考え。というものが成り立たなくなって、自分の扱いというものがいらなくなる。これが、さっき申しました「ああ、こんな楽なもんか」ということなんですね。それは世間の人は絶対、それは皆さん方以外の人が見つけられることはないです。

 学問的に申しますと、人間の知能ですね、頭の外向きの働きというものは、すべてはじめからそういうものであったんですね。外部機構であると、これはもう、なんとも今まで何をしてきたんだろうと思われるでしょうけれども、たいていの方は、なみなみならない苦労をして、ご自分の心の良いあり方を目指す努力を惜しまれませんでした。つまり、良い心の持ち主になろうという努力ですね。これはむしろ世間一般の事柄で、心を問題にしないということは、かえって世間一般では、だめな人間である。心のことをいい加減に考えてるのでは、けっしていい人間になれない、 というふうにまで考えられているんですね。自己啓発書といわれる種類の本が後から後から出てくるわけですし、心を磨くというような本が売れたりもするんですね。

 なんと、皆さん方のお知恵はご自分のためにあるのではない。これ、なにも私一人勝手にこういうことをいってるのではなくて、ちゃんと私が勉強した心理学初歩という本に書かれていた言葉です。

 精神医学を勉強する医師、皆さん方医者になったら当然心理学はよく心得ているだろうと、こう思われるでしょうけれども、医学の勉強に心理学は出てこないんです、精神医学はありますけども。

 ですから心理学は、本で勉強したり心理学の先生から教わったり、つまりここでですねえ。そういう次第で、ちょっと不思議に思われるかもしれませんですねえ。一般に心理学を軽視しているんですねえ、精神医学の人達は。

 ところが前の院長は、元々禅の僧侶であったということもあり、心理学的な研究を続けました。心理学の人との交際がずっとありましてですねえ、昭和11年、1936年に「感覚残像と心的態度との関係に就て」という論文で医学博士になったんですね。

 感覚残像というのは、ある感覚を皆さんが、例えば痛い、例えば赤く見える。というふうに痛覚、視覚など様々ですが、そういう刺激の去った後、つまりそれがなくなった後に残る、しばらく続く感覚をいうんですね。例えば赤いものを約10秒、皆さんご覧になって、ぱっとその赤いものを取り去りますと、その後に薄緑の、もやっとしたもの、だいたい四角ければ、もとの赤い色が四角であったら四角に近い形で薄緑色のものが残ります。そういったものは時間とともに、いっそう薄くぼんやりしてきてやがて消えます。これを感覚残像といいます。例えば細い針金の先を手のひらにぎゅっと押し付けるという道具がありまして、前の院長が作ったんですけど、それでこう、痛いですね、当然。それをぱっとこう、バネがついていて、手を離すとこう、ぱっと痛みが消えますねえ、針金がぱっと上にあがりますから。ところがその後しばらくは痛みに似た感覚が、ずうーっと続くんですえ、何秒か。それが心の状態によって、長引いたり早く消えたりするという、それをまあたいへんな回数、それから協力してくださった大勢の方々のご好意によりまして調べることができたんですね。

 結論を早く申し上げますと、どういう時に長くなるかといいますと、それを感じないようにしよう。と、その見えたり痛みが残ったりするのを早く感じないようにしようとしたら一番長く残った、重要な事柄ですね。

 つまり森田療法的にいえば、皆さん方が治そう治そうと努力しておられるということは、一番その症状を長引かせているということでもあるんですね。

 それに対して、どういう時に短かったかと申しますと、もっと長引かせようとした。その赤いものを、ぱっとのけて薄緑色が見えはじめてから、それをもっと長く見ようとした。そうすると早く消えてしまったんですね、痛みも同様です。 

 それから、こそばい。筆の先をかすかに皮膚に接触させるということもやりました。そのほか痛覚のほかに温覚、つまり温度感覚ですね。熱いのや冷たいのやいろいろやったんですけど、一番はっきりしているのは視覚と痛覚でありましてですね、精神態度でもっと痛みが残るようにと努力したら早く消えてしまったというものです。

 それからもう一つは、そのままにしておいたということですね。で、そのままにしておくのと、もっと長引かせようとしたのと、じゃあどっちが短かったか、これは皆さんもご関心をお持ちになるでしょう。これは変わらなかったんです、結論的に。

 で、ここでいう、あるがまま。森田療法はもうなにがなんでも、あるがまま。ですが、それは言葉のない、あるいは心に意味付けをしない、こういうふうにしようという心を持つんではないんですね。その状況のとうりにほうっておく、感じたままでいる。というそれと、それからもっと症状、皆さんならば不安を強くしよう。気になることをもっと気にしよう。というそれとは同じであったということですね。ですから、わざわざしなくてもあるがままでけっこう早く治るわけです。

 こういうことをした人がなかったのですね。こういうことをもとにして、それで森田療法というものを数字で、治り具合の状況を知ることができるようにしたんですね。

 つまり森田先生の頃でしたら、治ったかどうかというのは森田先生の判断で、その本人さんがいわれるのを聞いて決めておられたんですね。ところが前の院長のは、客観的に治ったかどうかという、その経過を、その感覚残像の長い短いから他人にも分かるように捉えたというんですね、これはほかに例がありませんです。熱心に治そうとした人ほど長引いたんですね。もうこれでお分かりでしょうけれども、いつも申し上げますように神経症のとらわれというのは、治そうとするという、病気でないのにその熱心さが生み出した症状でありまして、治そうとする病気みたいなものですね、病気ではないんですが。

 自分に対して良い状態にしようという努力によって、具合の悪い感じが長く残る。というそれを実験的に明らかにしたんですね。したがって最も具合が悪いのは人間の知能、知性あるいは知恵というものが、自分を助けようと思って努力している間は、残念ながら治ることはないですね。

 自分に対して皆さん方が、じゃあどうしたらいいのかというと、どうもなさらなくてよろしいわけで、ただ頭の中に浮かんでくる、次から次に出てくるその考えのままほっとけば、もうそれで十分満点であるんですね。

 今あるその症状を最も大事な心の間違いないあり方として、宝物のように減らないようにもっていらっしゃれば、もう早速さっそく今晩が全治のおめでたい時を迎えられる。ということでありますから、いくら再発しようが次の瞬間に自分というものを取り上げなければ、ですね、自分というものから治そうとなさらなければ、もうそれで満点でありまして、心に人間らしい考えというものが必要がないという、それをいってるわけですねえ。

 じゃあ、心はいったい誰がどうしたら褒められるのか、ですね。ですからこれ、さっき「一法の助くるなし」という東福寺でのお説教の一部を思い出してお話いたしましたが、そのように心の問題で誰かに頼んで助けてもらう、ということはもういらないわけです。なんのことはない、ご自分持ち。不安な時は不安を、その時の心として大事にもっていらっしゃれば、もうそれでよろしい。ただ、外へ向かっての緊張はたいへん大事ですね。森田先生はよく「君はもっとハラハラしたまえ」と、こういわれたと、これはもう素晴らしい言葉ですね。外へ向かって緊張をうんと高めていらっしゃるという。それでよろしいので、人間の知能とか知性とかいわれるものですね、それはもう自分の方に使わなくなったら飛躍的に皆さん立派なこと、お仕事を成し遂げられる方に変わられるんですね。

 自分の知性を自分のために使おうとしているということが、もう何にもまして、はなはだ具合の悪いことをして自分らしさを、自分であることをだめにしているんですね。

 今、自分らしさといいましたけれども、これはもうまったく無駄な言葉で、世間では自分らしい状態ってものを褒める人、お手本にしようとする立場などがあることはありますけれども、これはまったく無駄です。自分というものを描くこと自体が、間違った自分のあり方をそこから始めることになりますし、それはもうするだけ無駄なんですね。ですから、この自分についてどのようにも言葉が使えないその領域を、皆さんお分かりでしょうけれども、それはほんとは何もいらないんですね。ですけれども世間の人はそこがさみしい、あるいは不安、気になるもんですから、その代わりに宗教家が神様とか仏様という世界を用意して、ですね、宗教の世界っていうのは、心でなんとかしようと間違ってしている人たちをそういうふうに救うんですね。考えは外向きの仕組みですから、ここでは宗教の立場でいいませんから、外へだけ、どんどん皆さんの優れた知能を発揮していらっしゃれば、もう間違いないと、こういう。いくら再発しても次の瞬間は必ず全治であると。これはたいへん助かりますね、後戻りということが全くない。再発ということが起こりえないんですね。次々、外の大事なことに取り組んで進んでさえいらっしゃれば、それでよろしい。こういうのが森田療法ですから、治らないでいらっしゃることができません。

 治そうということだけ、それをやめればよかったんですね。はい、じゃあ、このへんで今日の講話を終わることにいたします。

    2014.6.6




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